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拓兎と真と香水の話

 金曜日の晩。大学時代の友人から、飲みに誘われた。行っても良いかと尋ねた真に俺は渋々頷いた。  本当は夕食を真と共にしたかったのだが、真には真の付き合いがある。それに、いくら新婚ほやほやだからといって真を縛るのは良くない。  久しぶりに友人たちと会うからか、そわそわと準備をする真を目で追いながら、俺は脳内でそれらしい理由づけをして今すぐに真の体を抱きしめてその場に引き留めたい衝動を抑え込んだ。 「それじゃあ、行ってくる」  身支度を整えた真は部屋を出て行こうとする。ふわりと揺れるブロンドベージュの髪を見て、俺は咄嗟にあることを思いつく。ある不安と共に。 「真、ちょっと待て」  急な俺の呼びかけに、真は素直に応じてくれる。瞬きをして首をかしげるその動作一つ一つが可愛らしくて、俺は息を漏らし自分の使う化粧品などを仕舞っている棚を漁った。中から透明な液体が入った小瓶を取り出すとゆっくりと真に歩み寄る。 「後ろ向け」 「何だよ」 「いいから」  従順に俺に背を向ける真。最近筋トレをしているためか、倒れた頃に比べて肉付きも遥かによくなり逞しさを感じる背中にぴったりと寄り添うと、俺は僅かに赤くなった彼の首筋に小瓶の中に入っていた液体を吹きかけた。  真の肩がピクリと震える。微かな動きに合わせて嗅ぎ慣れた柑橘と花の香りが鼻腔をすり抜け、同時に胸の中にあった黒い何かが溶けたような気がした。 「なんかかけた?」 「香水だ。俺が使ってるやつ。お洒落の一つとしてつけていくのもいいと思ってな」  振り向いた真は首筋を撫で口をもごつかせた。真は俺の匂いが好きだから無意識かベッドの中でもよく俺の匂いを嗅いでいる。そんな大好きな香りを自分の身体に振りかけられたことに喜びと戸惑いを覚えているのだろう。  ゆるりと口元が弧を描いた。その愛らしい唇にキスを落として耳元で囁く。 「あと、虫除けだ。春は変な虫が多いからな」 「虫除けスプレーじゃあるまいし」  どうやら意味がわかっていないらしい。真らしいな、と思いながら名残惜しさの中で俺は真から離れた。 「そっちの虫も寄っては来ないと思うぞ。虫を寄せ付けない香りがする香料も入っているから」 「そっか……俺も普段香水とかつけた方がいいのかな。お洒落として」 「義務としてつける必要はない。あくまで嗜好品だからな。ただ、つけたいなら俺のを使え」 「俺はそれでもいいけど……拓兎はいいのか? 俺が同じのを使っても」 「当然だ。お前から俺の匂いがすると思うと興奮するものがある。それに、ずっとお前のそばにいてやれるような気がするからな」  俺の言葉を聞いた真が眉を顰める。どうやら俺が腹に抱えているものに気が付いたらしい。多少の時間はかかれども言葉の意図には気が付く。さすがの聡さだ。 「……あぁ、それでか。虫除けって……」 「どうした?」  小声で言えど聞こえないわけがないのだが、あえて真の言葉を聞き逃したような、とぼけたふりをしてみせる。この「ふり」にも気が付いているらしく真は小さく首を振った。 「なんでもねぇ」 「そうか。終わったら連絡してくれ。迎えに行く」 「わかった。いってきます」 「いってらっしゃい」  手を振り、部屋を出る真を見送る。玄関の扉が閉まり、真の足音が聞こえなくなってから俺は溜息を吐いた。 「真が俺以外を好きになることは天地がひっくり返るようなことがあっても無いわけだが――」  そんな純粋な真を誑かす害悪がこの世に居ないわけではない。俺が普段つけている――真のようなタイプの人間が普段つけないであろう香水の匂いがすれば、そんな不届き者に対する僅かな牽制になるだろう。  だからといって不安が消えるわけでは無い。真にもしもがあれば、俺はもう二度と芸能界には戻れないような行動だって平気でするだろう。  まさか、真の友人に俺にそこまでさせる奴がいるとは思えないが。 「心配しすぎか」  こんなことで心を惑わせるなんて。やっぱり俺も所詮はタダの人間なのだな。そんな当たり前のことを思いながら、俺は真がいない広いリビングへと戻るのであった。

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