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前編
一
その日は雨が降っていた。音も無く降りしきる霧のような雨粒が、窓ガラスに張り付くのを、意味も無いのに延々と眺めていた。すると裾を弱々しい力で引っ張られる。
「お前に謝りたいんだ」
すっかり痩せこけた父は悲痛な表情を浮かべていた。もう話すのもやっとという体なのに、俺に向かって何度も何度も謝罪の言葉を呟いていた。
「これから大事な時期だってのに…こんな風になっちまうなんて…父親失格だよなぁ」
俺は慌てて首を振った。そんなことない、と。言葉が詰まって上手く言えないないけど、それだけは伝えたかった。
すっかり病棟の臭いが体に染み付いてしまった父だったが、俺を見つめる力強い眼だけは何も変わっていなかった。
不意に窓が揺れたのでそちらに目を向ける。しかし、雨粒が窓ガラスを叩いているだけだった。
「自由に生きろよ、成海」
それから父の眼を見ることは二度と無かった。唯一の家族は死んだ。俺が中学校を卒業する直前の出来事だった。
葬儀やら遺産相続やらの手続きは殆ど親戚に任せてしまった。手元に残った金は、普通の学生だったら手にしないような金額だった。これだけ蓄えがあれば進学できるだろう。しかし大学はどうだ?金に関する心配が尽きなかった。
卒業式を迎える頃には、進学する気はすっかり失せていた。お前は頭が良くて手先が器用だから何にでもなれるだろう、そう言ってくれた人はもういない。自分の力で生きるしかないのだ。
友人の紹介で働けそうな場所を見つけた。ただ、その募集チラシが彼の地元の駅前にヒッソリと貼られているだけ、というのが気になったのだが。友人曰く、地元から少し離れた場所にある村から出された求人らしかった。屋敷の家事手伝い。俺に合いそうな仕事を見つけてくれたのだ。
しかしやけに給料が高い。思わず眉間に力が入る。その様子を察したのか友人は思い出したかのように、この村はあまり良い噂を聞かないからじゃないか、と言った。
聞けば聞くほど怪しいような気がするが、この際選んでいる場合では無かった。結局、俺は辺鄙な所にある村に向かった。列車で半日。人口百人ほどの小さな集落、流沢村。
最悪逃げればいいのだから。自由に生きるべきだから。そう自分に言い聞かせながら古臭い改札口をくぐった。空の様子はは今の俺のように重苦しかった。
二
また雨が降る。鈍色の重苦しい空を見上げる。傘の上で跳ねる雨粒があまりにも騒がしかったので、私は閉じてしまった。容赦なく降り注ぐ雨は私の髪を濡らし、垂れた水が衣服に染み入った。藍色に染まった着物がずっしりと重くなる。
足元に流れる川はまだ穏やかなものだった。私はスウと息を溜めると、そのまま歩みを進めた。自分の膝が濡れるまで歩き続けた。川はザラザラと音を立てながら足元を通り抜けた。眺めていると、思案が確信に変わっていった。
私は川の水と同じだと。決められた流れに沿って、高い所から低い所へゆっくりと降って行くのだ。そこに自分の意思なんて無い。私は人の指図の通りに生きてきた。村から出るなと言われれば留まり、髪を伸ばせと言われたら伸ばす。ここで死ねと命じられたならば、きっと。
とうの昔から決まっていることなのにこうして自分が死ぬ瞬間を想像し続けている。
川を眺めた。この水はどこへ行くのだろう。海、という所に流れ着くことは流石の私でも知っているが、本当にあるのだろうか。書物で読んで知っただけでは現実味が湧かない。自分の目で見てみなければ、存在しないのとそう大差無いのだから。
私はこうして何も知らずに川の一部となって死ぬのだろうか。
三
村に着いたものの、屋敷がどこにあるのか見当も付かなかった。何せ手元にあるのは住所の走り書きだけだから。改札口で暇そうな様子で立っていた駅員に道を聞こうと声を掛けた。しかし、そそくさと中に引っ込んでしまった。確実に目があったのに返事もせずに何処かへ行ってしまった。
待っていても埒があかないので駅から出る。見上げると、空は暗い色をしていた。
