2 / 2

後編

十二  成海くんが結ってくれた髪を崩さないようにそっと触れた。今日はそればかり繰り返して何も手が付かない。本を読む気にもなれないなんて、令仁と大喧嘩した時以来だ。今頃彼は元気でやってるだろうか。弟が出て行ってから、成海くんと話す機会が増えた。以前のように堅苦しく他人行儀な空気は無くなったと思う。敬語なんていらない。この村に染まる必要はないから。  自室に戻ろうと、廊下を歩いていると、奥座敷から私を呼ぶ声がした。いつもは書斎か、村の外に出向いてるはずの父親が、火鉢の横で煙管を燻らせながら鎮座していた。呼ばれるがまま彼のそばに座った。今日は空が青いというのに、この座敷は湿って陰気臭い。  煙管を火鉢の横に置くと、父親が口を開いた。 「今のお前は立場を弁えているか?なんだその髪は。千切れるかもしれないだろう」  私は顔を上げられなかった。声も出せず、首を振ることで精一杯だった。 「黙っていても分からないだろう。誰がやった?お前が自分で出来るわけがない」  父の声は低く、腹の底まで響く。私は、乾き切った唇を噛み締めた。父はもう一度、言いなさいと告げた。これは最後の通告だったのだろう。父親は私の前に立ち尽くした。  彼の名前を言うつもりは無い。そう誓ったと同時に、私の顔を踏みつけた。  頭部が畳に打ち付けられ、意識が一瞬遠のく。ズキズキと痛む頭の奥で父の声が響いた。 「名前を言えば終わることだ」 「い……言いません。そのつもりはない」  父の足に込められた力が一瞬、弱まった。無理もない。私が生まれてから初めて、怒りの声を上げる彼に反抗したのだから。 「あなたには関係ない。これは私の意思でやったことだ」 「生意気なことを……。お前は気が狂っているとは思っていたが…今度は俺に歯向かうつもりか?」  そう言いながら、父は私の髪に手を伸ばした。咄嗟にその手を払い除けた。乱れた髪を見て成海が悲しむ様子が目に浮かんだのだ。  その態度が彼に火を付けたのか、父は火鉢から鉄箸を手に取り、こちらに向けた。目と鼻の先に、炭で熱された鉄の棒がある。脇の下にツウと冷たい汗が伝う。父は口元を歪ませた。 「これだから意思を持つ奴は嫌いなんだ。ああ、あの女に似てきた。……今回はお前の髪の価値に免じて、許してやろう」 十三  部屋で書物に目を通していると、突然明彦さんが襖を開けた。  肩を押さえながら脂汗を垂らした彼を見て、俺は転びそうになりながら台所に行き、氷を全て持ち出して、布に包んだ。明彦さんは荒くなった息を鎮めるかのように深く呼吸をした。  俺のせいで、明彦さんがこんな風になっていることは一目瞭然だ。乱れた髪に、肩のあたりが焦げた浴衣。こんな時期に、料理以外で火を使う人物は限られていた。彼しかいない。 「髪型が原因だよね。本当にごめんなさい」 「君は悪くない。ああ、だから嫌だったんだ」  明彦さんは眉間に力を入れ、俺を見つめた。 「自分の意思で招いた結果なんだ。君は全く悪くない。だからそんな顔はやめなさい」 「そんなこと言ったって……明彦さんが怪我した事実は変わらないだろ。怖かったよね」  彼の身体は震えていた。俺よりもずっと背が高いはずなのに、なぜか彼が小さく感じた。 「こういうことがまた起こるのか?」 「きっと大丈夫です。父が自ら動くことは滅多に無い」  俺は思わず、エッと声を漏らした。今まで俺は、臍の傷は彼の父親が付けたものだと思い込んでいたのだ。 「その様子だと、私の傷を既に見ましたか。あれは自分でつけたものです」 「風呂で一瞬だけ、見たんだ」 「気にしないで。いつか話すつもりでした」  明彦さんは両手で俺の頬を包み、涙を拭った。 「この傷について成海くんには教えたい。これは父親も知らない。知っているのは弟だけです」  以前、令仁さんから言われたことを思い出した。君なら、いつか知ることになると。 「教えて。