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第32話

 喉が痛んだ。咳が出る。手の指先と耳を含んだは顔は熱いくせ、爪先と首は冷たい。水を飲みたかったが起き上がるには身体が重い。節々が固まってしまっている。床の硬さが効いてきているのだ。かといって布団を敷く気にもならなかった。生温い薄布の中の空気にまた意識が遠退いていく。それは甘美なものだった。夏場だというのに寒い。冷夏だというのに暑苦しい。  咳が聞こえ、哀れんでやれば自分のものだ。関節の軋み、肩凝りを堪え眠り続けた。前後不覚と浮遊感に襲われる。 「陸前高田様」  歪んだ声に呼ばれている。女のものだ。名前が出てこない。妻の名前だけしか分からなかったが、彼女は妻でないことだけは分かる。 「陸前高田様。着替えてくださいまし」  小豆喜(あずき)である。頼んだ仕事以上のことをさせてしまった。離れ屋に使用人は来ない。 「あれ……君、帰ったはずじゃ…………」  鼻声だ。それだけでなく咲桜は自分が宙に浮いていることに気付いた。落下に慌てると強い抱擁がある。巴炎に抱き上げられている。恐れた男に覗き込まれている。咄嗟の行動だった。安定した大きな身体を突っ撥ねる。咲桜は床に打ち付けられ、小豆喜は露骨にばつの悪げな呆れた顔をした。着替えを差し出される。 「な、なんで…………」 「わたしでは陸前高田様をお運びできませんでしたので」  彼女と話しているというのに野州山辺の長男はまた咲桜を抱き上げた。無言が威圧的だ。訳の分からない恐怖があった。背中と膝裏の体温に爛れそうだ。暴れた。掛布を畳んでいる小豆喜に手を伸ばす。 「あ、小豆喜ちゃん……!」  彼女は応えなかった。応えたとしても野州山辺の長男はすでに離れ屋を出ようとしていた。 「お、重いでしょ、旦那………降ろしてくださいな」 「重くない」  遠回しな言い方では、離れたい、触られたくないという意図が伝わらないらしい。 「旦那……」 「今は、君の健康が先だ。部屋に着くまでは、どうか、我慢して欲しい」  巴炎の顔が見られない。彼がどういう表情で、どういう目をしていたのかもまるきり分からない。声音は普段より少し落としてある。しかし怒気は感じられない。  太い腕に支えられながら咲桜は咳をした。 「気付かずにすまなかった」 「な、何に……?」 「君の体調が芳しくなかったことに……」  身体に当たる体温は高い。しかし咲桜は寒気を覚えずにいられなかった。何故この男に体調を察知されねばならないのだろう。身を縮める。だがそれだけ巴炎の支える力が強くなる。 「だ、んなの知るところじゃねぇですよ、オレの体調如何なんぞは」  引き攣った笑みを貼り付ける。 「そうだろうか」  お手付きの、つまり交合(まぐわ)いを経た村娘たちの健康状態を彼は立場上、把握しているのだろう。しかし咲桜は村娘ではない。退屈なほど丁寧に、繊細に、休み休み優しく抱かれた側ではない。ある意味では激しく求められ深々と抱かれたようなものだが、やはり形式にしろ、伴った感情にしろ村娘と契るのとは違う。 「そうです……」  相槌は消え入った。それからもう会話はなかった。主屋に上がり、すでに敷かれていた布団に寝かされた。小豆喜から渡された着替えを巴炎の大きな手が掴む。脱がされるのだ。それはあの忌まわしい行いの布石に違いない。咲桜はまた慄然とした。 「自分で、着替えられますから……」  戯けた態度を繕っていられない。 「そうか」 「もう寝ます。遅くにすみません。ありがとうございました」  小さな咳をして、着替えを引き寄せる。彼は自分が暴漢に怯える女のようになるとは思わなかった。妻を除き、同じ抱くにしても一夜の女の素性はよく知らなかった。あったとしても金銭のやり取り、あるいは凹凸の利が一致していた。だからこそ成り立っていた。人柄に惚れ、肉体に魅せられ、離れがたいのは妻だけである。それから、―― 「山鳩さんをお呼びしますか」  なかなか着替えの手につかない咲桜に稲城長沼の声が降る。襖を後ろ手に閉めているところだった。 「いいよ、休ませておいてあげて。