「温泉と川の村 おいでませ 流沢村」歓迎してくれるのはとうの昔に風化してしまった看板だけだ。駅前はすっかり寂れており、観光客らしき人間は一人もいなかった。
俺は適当に歩き回ることにした。時々すれ違う村民に声をかけたがことごとく無視された。まるで自分が幽霊にでもなった気分だった。
ついに泣き出した空を時々見上げながら、俺は屋敷を探し続けた。しかし見当違いの場所に着いたのか、歩けば歩くほど民家から遠のいて行った。立ち止まった途端大声で叫びそうだった。手に汗が滲む。足元が不安定になり、道は荒れていく。草を掻き分けて進んでいると、水が流れる音が微かにした。
草むらを抜けると広い川原に出た。こんな所に屋敷があるはずがなかった。道を戻ろうとしたその時、視界の端に人影が映った。
激しい川の真ん中に青い着物を着た髪の長い人が立っていた。ついに幽霊でも見たか、と目を擦っても消えない。嫌な予感がする。
考えるよりも先に体が動いていた。荷物と上着を投げ捨て走った。流れは予想以上に速く、俺は足元を掬われそうになった。水嵩が腰に到達したと同時に、俺はその人の肩を掴んだ。
「あの!考え直してください!ここは危ない」
なんと言葉を続けようかと自殺志願者の腕をつかもうとした途端、手を思い切り弾かれた。振り向いたその人の、長い髪の間から覗く顔には険しい表情が刻み込まれていた。
「何なんですか…離してください!」
「落ち着けって!早まらないで」
俺がそう言ったと同時に、その人の動きがピタリ止まった。俺から一歩離れ、そして乱れた髪をかき上げる。若い男だった。
「自殺するつもりなんてありませんが。勘違いです。第一、ここは立ち入り禁止のはず。貴方は何者ですか?」
「その…俺は今日ここにきたばかりで。住み込み先の屋敷を探してたら迷い込んでしまいました」
彼は俺の言葉を聞くと深いため息をつき、陸へ戻るように目で促した。恥ずかしくてこの場から逃げ出したかった。正義心が空回りした時ほど居心地が悪いことはないだろう。悪い癖だ。深く考えずに行動してしまう。
「ここに入ってしまったことについては不問とします。悪気は無さそうですし。
まあ貴方にとっては幸運だったかもしれませんね。
貴方が探してる屋敷は、私の家なのだから。……ついて来てください」
彼は背中を向けた。その時、河原に風が通り過ぎた。全身の毛が逆立つ。彼のヒョロっと細長い背中がぶるりと震えた。思わず俺は持っていた上着を彼の肩に乗せた。
「い、いきなり何ですかこれは…。上着?」
「ごめんなさい!寒そうに見えたので…」
俺は慌てて言い訳のような口調で叫んでしまった。彼が背後から突然殴られた時のような狼狽え様がこちらにも移ったかのように。肩に乗せた上着を剥がそうとすると、彼は首を振った。
「いや、大丈夫だよ。…傘、使いますか」
四
雲から漏れ出た夕陽に赤く染められた帰路を二人で黙って歩き続けた。出番を失った傘を引き摺る。細長く伸びた少年の影が私の後に続く。最近グンと気温が上がったおかげか、私たちの服はすっかり乾いていた。少年は、先程私が声を荒げてから怯えてしまったのか、子犬のような表情でチラチラと様子を伺ってくる。
こんな時、彼だったらどうするだろう。そんなことを考えていると我が家に着いた。そこに、門に構えられた表札にもたれかかる一つの人影があった。私に気付くと、彼は手を振った。
「ああ、兄さんお帰り。…それで、後ろにいるのは?」
「彼は今日からここで働くことになっているそうですね?先程川原で会いました」
私がそう言うと、背後の少年は背中が折れるんじゃないか、という勢いで弟に向かって礼をした。
「こんにちは!今日からここで働くことになってる千早成海です。お世話になります!」
「ああ、君が!こんなに元気で若い子が来るなんて思わなかったな」
二人の会話をぼんやりと聞いていた。殆ど内容は入ってこなかったが、私の知らない間に色々と決まっていたことだけは分かった。すると弟は私を指差した。
「自己紹介がまだだったね。ぼくは神代令仁という。神代家の次男だ。そしてあの無愛想な男が、長男であり、ぼくの兄である明彦だよ」