明彦さんについて知りたいんだ」 「これから話すことは全て本当のことです。 ……この傷は、自分の局部を切り落とす際に失敗したからできたのです」 十四  あの日は雨が降っていました。私は父の書斎から盗んだ酒と裁ち鋏を手にして、布団の上で震えていました。その日、私に縁談を持ちかけに、ある一家が家を訪れたのです。相手の候補は私より若い女性だった。写真に収められた少女を見て、私はその場から逃げ出したかった。目の前で父親と見知らぬ男性が、私と少女の人生を決めようとしていたから。相手の一族は、この辺りで名高い寺を代々継いでいました。将来的に村を治めるであろう私と彼女が結婚し、子供を産むことを、都合が良いと感じる人間どもの気配を感じられずにはいられませんでした。  次は娘を連れてくると言って帰って行く男性を見送りながら、父は呟きました。令仁を引き取る必要は無かったな、と。ああ、この人は息子を道具として認識しているのだと改めて実感させられました。  弟は私の代わりになり得る存在でした。血を受け継がなくてもいいと判断したのは父です。あいつは、村で安定した立場を得られるなら、なんの罪もない子供を川に投げ込にことに躊躇いを感じない男です。しかし弟は贄では無く、私の世話係として過ごすことが許されました。    私は酒をたらふく飲みました。自分が決めたことを完遂するためです。  股を見下ろしました。自分にこんなものが付いているから、この呪いは続くのだと。  青い血管が浮いた白い手首を眺め、このまま命ごと断ち切ろうかと思いましたが、やめました。この行為を目撃した父の慄く様子を見逃すのは惜しいと判断したからです。  呪いが血となって全身を駆け巡っていると思うと寒気がしました。そして刃先を局部に当てがいました。  しかし失敗に終わりました。恐怖を紛らわす為に煽った酒が逆効果だったのでしょう。手元が狂って、腹を切ってしまいました。裂けた肌から鮮血が溢れたその瞬間、私は気を失いました。生まれて初めて、自分の血を大量に見たからです。  それ以来、刃物に近づくことを禁止されました。私は気が狂っているからだと。  私の傷についての話はこれで終わりです。 十五  話し終えた明彦さんを、俺は抱きしめていた。二人の身体の間で即席の氷嚢が軋んだ。 「辛いことを、俺に話してくれてありがとう」 「君だから教えたんだ」  明彦さんの語尾は震えていた。彼は、俺がここに来るずっと昔から過去を抱えながら生きていたのだ。頭が熱くなる。俺はここを飛び出したい衝動に駆られた。   彼は怯えた子供のような顔で俺の顔を覗き込んだ。急に黙り込んだからだろう。俺は安心させるために、なるべく穏やかな言葉を選んだ。 「やりたいことがある。少しだけ待ってて」 「無理だけはしないで。此処は君が思ってるよりもずっと異常だから」  廊下を駆けた。ずっとカビ臭いと思っていた奥座敷に飛び入った。特に策を練っていないのに、何故か恐怖は感じなかった。明彦さんの父は、平然とした様子で煙管を咥えていた。お前なら何でもやれる、それを信じろ。父さんの言葉が脳裏を横切った。 「丁度いい。そちらから出向いてくれるとは」 「何のことか分かりませんが、俺は言っときたい事があったので来ました」 「私の話からでいいか?自分の立場を忘れないで貰いたい」  威圧感に押し潰されそうだった。明彦さんは毎日これを浴びているのだ。ここで屈してはいけない。しかし無策の俺と、俺を呼びつけるつもりだった相手では優劣がハッキリと付いていた。彼は低い声でハッキリと言い放った。 「今日限りでクビだ。この村を侮辱し、神聖な立場である息子を唆した。退職で済むことを有難いと思ってほしい」  大袈裟だ、と言いかけたところで、明彦さんから投げ掛けられた言葉を思い出した。此処は思っているよりもずっと異常だと。  もしここで歯向かえば、この事態を招いた責任は誰にあると判断する?誰が責められる?