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夏祭りに行く話

 肌に刺さる日の光。イヤフォンを通り抜けて鼓膜に響くツクツクボウシの大合唱。アスファルトが焦げる臭いと、不意に見上げた空の青色。その全てが熱に変換され身体を包んでいく。 「あっちぃ……」  思わず漏れた声に同意するかのように、側を通った女子高生達も暑い、暑いと口に出した。毎日のように更新される過去最高記録の暑さに包まれる街の中を歩けばそれだけで汗が吹き出し、体力が奪われていくような心地がする。今日は週に一日だけ入れている大学時代にお世話になった老夫婦が営む喫茶店のホールスタッフのアルバイトをした後だからだろうか。疲れた身体へ余計に暑さが染みた。  家までは後、徒歩十数分。近くの大通りへ出てバスかタクシーにでも乗ろうか。そうも考えたが、せっかく駅前からここまで歩いてきたのに――という謎のプライドというか勿体ない意識が働いて、俺は脳内で散々文句を言いながらも結局歩いて家へ帰ることにした。  それにしても暑い。俺はやっと辿り着いた日陰で立ち止まると、背負っているリュックのサイドポケットから水の入ったペットボトルを取り出す。そして、ここに来るまでにもう半分以上飲み干してしまった水を一気に喉へ流し込んだ。  大きく息を吐き出し、ゆっくりと頬を伝う汗を拭う。そのとき、ふとフェンスに引っかかっている何かのフライヤーが目に入った。 「……夏祭り」  大きく赤い字で書かれたそれをゆっくりと読み上げる。ただ、イベントの名前を口にしただけだというのに、俺の心はやけに浮き足立ってしまっていた。 「拓兎、今週の日曜の晩って空いてるか?」  家に帰って俺は真っ先に拓兎の仕事部屋に向かうと、ドアを開けながら開口一番そういった。部屋に入った瞬間冷たい冷気が身体を包む。汗が一気に冷やされて身体を震わせると、パソコンに向かって何やら打ち込んでいた拓兎がその手を止め足早にこちらへやってきた。そして、何も言わず自分が羽織っていたタオルケットで俺の身体を包み込む。  何故、この男は冷房をガンガンに効かせて長袖を着てさらにタオルケットまでは織っていたのだろうか。適温にして半袖で過ごすという選択肢はなかったのか。そんなことを思っていた俺の頭は、拓兎の「おかえり」の声と抱擁によって糸も簡単に溶かされてしまった。 「た、ただいま……」  俺の返事を満足そうに聞くと拓兎はしばらく俺を抱きしめ、その後部屋に置いてあるソファに俺を座らせると、仕事机に置いてある黒い革表紙の手帳を開いた。外の気温とは全く関係のない熱にのぼせてしまっていた俺は、一瞬拓兎が何をしているのかわからなかったが、拓兎の発言に自分がこの部屋に入るときに何を言ったのかを思い出した。 「日曜日の晩、だったな」 「あ――そう! そう、なんだけど、別に予定があったり次の日に仕事があったりするなら、」 「いや、問題ない。日曜日の朝にテレビのインタビュー収録があるが……昼前には終わるだろう。うん。夜なら大丈夫だ。なんだ、デートのお誘いか? それなら、仕事をキャンセルしてでも行くぞ」  跳ねるような楽しげな声でそう言うと、拓兎は勢いよく俺の隣に腰を下ろした。そしてそのまま誘惑するように俺の肩に手を回した。グッと顔が近くなる。デートと言われてしまったせいか妙に意識してしまう。ただ、夏祭りに誘うだけなのに。 「で、どこに行きたいんだ?」 「夏祭り。近所の神社であるやつ」 「そういえばそんな時期か……懐かしいな。夏祭りに一緒に行くなんて、何気に高三以来じゃないか?」  確かに、思い返してみればそうだ。大学に入ってからは一度も夏祭りに行ったことはなかったし、働き始めてからはいつどこで夏祭りが開催されているかさえ知らないままに夏が過ぎた。どれだけ記憶を辿っても、やはり一番新しい夏祭りに関しての記憶は高校三年生のあの夏の日の記憶だ。  好き合っていたけれど付き合ってはおらず、でも触れあうだけとはいえ身体の関係を持っていた、今振り返ればかなり可笑しな関係を結んでいたあの頃のあの夏の日。人混みの中、はぐれないように触れあった指先を絡め、片方が買ったかき氷を二人で分けながら食べ、花火が上がる頃には人のいない所謂穴場へ行って二人きりで花火を見る。