火子(あかね)お嬢ちゃんはどうしてる?」  訊ねながら着替えた。温度のない生地が心地良い。 「陸前高田様に怯え、始終火子お嬢様から離れない状況です」  稲城長沼の忖度しない物言いに咲桜もいくらか調子が戻る。 「稲城くんはどう?調子」 「特にこれということはございません」 「そう。オレはもう寝るよ、風邪っぴきみたいだし。やぁね、まったく……」  肉体を弄ばれた疲労と、薬を分解した負担、欲熱に茹でられ、身体は忙しい。横になると、目蓋が重くなった。 「添い寝してくれるならお春菜(はな)さんがいい」  軽口を叩いた直後にふ…っと意識が途絶えた。  肌の火照りを冷たく柔らかく拭い取られていく。最初は強張った腕が段々と弛緩し、やがて受け入れる。胸元に入った腕を取る。感触から誰何(すいか)するだけの思考はなかった。上体を起こされ、じとりとした背中に空気が入り込む。 「陸前高田くん………」  眠気の中に閃きが起こった。熱いやかんを触ったときのように咲桜は気配を撥ねる。反動によって布団に転がった。目が覚める。息が上がった。 「お父様」  火子もいる。安堵が意識を連れ去っていく。耳鳴りがした。喉が痛む。 「お嬢ちゃん……」  恐ろしい者がいる反対側に火子がいた。少女に縋り付く。後ろには脅威が迫っている。冷たい手が咲桜の汗ばんだ指先を包む。 「怖い………お嬢ちゃん、怖………助け、て…………」  恐ろしいものがあるのだ。咲桜は底無し沼に、彼女は岸にいる。足を引っ張られているのだ。底無し沼の奥深くから、足を引っ張られ、新たな住人を求めているのだ。それか、人喰い大魚がいるのだ。追いつかれたら、ひとたまりもない。身体を支配する熱が彼にそういう幻想を、そういう情緒を植え付ける。 「陸前先生?どこか苦しいんですの?」  亡者が、人喰い大魚が、飢えた狂犬が、羆がいるのだ。それを伝えられない。咲桜は彼女の部屋の(ふな)みたいに口をぱくぱくした。背後に来ている。おどろおどろしい怪物が手を伸ばしている。 「お父様、あたくし、お医者様を……」  動こうとする火子の腕を放せない。咲桜はぶんぶんと首を振った。怪物が怖いのだ。 「私は、席を外そう」  火子は不思議そうに咲桜の背後にいる父親を見ていた。まもなく襖の開閉が聞こえた。 「お父様と何か………ありましたの?」  咲桜は仰向けのまま顔を掌で隠した。安堵と、急激な羞恥心と、気怠さが一気に押し寄せる。 「ない。何も……」 「……本当ね?あたくし、それを信じていいのね?」  咲桜は目を逸らした。肯定も否定もできない。娘に父親の秘事を打ち明けることなどできない。 「ごめん、お嬢ちゃん」  小さな溜息が聞こえた。それは呆れや落胆ではないのだろう。 「……あたくしそろそろ行きます。今日はご入浴は控えることです。いいですわね」 「山鳩クンは?山鳩クンと入りたい」 「もしあなたが倒れでもしたら翠鳥が可哀想です」 「そっか。分かった。我慢する」  普段の火子に戻り、咲桜はへらへら笑った。彼女は落ちていたらしい手巾をまた水に浸し、冷ましてから咲桜の額に乗せて部屋へと帰った。人の気配のなくなった無臭の静けさに意識を溶かす。咳と熱だけでなく頭痛も出始めてきている。額の内部に細い針金を刺されるような疼きがある。  この夜は激しく(うな)された。野州山辺の長男に乗られ、睦言を囁かれるのだ。逞しく、優秀な牡としか言いようのない肉体に押さえられては逃げられない。筋肉の形が分かるほどは隆起した腿に腰を挟まれ、目の前を大振りな象徴が上下する。彼の腹に咥えているものと平行になっている。一瞬一瞬浮いて離された箇所には楔が打ち込まれ、それを他人の器官のように咲桜は眺めていた。感覚はない。巨体が活力を伴って落ちてくる重さ、苦しさは生々しいが、楔が固く(そび)える理由になるだけのものは得られない。疲労による体温の高上はあれども、局所的な熱もない。  ここに居られなくなる。可憐な幼馴染たちの仲睦まじい様を見ていたい。怠惰で新しい住処と生活を気に入っている。起きて飯を食って、寝る生活を。何の仕事もせず、使用人を顎で遣い、先生として屋敷の主から慕われる。そのツケだ。売春婦には金を払う、飯を食わせ寝ぐらを貸すこともある。