これ以上、彼が傷付くくらいなら。握り締めた拳から力が抜けた。  程なくして俺の退職が確定した。今日中に列車に乗れば誰も罪を被ることはないと、不確かな約束を交わしながら。 零  私は恐る恐る戸棚から身を乗り出しました。廊下には床には大きな水溜りがあるだけでした。雨漏りのせいかと思いましたが、辺りがやけに錆臭いのです。興味本位で近寄ると、思わず身を引きました。悲鳴を必死に飲み込みました。  昔、使用人が小屋で買っていた鶏を捌く現場を父に見せられたことがあります。昨日まで家族扱いしていた可愛らしい鳥が、目の前で喚き散らしながら喉を掻き切られる様子は今で覚えています。白い羽の間から吹き出した赤い液体の臭いは鼻腔にへばり付いていたのでしょう。その赤い水溜まりを見た瞬間、吐きそうになるのを堪えながら、辺りを見回しました。  母が何処にもいないのです。その代わり、花弁のような血痕が廊下に点々と咲いておりました。  血痕は外まで続いており、雨のせいで流れていました。その代わり、大きな足跡が残っていました。恐らく父のものでした。母の小さな足跡は何処にもありません。雨が全てをかき消す前に痕跡を辿りました。  気付けば川辺に立っていました。蠢く川面は木やら岩やらを巻き込んで唸っていました。それに飲み込まれる妄想を頭から振り払い、両親から立ち入り禁止をきつく言い渡されていた河原に忍び込みました。  そこで見た光景は、死ぬまで忘れないでしょう。全身の力が抜けたのか、芋虫のようにぐったりとしていた母を担いでいた父親がいました。そして茶色く濁った濁流に母をポイと投げ込んだのです。    嵐は翌日に過ぎ去りましたが、村で納得していないのは私だけでした。皆が皆、母が自ら生贄となってくれたお陰で助かったという父親の言葉を盲信しているのです。  その数日後に父は、右も左も分かっていなさそうな幼い男児を我が家に迎え入れました。この子は、お前が駄目だった時用の予備だと私に言いました。  小さな男の子の頭を撫でました。洗い立ての子犬のように、フワフワと柔らかい黒髪でした。手を握ると、私より小さいのに温かかった。じっとりと汗ばんだ手で握り返しながら、お兄ちゃん、と舌足らずな呼び方で私に慕ってくれる弟を、私は必ず守ると誓いました。  彼は何も知らないのです。この村の闇も、彼自身が迎えるであろう未来も。  この呪いは私が断ち切ると決意したのです。大切な人を守るために、この村で死ぬのだと。 十六  雨に滲んだ庭を眺めていると、俺を呼ぶ声がした。明彦さんだった。肩の手当をし終えてから外ばかり見ていたからだろう。彼の顔をまともに見られない。先程言い渡された命令を、まだ彼に伝えていなかったのだ。俺に残された時間はあまり無いというのに。 「成海くん、やはり父に何かされたのでしょう?」  明彦さんはそう言い切った。何も答えられなかった。しかし上手い言い訳など思いつくはずもなかった。 「ああ、やっぱり俺に隠し事は出来ないな。そうだよ、旦那様から命令を受けた」  そして首を言い渡され、今日中にこの村を出て行かなければ罰を下されることを説明した。つかえたらその場で泣いてしまいそうだったから早口で。情けなさで体が潰れそうだった。 「それならすぐに逃げた方がいい。あいつは自分の為なら人を殺すことに躊躇がない」 「ころ……え?余りにも大袈裟じゃないか」  俺の言葉に明彦さんはきっと目を見開いて俺に詰め寄った。 「いや、あいつは人を一人殺してます。贄になることを拒んだ母を無理矢理……。だから逃げて」  瞬きも忘れて、俺は彼を見つめた。雨音が遠のく。そして明彦さんの言葉を思い出した。私の母は殺されたのです、と。あの時は生贄として犠牲になったことをそう表現していたのだとばかり思っていた。  明彦さんは母と同じ運命を辿ることを知っているのに、俺だけを逃そうとしている。ここを出て行けば、彼は責任を追及されることなく平穏に過ごせると思っていた。