勝手なことを言う弟だった。このままでは少年……成海くんにとって私は声を荒げる無愛想な人間になってしまう。見切り発車で弁解しようとしたところ、発言のタイミングが少年と被った。
「へえ、兄弟ですか。仲良しなんですね!素敵だな、俺は一人っ子だから憧れます」
「嬉しいこと言ってくれるね。とは言っても、ぼくたちに血の繋がりは無いんだけどね」
私が肩を落としたと同時に、成海くんは口を押さえていた。
初対面の人間に普通、ここまで自分について公開するだろうか。隠すほどのことでも無いが、少年にとって、名前を覚えるのに必死な時に、こんな情報を押し入れられたら混乱してしまうだろう。
しかし私の心配をよそに少年は抑えた手から声を漏らしていた。
「ええっ!全然分からなかった。雰囲気がソックリだったから……。つまり、養子ってことですか?」
「そうそう!まあ立ち話も何だしさ、この屋敷でも紹介するよ。父上への挨拶もしようね」
私の出る幕は無さそうだったので部屋に戻った。襖を閉めると、肩にかけられた上着が、バサリと音を立てて畳の上に落ちた。馴染み過ぎて存在をすっかり忘れていた。
その瞬間、その場に崩れ落ちた。恥ずかしくて、情けなくて堪らなくなったのだ。
きっと彼は、川の真ん中に立っている私を見つけて飛び込んだのだろう。真っ直ぐな正義感を持っている彼は迷わず私の肩を掴んだ。助けるために。
それなのに、勘違いと被害妄想をして八つ当たりをした。“奴”が川に来るはずなど無いのに。
雨の中、ずぶ濡れて寒かっただろうに、彼は私に乾いた温かい上着を掛けた。自分に対して当たり散らした直後の人間に。
結局、謝罪も感謝も述べずにこうして自室で悶えている。こんなこと初めてだった。上着を肩にかけられた時、私は咄嗟にそれが優しさだと理解出来なかったのだ。
明日、この上着を返して彼に謝ろう。そして感謝の言葉を伝えなくては。
その前にやらなくてはならない事があるのが億劫だった。私は準備をするために引き出しから鋏を出し、それを髪に押し当てた。
五
令仁さんは一礼すると、恭しい手つきで襖を閉じた。そしてネクタイを緩める。俺は横顔を見ながら、彼の笑ってない顔を見たのは初めてだということに気付いた。暫く廊下を歩いて、書斎から離れると、俺に向き合った。
「成海くん、緊張していただろうに素晴らしい面談だったね。パーフェクトだよ。あれなら父上に目を付けられることは無いんじゃないかな」
彼がここまで褒めることに違和感は無かった。令仁さんの父親、つまり家の主人の第一印象は正直言って、かなり恐ろしかったのだ。肉を削いだように痩けた頬に、ギョロリと動く大きく湿った眼。そして乾燥した水気のない髪。俺が何を話しても眉間に深く刻まれた皺はピクリとも動かずに、黙りこくったままだった。
厠の隣にある小さな部屋に通された。日当たりは悪く、空気は淀んでいるけど、掃除をすればきっと良くなるだろう。
「君の仕事は、ぼくの後を継いで、兄貴の身の回りの世話をして欲しい。
実はこの村にはかなり変わった儀式があってね。神に感謝して髪を捧げるって風習が昔からあるらしいんだ」
駄洒落ですか?と言いたいのをグッと堪える。そして明彦さんの長い髪を思い出した。あの艶のある黒く、美しい髪なら捧げ物になってもおかしくなかった。
「兄貴の存在価値はぼくたちの想像以上にあるんだ。村が川の神によって滅ぼされないのは代々神代家の血を継ぐ者の美しい黒髪のおかげ…と言われてる。つまり、大事な兄貴が怪我をしないように危険から守るってことだね」
「世話って、具体的に何をするんですか?食事の用意とか…」
「その辺は使用人がやってくれるよ。ぼくたちの担当は兄貴の髪の手入れ全般だ。櫛で梳かす、洗う…」
「すみません、つまりそれって」
「うん。お察しの通り、風呂も一緒だよ。兄貴は嫌がるかもしれないけど。可笑しな話だろ」
明彦さんがそれを許すだろうか。俺に対してかなり警戒心を抱いているのは分かり切っていた。
令仁さんは咳払いをした。