まるで、カップルのようなことをしながら、酷く背徳的なことをしているような気がしてなんだかとてつもなく苦しかったような、そんな記憶がある。 「楽しもうな」  優しい拓兎の声に思わずハッとする。何処か寂しそうな、でも嬉しそうな目をする拓兎に向かって何度も頷けば、優しく頭を撫でられた。  そうだ。楽しもう。もう俺達は正式に恋人同士なのだから。ただ、強いて言うならば―― 「ちゃんと、変装はしろよ。ばれるのよくないだろう」 「は? しないが? ばれても何の問題もないが?」 「いや、あるんだよ。ファンに絡まれるだろう」 「それは問題ないし、」 「そしたら、デートじゃなくなる」  その一言に拓兎は完全に動きを止めた。丸くなるオニキスの瞳が面白くて吹き出すと、拓兎の時が動き始める。半ば押し倒されるような形で抱きしめられ、目と目が合えば自然と唇までもが重なり合った。 「楽しみだな」  笑いながらにこぼれ落ちた拓兎のその声は、何故か少し涙混じりだった。  日曜日の午後六時。まだ僅かながらに明るい空の下、俺は「せっかくのデートなんだから、待ち合わせをしたい」と言った拓兎のことを、祭が開かれる神社の入り口で待っていた。結構大きな神社でやるお祭りのためか、入り口から見ただけでもかなりの数の出店が並び、たくさんの人々が行き来している。  時々、浴衣を着た高校生くらいのカップルを見ては感傷に浸りながらスマートフォンを弄っていると、「お待たせ」と待ち焦がれた声が聞こえて顔を上げた。するとそこには、いつもの黒縁眼鏡とは違い、セルの細い丸眼鏡をかけ、黒地にフードの部分だけ黒い半袖パーカーに黒い半ズボンをはいた拓兎が立っていた。いつも外に出るときに比べればかなりラフな格好だ。変装と言えるかどうかは微妙だし、正直アウトかセーフかで判定するならアウトよりだが――なんだか、学生時代を思い出して笑ってしまった。 「なんだよ。そんなに似合ってなかったか?」 「いや、そうじゃねぇんだけど……ふふ、お前はいつもがお洒落すぎるんだよなぁ」 「近所の祭だろ? この位のラフさで問題ないだろう」 「そうだな。それに、そっちの方が俺の知ってる拓兎って感じがして好き」  何か可笑しなことを言っただろうか。拓兎は急に顔を赤くして目を逸らしたかと思えば、しばらく考え込み、今度は俺の顔をのぞき込んだ。かなり近い。自然と周りの視線が集まってくるのがわかった。 「ちょ、拓兎、」 「お前、酔ってるんじゃないだろうな?」 「はぁ? なんでだよ」 「お前が、その、そうやって素直に好きって言ってくれるの、中々珍しいだろう。でも、酔ってるときには結構口数多くなるからさ、」 「酔ってない。でも、うん。ちょっとテンションは上がってるかもな」  まだ、祭の雰囲気に酔うには早いが、頬の熱は確かに高くなっている。夏祭りというものは、こんなにも、その場に足を踏み入れる前から楽しくて仕方がないものであっただろうか。先ほど口元が緩みっぱなしで、少し恥ずかしくなってきた。 「……よし、行こうか。はぐれないように手を繋いで、な?」 「お、おう……あんまり、目立たないようにだけは、気をつけないと、」 「大丈夫。これだけ人がいるんだ。誰も俺達の事なんて気にしないよ」  それもそう、だろうか。まだ少し不安だが、それでも拓兎と手を繋ぎたいという欲の方が勝ってしまい、俺は差出された白い手に少し日焼けした自分の手を重ねた。きゅっと指を絡めると、拓兎はにやりと笑い俺の手を引いた。 「思ったよりたくさんで店が出ているな。どこに行く?」  まるで子供のようにはしゃぐ拓兎の顔に胸がときめく。そう、浅木拓兎はこういう男なのだ。テレビや雑誌でインタビューを受けるタクトはさも毅然に振る舞う大人に見えるが、本当の拓兎はこうやってはしゃぎ、笑う子供のような無邪気さを持った男なのだ。それを知っているのは、俺だけではないけれど――でも俺は大勢の人々が知っているタクトとは違う彼の事を知る数少ない人間なのだと。今、このタイミングで、何故かそんなことを再確認して胸の奥がむずむずし始める。  それを隠すように俺は拓兎の質問に答えるように、焼きトウモロコシの屋台を指さした。 