だからあの場で項垂れたのに。言葉を飲んだのに。 「明彦さん、俺と逃げませんか」  考えなんてなかった。思ったことをそのまま口に出していた。明彦さんを見る。彼の顔から表情は失せていた。外の雨はいつの間にか止んでいた。遠くの方で鈴虫が鳴いていた。明彦さんはゆっくりと口を開いた。  「私は行けないよ。そんなこと出来ない」 「そんな……。村が心配だから?ここに居たって、誰もあなたのことを大事に思ってる人なんていないのに」 「この土地に命をかける価値は無いだろうね。でも、私はここで死ぬと決めています。この呪いを断ち切ると。そして弟と君を守ると誓ったんだ」 「俺と令仁さんは自分の身は自分で守れるよ」  突然、明彦さんは壁を思い切り叩いた。空気が揺れる。 「そういう問題じゃない。そもそも君は何も知らないからそんなことを軽々しく口に出せるんだ」 「軽々しく?確かに俺は伝統とか一族の責任とは無関係だけど。明彦さんが背負ってるものを全部理解してないのに言い出すのは出しゃばりだ思ってたよ。でも、それでも言いたかった」 「何をそんなに必死になっているんですか。君にそんな義務はないのに。何故ですか」 「それは……」  唇が震えていつもの様に動かない。何故か涙が出そうだった。悲しさよりも強い感情なんて幾らでもあるのに。 「明彦さんに生きてほしいからだ。俺と一緒に逃げよう」  明彦さんは黙った。俺もこれ以上言葉を続けるつもりは無かった。奥歯を噛みしめすぎたのか、顎が軋んだ。 「君は素直で優しいよ。羨ましい」  静かで穏やかな声だった。彼の眼は濡れ、月明かりに照らされ、瞬いていた。  そして俺の頬を両手で包んだ。冷たかった。俺の顔が熱いのか、彼の指が冷えているのか。お互いの額が当たるほど、近かった。それなのに、彼の顔が見えなかった。黒い髪で覆われ、宵闇に包まれたようだった。  闇の中で彼の声がした。さようなら、と小さく告げられた。 十七  あの日から雨は止んでいない。何度儀式が延期になっただろうか。朝、雨音を聞くたびに死が忍び寄って来るのを感じる。  成海くんがこの村を去ってから数日経った。出番が延びるたびに私は、最後の会話を反芻する。  あの時、彼の手を振り払わなければ。素直に頷けたなら。もう取り返しがつかないというのに、そんな下らない想定ばかりする。  彼が去ってから、笑えなくなった。何をしても濡れそぼった心が温まることはなかった。自分で選んだことだというのに、もしもの話ばかり想像してしまう。  私と彼が隣並んで歩く光景を。広い世界に怯えながら、彼と手を取って生きたかった。彼が居なくなってから、初めてそう思えたのだ。自分の望みに気付くのがあまりにも遅すぎた。  雨音に混じって、窓ガラスを叩く音がした。窓辺に近づくと、ここに居ないはずの人間が泥棒のように壁に身を寄せて立っていたのだ。 「令仁!?どうしてここに」 「何となく嫌な予感がしてね。父に見つかる前に帰るつもりだからここで話させてもらうよ」  状況を飲み込めてないというのに、問答無用で会話が開始した。傘もささずにコートを頭巾のように被った令仁は私の耳元でそっと囁いた。 「成海くんが居ないけど?」 「彼は出て行ったよ」  予想通りの質問だったので手短に説明する。すると令仁はガックリと項垂れた。 「嫌な予感ばかり当たるんだ。最近雨は多いし、成海くんと父は相性が悪そうだから大丈夫だろうかと、様子を見にきただけなのに。ここまで深刻な事態だとは」 「お前が気を落とす必要はないよ。全て私が招いたことだから。令仁と彼を守れるからこれで良かったんだ」 「またそんなことを」  令仁の声は震えていた。暫く沈黙が続く。 「今日、ぼくは二人揃ってこの村を出て行ってもらおうと思って来たんだよ。説得するつもりで忍び込んだ。でも兄ちゃんは、また自分を犠牲にして人を守ったんだね。 でもぼくは兄ちゃんが自由になってほしいって思ってる。