渦巻いていた不安が夢の中で解決した。途端に目が開く。すでに朝だった。野州山辺の長男に肉体を払わなければならなかったのだ。飛び起きた。涼しい夏場の空気が寒く感じられた。暗闇の中で歩くような覚束なさがあったが、壁に手を付けばどうということもなかった。通りかかった使用人に巴炎の場所を聞いた。朝の散歩をしているらしかった。咲桜の病熱に浮かされ爛々としつつも反対に活気に溢れた眼は肉体の健康とはまた別の病的な感じがあった。引き摺るように外に出て、庭園に佇む巴炎を見つけた。彼もまた歩きながら寝ているような危うい食客に気付くと、目を丸くして駆け寄ってきた。 「陸前くん」 「旦那、だんな……すんませんでした」 「な、何が……君が謝ることは何も…………」  年下男を支えようとした手は躊躇いがちに宙を掴んで落ちていった。咲桜のほうが上手く均衡を保てず巴炎を頼る。質の良い羽織の袖を皺まみれにしてしまう。 「旦那にツケてばかりで、旦那に素気無くしちまいましたでしょ」 「何の話だろうか。ツケとは……」 「借りってことですよ。食って寝るだけの生活には、それなりの代償があったはずなんです。オレは無銭飲食をしたんです、無銭飲食を……」  巴炎の腕が強く風邪男の肩を掴んだ。 「どこで?私も共に謝りに行く。共に罪を償う……すぐに自首を…………」  首を振った。話が伝わらない。視界が融解していく。涼しい夏の朝の光が熱い。玉砂利の眩しさが目を射す。 「旦那に……野州山辺サン()に、」  野州山辺の長男は辺りを見回す。鬼雀茶(きがらちゃ)衆は近くにいないらしい。 「具合が悪いようだ。歩けるかい?少し休もう」  色濃い陰を落とす四阿(あずまや)に促される。巴炎は座らず、くたりと背を預ける咲桜の膝の前に屈み込んだ。 「水をもらってくる」 「だいじょぶです。オレ、謝りに来ただけなんで。すぐ戻りますよ。戻れます。旦那の時間を潰しちゃ悪ぃです」  野州山辺の当主は汗ばんでいる咲桜を見上げ思案している様子だった。 「水をもらってくる。待っていてくれ」  今夏はまだ蜃気楼も陽炎も、逃げ水すらも見ていない。だが巴炎の後ろ姿が揺らめいてみえた。背中が滑り、座面に寝転ぶ。この地域はやはり涼しかった。氷になった気分だ。そして水になる。横向きになった視界ごと。霞んだ庭園に少年が現れた。雑巾と見紛う粗末な衣は仕事着だ。彼は四阿で具合の悪そうに寝転ぶ人の姿に気付くやいなや、走り寄ってきた。 「咲桜様!」  彼は顔を曇らせていた。他人の汗も厭わず、指の背や手の甲で咲桜の頬や額を拭った。無理矢理に身体を暴かれたこの子供に強い愛着を覚えた。自由の利きづらい重い腕を伸ばし、胴を浮かせる。 「翠鳥…………」  骨張った背中を抱き寄せる。普段は高いと思っていた体温が無に感じられる。硬い毛先に頬擦りする。 「咲桜様、体調悪いんですか」 「だいじょぶ……」 「だいじょぶじゃないです!お胸に穴空いちゃったら大変です。火子ちゃんも心配します。お部屋、戻りましょ。おで、手伝いますから」  少年の腕が茹だってじとりと汗に濡れている背に回った。 「………咲桜様、行きましょ。カラダ冷やしちゃダメです」  両腕が山鳩を求めている。どこにも隙間を作らず密着する。このままどこにも動きたくなかった。骨と肉がこの少年の体躯に馴染んでいる。 「翠鳥、一緒にいてくれる?」 「ちゃんと寝てくれるですか……」 「うん。薬も飲むし、ちゃんと寝る……」  頬同士が擦れ合う。さっくりと焼けた餅の内部のような柔らかさと滑らかさに咲桜は目を眇めた。助け起こそうとする手に応えようとしたとき、山鳩は四阿の口を振り返った。巴炎が水の入った器を持って立ち竦んでいる。 「お、おはようございます。お屋形様」 「おはよう。君が、陸前高田くんを連れていってくれるのかい」  山鳩は頭を下げた。巴炎はどこか悲哀を帯びた微笑をみせる。 「はい」 「彼を頼むよ」  野州山辺の長男は咲桜のところには来なかった。器を握り庭園の奥に引き込まれたように歩いていった。 「翠鳥」  屋敷の主人を気にしている翠鳥を構った。 「ごめんなさいです。