「お、いいな。焼きもろこし」 「懐かしいよな。小学生の頃さ、二人で一本ずつ買ったけど、結局二人とも全部食べきれなくてさ」 「あー! 懐かしいな! 結局持って帰って父さんに食わせたっけ」 「うちは母さんの酒のつまみになってたなぁ」 「はは、晶子さんが焼きもろこし片手にビール飲んでるところ、すっげぇ目に浮かぶな」 「……なんか、その光景思い出したせいか無性にビール飲みたくなってきたな」 「いいな。どうせならその場で食わなきゃいけないもの以外は持ち帰って、家でそれ食いながら酒飲むか」 「最高。そうしよう」  俺は早速焼きもろこし屋のおじさんに焼きもろこしを二個、持ち帰りで頼む。お金を払い、屋台に寄る前から漂っていた焦がし醤油の良い匂いを胸いっぱい吸って堪能していると、ものの数十秒で袋に入れられた焼きもろこしが手渡された。いざ渡されるとこの場で齧り付きたくなる。溢れ出る唾液を飲み込むと、手を繋ぎ直した拓兎が楽しそうに笑った。 「一本くらいなら食べても良いんじゃないか?」 「帰って食べるの減っちゃうぞ?」 「別に、食べるの焼きもろこしだけじゃないから良いだろ。焼きそばとか、イカ焼きとか、たこ焼きとか、フライドポテトとか」  だから、いいよ。そう言う拓兎に甘えて、俺は拓兎の手をほどくと、袋の中から一本、焼きもろこしを取り出すと、勢いよくそれに噛みついた。くしゃりと黄色い粒が弾ける。トウモロコシの甘さと焦がし醤油の香ばしさが口いっぱいに広がって、一気に口の中が幸せでいっぱいになった。夢中になって口いっぱいにトウモロコシを頬張ると、拓兎が眼を細めながらにこちらを見ているのに気がついた。  どうかしたのだろうか。尋ねるように目を見つめ首をかしげると、拓兎は口元に手を当て静かに口を開いた。 「可愛い」 「むぐっ!?」 「こら、吐き出すなよ。お行儀が悪い。ふふ……驚く真も可愛いなぁ」 「お前、なあ……」  叱るのか愛おしむのかどちらかにして欲しい。俺は溜息を吐くと、焼きもろこしを独り占めしながら、拓兎の手を握った。 「ほら、他の店も見ようぜ」 「わかった、わかった。はしゃぐな、はしゃぐな」  満面の笑みとともにまるで保護者のような台詞を口にする拓兎に、少し腹を立てつつも、俺はできるだけ赤くなった顔を見られないように俯きがちに別の出店へと足を進めた。  どれくらい出店を回っただろうか。たこ焼き。焼きそば。途中でベビーカステラを頬張って。イカ焼き。金魚すくいでは互いに一匹も釣れず。射的で拓兎が落とした駄菓子が飲みの甘味に加わり。年甲斐もなく、女子高生に混ざって電球ソーダなんて買ってみたりして。はしゃぎ合って、笑い合って、そろそろ疲れたという頃に、拓兎があっと声を上げた。 「林檎飴買おう」 「お前、好きだな。林檎」 「小さい頃からおやつと言えば林檎だったからな。ばあちゃんの作るお菓子も大抵林檎料理だったし」  アップルパイに、タルトタタン。コンポート……と拓兎は焼きそばとたこ焼きが入ったビニールの袋を片手にぼんやり呟く。すると俺の頭の中にも、おぼろげに拓兎のおばあちゃんの記憶が蘇ってきた。小学校時代の長期休暇になると現われるその人は、拓兎のお父さんのお母さんで、名前をクリスティーナさんと言った。凛としていて、かっこいい女性だ。今は故郷のドイツで旦那さん、つまり拓兎のおじいさんと愛犬二匹――ドーベルマンとミニチュア・シュナウザーだと言っていた――と一緒に暮らしているそうだ。今でも時々、彼女から俺宛にEメールが届く。そういえば、拓兎と正式に付き合い始めたと報告したときも、メールが届いて……急に帰国したクリスさんに呼び出されて二人きりでお茶をしたことがあったっけ。  そんな昨日のことのような、一年ほど前のことを思い出していると、林檎飴の出店へ辿り着く。オレンジの電球に照らされる深紅のべっこう飴を纏ったそれは、まるで宝石のように輝いて見えた。拓兎はチラリとこちらを見ると、一本だけ林檎飴を頼み、店員から飴を受け取ると、それを俺に渡してきた。如何したのだろうか。自分が食べるのではなかったのだろうか。 「食べるぜ、勿論」 「はぁ? じゃあ、なんで、」 「まあ、まあ。そろそろ疲れたし、あっちの方で休もう。