「最後に……兄貴から刃物を遠ざけて欲しい。これが最も大事な仕事だと言っても過言ではないね」
「やっぱり髪が切れてしまうって事態を避けるためですか?」
「そこまで単純な理由ならいいんだけどね」令仁さんは曇った表情を柔らかくして「その理由はぼくから言うべきじゃないと思う。君みたいな人ならきっといつか知ると思う」と呟いた。
六
私は背中に幾つかの視線が刺さるのを感じながら川に歩みよった。初夏のよく晴れた日とはいえ朝方はまだ冷え込む。濡れた爪先から伝染するように全身の毛が逆立つのを感じた。岩に纏わりついた苔に足を取られないよう慎重に進み、川の中央に立つ。もう腰まで濡れていた。
水流が私の体をぐいぐいと押しやる。それを無視するかのように、私はゆっくりとした動作で、昨晩切り落とした髪の房を水面に置いた。そしてあっという間に見えなくなった。私はそれを見届けると、父親と村民たちが待つ川辺へ戻っていった。
その時心臓が激しく波打った。群れた村民に混じってあの子がこちらを覗こうと、懸命に爪先を伸ばして立っていたのだ。私は川に潜り込みたくなった。こんな茶番を彼に見られるのが耐えられなかった。死人のように白くなった体を隠す方法が無かったので、私は俯きたいのを堪えながら人集りへ向かって行った。
七
日が昇らない時刻に令仁さん叩き起こされ、気付けば昨日の川辺に立っていた。既に多くの人が集まっており、背丈があまりない俺は状況が掴めないまま、群衆の先に何があるのか知りたくて、人の合間をすり抜けた。
視界が開けると、明彦さんが昨日と同じ場所に立っていたのが分かった。風向きに合わせて、彼の長い髪が、川の水のように柔らかに揺れていた。彼が黒い束を川に流した所でようやく、目の前の光景が「儀式」なのだと気付いた。
明彦さんが旦那様の所へ向かっている時、俺の後ろにいた住民たちの話し声が聞こえた。
「明彦様がいるおかげでこの村は安泰だな。いやぁ、足向けて眠れねえよ」
「ああ、あの方がいなきゃ此処はとっくの昔に滅びていた」
彼らの会話から、明彦さんの価値というものが何となく分かったような気がした。
「正直なところよ、おれ達は幸せ者だ。明彦様がいる限り龍神の祟りに遭うことは無いからな」
「まあ、例の洪水の時は覚悟したが……先代が役目を果たしてくれたから命拾いしたさ」
「明彦様は最近嵐が来てねえしそろそろかもな……」
「その前に外から嫁貰ってこねえと後継が間に合わないだろ」
会話が進むごとに、焦りにも似た感情が渦巻く。この村では一体何が行われようとしているんだ。何が行われてきたんだろう。
「あの、それってどういう意味ですか?明彦さんに何か起こるってことですか」
俺が口を開くと、周りが静まり返った。川のせせらぎだけが耳に届く。張り詰めた空気を切り裂いたのは、目の前で俺を見下ろす村民だった。
「てめえに関係ないだろ。余所者と話すのはうんざりだ。失せな」
「少しだけでいいんです。俺、何も知らなくて」
俺が頼み込んでも、余所者に教えることはない、の一点張りだった。それでも俺は退く訳にはいかなかった。先ほどの会話から察するに、明彦さんの身に何か不吉なことが降り掛かるのは確実だったからだ。最もあって欲しくない展開を頭から振り払うために、もう一度懇願する。しかし暴力という形で遮られた。
村民が俺を突き飛ばし、思わず尻もちをつく。そして体勢を立て直す前に、住民達に囲まれてしまった。殺気立った目で俺を見下ろす。
八
「何事ですか」
私が群衆に近寄ると、村人達は蜘蛛の子を散らすように去っていった。父親と話していたせいで、対応に遅れた。不自然な人混みができた時点で、会話を切り上げるべきだったのだ。
走り慣れていない私は砂利に足を取られないように早歩きで彼に歩み寄った。皆が去った後、座り込んで震えている少年だけが取り残されていた。幸いなことに怪我は負っていないようだった。
私が駆け寄ると、少年の表情が緩んだ。しかし依然として体の震えは止まっていない。
「何があったんですか」
「俺がまた突っ走っただけです。気にしないでください」