多分、成海くんもそう願ってたよ」 「そんなこと言われたって、私が逃げたら、後継であるお前に儀式の役割が来るだろう?私ががやらないと誰かが犠牲になるんだから」 「違うよ。もうぼくは自分のことは自分で守れるようになった。無理言って大学に行ったのも、そのまま行方をくらます為だった。だから逃げても大丈夫なんだよ」  そんな、と呟きながら私は震える体を両手で押さえた。ちゃんと説明するべきだったと謝る弟の声が遠のく。逃げてもいい、だなんて弟から言われると思っていなかった。  初めて逃げることを認めてくれた人は、もういない。その事実が何度も突き刺さる。 「今までぼくは兄ちゃんに助けてもらった。本当にありがとう。でももう大丈夫だよ。自由になってもいいんだ。誰かに助けを求めてもいいんだよ」    私は子供のように声を上げて泣いていた。父に聞かれないように袖で口を押さえても止まらない。雨が降っていて良かった。初めて感謝した。  その瞬間、母にかけられた言葉を突然思い出した。記憶の奥底にあったものが突然殻を破って産声を上げた。  扉を閉める間際、母は私に向かって優しい声で囁いたのだ。貴方だけでも生きて、と。  再開を誓って令仁とは別れた。去り際、令仁は私に向かってこう言った。 「それに兄さんには何か作戦があるんだろ?応援してるからね」  全てお見通しの弟に私は手を振った。 十八  あの夜のことを思い出すと別人にでもなったかのように身動きが取れなくなる。  あの時の俺は、明彦さんに価値観を押し付けただけだった。助けたい、一緒に逃げたいという気持ちに嘘はない。けれど、明彦さんの気持ちを想像出来ていなかった。自分の願いを一方的に押し付けただけ。それじゃ、彼の周りの人間と大差無いじゃないか。  地響きのような音で目を覚ます。見慣れない天井に戸惑い飛び起きたが、辺りを見回し、すぐに胸を撫で下ろした。ここが寝泊まりしている旅館だということを思い出したのだ。乱雑に脱ぎ捨てた服や鞄は浴衣に袖を通してから触れていない。貯金だけはあったので住むあてが見つかるまで留まっていたのだ。  川沿いの温泉街に佇む厳格な古い旅館。見た目と釣り合うような歴史と評価を持つ宿を俺は気に入っていた。それなのに今日はやけに騒がしい。  階段を降りると通りかかった従業員と目が合った。表情を取り繕う余裕もなさそうだというのに、俺を見るなり頭を下げた。 「朝からお騒がせして申し訳ございません。 間も無く嵐が来そうなので準備をしていたのです」 「そんなに酷いんですか?」 「川が氾濫する恐れもありますからね。この辺りではよくある事なので、今日は気を付けてくださいね」  そう言うなり去って行った。玄関は多くの従業員が動き回り、雑然としていた。俺はその場から退くのも忘れて立ち尽くしていた。    ここから流沢村は一駅分しか離れていない。外を覗くと、街沿いに流れる川の色は濁り、波打っていた。空は低く重い雲に覆われていた。    ついさっきまであれこれ考えていたのに、気付けば荷物を纏め、旅館から飛び出していた。何も決めていなかった。分かっていなかった。けれど足は動いている。  これだけは分かっていた。流沢村に戻らなくてはならない。あのまま豪雨を眺めながら居心地のいい和室にいたら、俺はそのことを一生後悔するだろうから。  何と言って謝ろう。どんな言葉をかけよう。何一つ頭に浮かばないまま、列車は動き出した。 十九  奥座敷の湿った畳の上で過ごしていると、襖が開き、薄暗い部屋に僅かな光が入る。 「そんな所にいたのか。今から着替えろ」  父は貧乏揺すりをしながら吐き捨てるように告げた。激しい雨が止む気配は無いというのに儀式を決行する。私が毎日のように想定していた現実が目の前にやって来たのだと分かった。 「髪はそのままでいい。すぐ川に向かえ」 「いやです」  雨音が一層大きくなる。