行きましょ」  咲桜は少年に凭れかかり、縋り付き、組み付いて、絡んだ。青藍(あおい)や稲城長沼の目は無い。捲られた掛布団の上に山鳩を抱き締めて倒れ込んだ。血色の良い唇をなぞる。激しい情交のあと、よく休めたらしい。 「咲桜様………ダメです、お休みしないと…………」  少年は顔を真っ赤に染めて俯いた。あざとさがあるが、彼からしてみれば無意識なのだろう。そしてその無自覚なあざとさに気付いておきながら、野州山辺の次男も、被虐的な忍びも、そして感冒を患っている男も山鳩に弱いのだ。 「何もしない。だいじょぶ。翠鳥は、ここにいて」  腰を寄せ、布団を掛ける。屋敷の匂いと山鳩の匂いがした。顔面や首に傷んだ毛先が刺さる。胸や腹や腰、脚に密着している躯体は、青藍の乱暴に耐えている。 「怖いなぁ」  咲桜は呟いた。居場所が欲しいなら肉体を捧げねばならないのだ。この少年も耐え抜いてきたことだ。咲桜は子供に顔を埋めた。 「咲桜さま、泣いてるの………?」 「泣いてないよ」 「泣いてます」  ぺたぺたとした指が咲桜の目元に触れた。 「カラダがしんどい時、いろんなコトが怖くなっちゃうって聞いたコトある」  涙を取っていく手を噛みたくなった。胼胝(たこ)肉刺(まめ)、逆剥けのある幼い手を唇で食んだ。 「咲桜さま」  戸惑った目とぶつかった。 「翠鳥はいい子だね」  ぼさぼさの髪を梳くと、少年は頭突きをするように自ら咲桜の胸元へ潜り込み、しがみつかれる。彼の纏う雰囲気が変わった。甘えるような、寂しがるようなものに変わる。脇腹に巻き付く人の体温が心地良い。硬い毛先に指を突っ込みながら二度寝に沈んでいく。  寝返りを何度かうった覚えがある。啜り泣くような声が聞こえ、同衾(どうきん)しているはずの子供を憐れんだ。華奢ながらも筋肉のある体躯を探した。何も掴めず、手は敷妙に落ちる。 『ぃ、やぁ………ッ』  欷泣(ききゅう)が胸に痛い。寝返りをうつ。 「貴方が悪いんですよ」  耳元に吐息が当たる。聞き慣れない声だ。 「貴方が悪いんだ」  明るさからいって昼過ぎだろう。くらりと眩暈がした。起き上がる。共に寝た相手が見つからない。だが香染目がいる。両手の拘束された山鳩が頭を振り乱した。嫋やかな美少年の腕は粗末な衣を割り開き、股座を弄っている。喉の痛みを抑え、咲桜は細く息を吐いた。結ばれた両腕の奥で涙ぐんだ目が助けを乞う。 「山鳩クンを返して」 「遊んだんですよね、たくさん」  腹喋りでない彼の声は見た目に反して掠れた質感がある。 「(あそ)んだのはそっちでしょ」  目元を擦った。山鳩を受け取るために腕を広げたが、香染目は渡そうとしない。肉体の持主同様に歔欷(きょき)する小振りな性器を褻涜(せっとく)している。 「返して」 「返したところで貴方は、この人の何でもないじゃないですか」 「いや?恋人みたいなものだけど?」  小さく咳をする。痰が絡んだ。深追いすると喉奥を引っ掻かれたような疼きを残す。貴重な鼻紙を消費した。 「ぁっんんッ!」  白魚を思わせる指が泥臭さのある少年の弱い先端を捏ね繰り回す。 「人の恋人(もん)触りなさんな」 「この人は他に好い人がいるんですよ。貴方の出る幕はないです」 「なんで、それ……っや、ぁっン」  黙ってろとばかりに手甲を嵌めた腕が上下に動いた。かと思うと、泣いて潤む先端を抓った。 「あっうぅんんッ!」 「やめろ。壊すな」  山鳩を引っ張れば、香染目は押さえ込んだりしなかった。下半身を生殺しにされた身体を受け取る。少女と紛う美しい若忍びを睨め付けながら解放に向けた手淫を施す。びくりと跳ねる山鳩を強く抱き締めて放さない。 「ぁっん……」 「このまま出しちゃいな」  粘涙を利用し扱く。被っている薄い皮が自涜とは異なる手触りだった。 「咲桜さ、ま…………」 「若様も7代目も貴方も、その色小姓に騙されているんです」 「そうかな」  過敏なところを指の腹で抉る。快感に震える様が可愛らしい。しかし咲桜の目は暗闇にも光りそうな美少年を見ていた。 「ァっ……ぁっん、」 「そうして陸前高田様を甘い声で誘っているんです」 「山鳩クンに何か恨みある?あの変なお茶も、ホントは山鳩クンが飲むコト見越してたんじゃないの」  扱く手を強めた。