そう言って、彼は立ち上がった。そして腕に抱いていた羽織りものを渡してくれた。私が戸惑っていると、半ば強引に袖を通された。
「お疲れ様でした。服が濡れていることだし帰りましょうか」
父親はいつの間にか居なくなっていた。恐らく、村の集会に向ったのだろう。私たちは二人で帰宅することとなった。あれ以来、会話らしい会話を交わしていなかったせいか、妙な空気が漂った。
騒動の原因は薄らと予想出来ていた。恐らく、私の情報を、耳に挟んだのだろう。この土地で唯一何も知らない彼にとって、その会話が気になって当然だ。伝えるなら今しかない。遅かれ早かれ知ることになるのだから。
「な……成海くん。この村について君に話しておきたいことがあります」
彼は頷いた。何も隠すことはない。全て本当のことで、ここでは当たり前に行われていることなのだから。
「十数年前、大嵐がこの村を襲いました。その影響で、観光資源であった温泉は全滅しました。そして一人の村人が犠牲になりました」
「そんなに酷かったのに、一人だけ?」
「そこが話の肝です。……犠牲者は私の母親です。川に沈みました。殺されたのです。神代家の人間は川の神である龍の怒りを鎮めるために身を捧げる使命がある」
成海くんの顔がサッと蒼くなった。それでも私は続ける。これ以上、彼がこの村に住む者に牙を向けられないように。
「じゃあ、さっきの人たちは、明彦さんが犠牲になるから、自分たちは安心して過ごせると話してたってことですか?」
「そうです。贄の資格を持つのは私一人だけなんだ。父は婿入りした身だから、神代家の血を継いません」
「そんなの、おかしな話じゃないですか」
彼はそう叫んで、拳を握りしめた。項垂れたまま動かない。
よく見ると、彼の頬は濡れていた。空はよく晴れているのに。
「おかしい、酷いですよ。明彦さんだけに犠牲を強いて、みんなは気楽に過ごすなんて。俺は許せない」
風呂に入る為に屋敷に戻る。その間、会話は無かった。
九
脱衣所で目を擦ってると、磨りガラスの向こう側から明彦さんが、お願いしますと言ったので、風呂場に入った。その瞬間、硫黄の匂いが立ち込めた。明彦さんは俺に背を向けて座っていた。
ここに来て初めての仕事ということもあり、何をしていいのか分からないが今日は令仁さんは一日中忙しそうにしている。俺がやるしかない。
「痛かったら教えてください」
昔父さんに頭を洗ってもらった時のことを思い出しながら手を動かした。人の頭なんて滅多に触らないから力加減が分からない。髪と洗剤が擦れる音のみ響く。
「ありがとう。上手だった。気持ちよかったです」
明彦さんが振り向いて、俺に微笑んだ。その瞬間、心臓が不自然に跳ねる。慌てて俺は湯船に目を向けて気を逸らした。
「それはどうも……。そういえば、これって温泉ですか?」
「そうです。私の髪のためだけに父親が無理を言って引いているんです」
明彦さんの様子が戻ってしまった。またいつもの、消えそうな表情が浮かぶ。俺はあまり良くない選択をしてしまったようだ。肩を落として、浴室を後にしようと扉に手をかけた時、裾を引っ張られた。
「言いそびれてましたが……昨日はすみませんでした。あれは完全に私の八つ当たりです。心配してくれたんですよね」
「そ、そうです」
「成海くん、ありがとう。嬉しかったです。あの時の上着は後で返しますね」
明彦さんは体が冷えたのか、いそいそと浴槽に潜る。その瞬間、俺は見てしまった。
彼の臍の下辺りに、大きな傷痕があったのだ。彼の薄い肌の下に蛇が這っているようだった。目が離せなかった。
零
「明彦は隠れんぼが得意でしょう?」
私は母の問い掛けに頷きました。しかし、それと同時に首をはてと傾げました。母が私を遊びに誘うことは滅多に無く、その上、今が真夜中だったからです。早寝早起きをきつく言われてきた私にとって、母の誘いは不思議なものでした。
眠っていたところを、母に揺さぶられた直後ということもあり、私は現状を把握していませんでした。寝室は目の前にいる母の顔が朧げに見える程度の闇に覆われ、固く閉ざした雨戸はガタガタと音を立てて揺れており、私は母の体に身を寄せました。所々雨漏りもしていたと思います。とても隠れんぼをする気分にはなれず、温もりから離れたくありませんでした。