確か池の前にベンチがあったはずだ」  そう言って、彼は人が少なく薄ら暗い池の方を指さした。頭から疑問符が消えてくれない。彼の後を追って池の側へ行くと――人の熱気から僅かながらに離れているからだろうか――少し涼しく感じられた。  こっちだ、と拓兎がやや朽ちた木のベンチの方へ俺を手招く。彼の言うとおりベンチに腰を下ろすと、楽しさによって掻き消されていた疲労が一気に身体へと滲み出てきた。主に足がきつい。そんなに歩いただろうか。  一旦休憩しようと食べ物の入ったビニール袋をベンチに置く。さて、この林檎飴をどうしようかと頭を捻らせたところで、隣に座った拓兎が笑いかけてきた。 「食べさせてくれないか?」  何を。そう、答えの分かりきった質問をすると、拓兎は笑顔のまま林檎飴にかかっていたプラスチックの袋を剥いだ。そして、僅かに口を開き、静止する。 「……熱にやられたか?」 「つれないこと言うなよ。これはな、真。高校時代のリベンジだ」 「リベンジ?」 「あの時は「人目が」とかいって、してくれなかっただろう」  酷く切なげな顔。その笑顔と、高校三年生の夏のセピア色の拓兎の笑顔が重なった。  脳裏を灯す提灯の明かり。楽しげな人々の声と、近くの民家から聞こえた風鈴の音。  林檎飴が食べたいと、出店に行って財布を開いた瞬間、苦い顔をした拓兎に「しかたないな」と言って林檎飴を買った。飴を店員から受け取って店から離れ、拓兎に飴を渡そうとしたとき、そういえば先ほどと同じ事を聞かれたのだ。 「食べさせてくれないか?」と。  でも、当時の俺は、まだ拓兎と恋人同士ではなくて、そして何よりあの名前のついていない関係に酷く罪悪感と背徳感を覚えていて。そんなことをしても良いのかと言う気持ちでいっぱいになって。俺は何を言われても良いけど、この光景を、誰かに見られることで拓兎が指を刺され好奇の目に触れると考えると酷く怖くて――ようは、出来なかったのだ。しなかったのだ。拓兎の口に赤い果実を差出すことが。俺は、唯無言で俯きながら、拓兎に林檎飴を握らせた。  そのときの、拓兎の顔が――「そうだよな」と「わかった」と笑った拓兎の顔が、今目の前で微笑む拓兎のそれと寸分違わなくて、俺は口に溜まった唾を飲下した。 「なあ、真。食べさせてくれないか?」  俺は、返事をするように――あの頃の押さえ込めていた欲を突き出すように、唯無言で拓兎の口に林檎飴を差出した。闇の中で光るそれは、いつかのお伽噺の中で見た毒林檎のようで。そんなものを差出しているというのに、そんなことを思っているというのに、俺の心臓は興奮したときと同じテンポで鳴り続けていた。  拓兎の長い睫毛が揺れる。驚いたように開いた口がそのまま林檎飴を食む。行き交う人。雑踏。その中で、聞こえるはずがないのに、べっこう飴が砕け、林檎が弾ける音が鮮明に聞こえたような気がした。  赤い唇が咀嚼とともに動く。しばらくして喉が動くと、拓兎はこちらをじっと捉えながらにまた一口、赤い果実に齧り付いた。彼の口の中で林檎と、薄い飴が砕かれては飲み込まれていく。それを見ているだけなのに、見つめられているだけなのに、まるで自分が食われているかのようなそんな気がした。  もしかしたら、なんだかんだ正当っぽい理由を頭の中で無理矢理に作り上げていただけで、自分は唯これが怖かっただけなのかも知れない。自分が自分ではなくなるような心地。身体が熱くなり思わず息が漏れた。  なんだか恥ずかしくなってきて、やっと拓兎から目を逸らす。すると急に林檎飴を手から攫われ、空いた手を握られた。 「たく、」  名前を呼ぼうとして顔を上げる。そこにあった拓兎の顔はいつもの自信満々なニヤけ顔ではなくて、まるで恋をし始めたばかりの高校生のようなむず痒そうに照れた顔だった。 「……夏の魔物」 「なんだって?」 「いや、酔っていたのは俺の方だったな、と思ってな」  ずれた眼鏡を直すと、そこにはいつも通りの拓兎がいた。 「さて、と。そろそろ帰って飲むか」 「そう、だな」 「……楽しかったか?」  そう拓兎が尋ねる。俺はあの時によく似た、あの時とは違う光景の中で静かに拓兎の手を握り返した。

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