だが乱暴にはしない。 「ぁう……んっんぁ………っ!」 「まさか。色小姓を発情させてどうするんです」 「じゃあお嬢ちゃんに飲ませて好き放題するつもりだったんだ」 「火子お嬢ちゃ………ぁっんく、」  何か言いかける可憐な唇を咲桜は同じ場所で塞いだ。欲熱と病熱がぶつかり、静電気のような痺れが翔る。そして蕩けた。ほんの一瞬の出来事だったが、美少年は白い皮膚に皺を作って顔を背けかける。 「旦那に言いなよ、娘くれってさ」  香染目は蝋燭の火が吹き消えるような笑みを浮かべた。言えるはずがない。野州山辺という家に、被差別社会の生まれの者が婿入りなどできるはずがない。たとえ巴炎一個人が許したとしても、村社会が許さない。冗談や寝言では済まなくなり、場合によっては野州山辺の娘を辱めたとさえ受け取られかねなかった。市井の色恋沙汰と同じではない。そこに告白の自由はない。罪深いことである。咎ももちろんある。また娘への疑惑も持ち上がる。 「ぅんんっ……ぁァ…」 「呑気ですね、貴方は………」 「もしかして惚れ薬失敗して山鳩クンにバレたのは痛手だったかぃや」  (かよわ)げな面構えの若い忍びは目を逸らした。 「若旦那のことで君には訊きたいことがあるんだよね」 「全部貴方がいけないんです。貴方が野州山辺の人々を掻き回すような人だから……」 「なんでもかんでもオレの所為(せい)かよ」  低い声で唸った途端に掌で飛沫を感じた。粘度のあるそれが冷たく感じられる。 「お屋形様は嘘をおっしゃっている。若様はそれに憤慨しておいででした。貴方と心中を決意するほどに……だから、死んだんです。いいえ、私が(かく)して差し上げた」  身体中の血液が沸騰した。体温が上がり、咳き込んでしまう。 「和泉砂川 鹿楓(かえで)様はそんなお綺麗な方じゃなかったそうですよ。そんな、善人薄命みたいな……私も会ったことはありませんがね」  香染目の眼差しは冷ややかだ。まず色小姓に侮蔑をくれ、咲桜には多少の憐憫が混じっていた。彼は徐ろに立ち上がった。 「私は若様に拾われた身です。若様がお(かくれ)同然になった今、私は野州山辺に何の恩も無いんです」  美少年はひょいひょいと忍び装束を脱いでいく。 「私も普通の生まれでありたかった」  野州山辺の当主に娘の求婚を申し出ろ。この一言はおそらく彼が受けてきた中で最も重い暴言に違いなかった。 「兵隊にとられるよ」 「だとしても、言いたいことは言えたはずです」  揺らめいた後姿は忍びとしてではなく、人ひとりとして襖に消えていった。咲桜は菊任組を呼ぶ指笛を吹いた。  山鳩に知れたなら火子にその不信感が伝わるだろう。山鳩に煎茶を奪われたときから香染目の企みは失敗していたのかも知れない。否、青藍の昏睡状態から暫くの間、邪魔な家庭教師を遠去け、貴い娘の傍に居られた。彼の野望はわずかながら果たされたのだろう。  菊任組は小豆喜を含め6人いた。香染目を捕縛するのはそう難しいことではなかった。三河安城家の忍びたちが野州山辺抱えの忍びを捕らえたことで、屋敷のなかは物々しかった。そしてそれを主導したのが野州山辺の客人だというから事態は複雑になった。風邪(ふうじゃ)を患い床に就く咲桜の周りを巴炎と火子と、それから介護付きで青藍も形式上並んだ。対面には三河安城が豪胆な態度で座している。鬼雀茶衆からひとり稲城長沼と残留した菊任組6人もそれぞれ脇に控えていた。  こういう場に於いても騒がしげな三河安城は白い歯を見せ笑っているばかりで、静寂のなかに響くのは咲桜の咳のみである。咲桜としては火子には何も知れて欲しくなかった。 「香染目くんはどうしているんです」  咳が落ち着いてから口を開いた。まるでこのまだ活気の残っている感冒患者を看取ろうとでもしているかのような雰囲気だ。 「座敷牢におります」  火子の口調はぴしゃりと強かった。 「そう。そりゃよかった。淡雪みたいに消えちまいそうだったから」  にかりと咲桜が笑っても、彼女は思い詰めたように顔を伏せるだけだった。

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