しかし母は私の頬を両手で包みながら、少しだけ隠れてて頂戴、と優しく囁きました。手は少し震え、汗ばんでいました。私は母の黒い髪に触れました。こうすると、無性に落ち着くのです。
それでも私が戸棚に隠れたのは、当時の私が幼く、疑うことを知らなかったからでしょうか。今となっては思い出せません。昔のことですから。戸棚を閉じる間際、母に何か告げられたような気がしますが、それも定かではありません。
棚から外を覗くと、廊下で父と母が何やら話していました。私との遊びを放って何をしているのだろう、と気になった私は扉に手をかけました。その時、母の叫び声が聞こえました。
「こんなこと無意味だわ」
母があんなに声を荒げるのは初めてでした。その場で身を縮め、息を潜めました。その直後、何か鈍い音が聞こえたかと思うと、廊下が静まり返りました。
十
廊下から足音が聞こえたので、私は慌てて引き出しを閉めた。それと同時に、令仁が部屋に転がり込んできた。せっかく着こなした洋装が乱れやしないかと、毎回心配になる。
「令仁、そんなに慌ててどうしたんだい」
「これから暫く会えないってのに余りにも冷たくないか」
廊下に目をやると、人間が入りそうなサイズの鞄が乱雑に置かれていた。
令仁は今日から都会の大学に行く。今までこの家から何時間もかけて通学していた彼も、明日からは下宿の身だ。
彼がこの村から離れる。その事実に私は思わず自分の立場を忘れて胸を撫で下ろしてしまう。
結局、弟を見送るのは門までとなった。私の一歩下がった所に成海くんがいる。私よりも過ごした時間が短いというのに、彼の目には涙が滲んでいた。その様子に気を取られていると、令仁が耳元に口を寄せてきた。
「ぼくは兄さんがやりたいことをして欲しい、ってずっと思ってるから」
十一
令仁さんが都会に行ってから数日が経った。覚えることが多くて忙しい毎日でも、楽しみにしていることがあった。明彦さんの髪を梳かす時間だった。朝と夜に行われる仕事は、彼と落ち着いて話せる数少ない機会だった。
今まで俺は、他の人の髪は代わりにならないのかと考えていた。しかし、それは不可能だと分かる。間近で見る彼の髪は、ただ黒くて艶があるだけではない。光を受けると青く光るのだ。まるで月の光を浴びて輝く夜の海だった。
ある日の朝、明彦さんはよく晴れた空を眺めながらため息をついていた。窓から子供の元気な声が入ってくる。
「昔からああして遊び回ったことがないのです。髪が邪魔なせいで」
「そういうことなら……こうすれば良いんじゃないかな」
令仁さんが去ってから、俺の敬語はすっかり抜けつつあった。明彦さんが敬語は要らないと言ったのだ。それでかなり過ごしやすくなった。彼にとっても同じ様で、最近は自分の話をしてくれるようになった。
俺は櫛と紐で彼の長い髪を束ねた。それだけでは物足りなかったので、緩い三つ編みにしてみた。鏡を渡すと、明彦さんは息を漏らした。
「これなら動きやすいと思って。どうかな」
「凄い。髪型一つでここまで変わるんですね」
彼は目を輝かせて、ありとあらゆる角度で頭部を眺めた。俺はそんな様子を見て、胸のあたりがムズムズした。
「髪を束ねたのは初めてなんです。首元が涼しいのはいいものですね。これなら動き回れそうだ」
彼にとって何気ない言葉だったのだろう。その台詞ひとつで、彼の人生が少しだけ見えた様な気がした。髪型一つで選択できず、自分の意思なんて反映されないような環境で過ごしてきたのだ。
俺は別れ際、令仁さんに言われたことを思い返した。君なら兄貴を、素直にできると思う、と。明彦さんがこういう生き方をしているのは、俺が知らないことが原因なんだろう。
もっと彼について知りたい。そんな気持ちになるのは、令仁さんの言葉の影響か、それとも。
続く
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