遠くの方で雷鳴が聞こえたような気がした。あの日と同じように、天井から水が滴り落ちた。 「今、何て言ったんだ?」 「私は生贄になるつもりはない、と言いました。嫌だ」  そして私は懐に隠し持っていた鋏を取り出した。体温が移ってすっかりぬるくなっていた。 「な、何をするつもりだ」  父が一歩踏み出したと同時に刃を髪に当てがう。思わず立ち止まった。この村で一番価値のあるモノと錆びた鋏を近付けるのは楽しくて堪らなかった。 「残りは全て私の引き出しに隠してあります。安心してください。恐らく十年分はありますからね。伝説が本当なら暫くは安泰ですよ」  首筋に刃先が当たる。全身の毛が逆立った。冷たいからだろうか。心の底から興奮しているからだろうか。  耳元でザクと鳴る。その瞬間頭が軽くなった。私はわなわなと慄く父の目前で、髪を切り落としたのだった。  父を押し除けて、中庭を駆け、裏門から外へ出た。雨が顔を容赦なく叩く。膝が震えて崩れ落ちそうだった。走っても首元で揺れる髪はもう無い。首筋を風が撫でつける。  飛び出したものの、計画なんてこれ以上無かった。これから何処に逃げればいいんだろう。体の中心が激しく波打つ。胸を抑えながら駅を目指す。  駅は目の前だというのに、泥に足を取られ、派手に転倒した。全身が痛む。もう動けない。間も無く追ってきた誰かに捕まるだろう。私が目を閉じると、突然雨が遮られた。  恐る恐る目を開ける。雨に滲んだ視界に映ったのは、見慣れた人影だった。会いたくて堪らなかった彼が目の前にいる。私に傘をさしている。 「これは幻覚でしょうか」 「本物だよ。今はとにかく逃げよう」  駅員の制止を振り切り、私たちはびしょ濡れのまま列車の座席に倒れ込んだ。それと同時にドアが閉まる。窓を覗くと、プラットホームに何人か見知った顔がおり、こちらを悔しそうに見ていた。列車が動いたのを確認すると、背もたれに身体を沈めた。 二十  車両は俺たち二人だけだった。向かい側に座った明彦さんは、車窓を眺めたまま動かない。  時が止まったかと錯覚するほど緩やかな時間だった。ようやく精神が落ち着いた所で、長らく言葉を喉元に引っ込めたままだということに気付いた。 「あの」  小さく、細い声だった。明彦さんが窓から目を離して、俺を見詰めていたのだ。 「本当にごめんなさい。私は酷い言葉を君に投げつけた」 「俺こそごめん。自分の考えばっかり押し付けて、明彦さんの気持ちを想像出来てなかった」  そうだった。あの時は、俺が正しいと思ったことを押し通そうとしていた。焦って相手のことを考えるのも忘れて。  でも今は俺が望んだように、明彦さんが村から出て俺の側にいる。咄嗟に背負って列車に飛び乗ってしまったが、これは彼が望んだことなのだろうか。胸が再び苦しくなる。 「安心して。私がここに居るのは自分で望んだからだよ。あの時は驚いて本心から目を背けてしまったけど」 「でも俺が原因で明彦さんは危ない目にあった」  その事実が、彼から優しい言葉を告げられるたびに重くのしかかる。彼と俺の望みが一緒だった、望むように自由になった。その結果よりも、過去に気を取られる。俺のせいで明彦さんが死んでいたかも、と。  明彦さんは俺の手をそっと握った。 「そうかもしれないね。でも君の行動がきっかけで私は本心に向き合えた。生きる楽しさや逃げてもいいってことを教えてくれたから、私はこうして君と海を見ることができたんだ」    明彦さんはそう言って外に目を向けた。タイミングよく列車が止まった。 二十一  雨は上がっていた。二人で夢中になって駆けた。目の前に真っ青で平らな水面が広がっていた。川よりもずっと静かで雄大な蒼。これが海だと理解した途端、力が湧き上がった。浴衣が濡れるのも構わずに飛び入った。もう水は私を押し流そうとしないのだから。  はしゃぎ過ぎたのか、足を波に取られた。倒れる、と目を閉じると体が優しく包まれた。最初に目に入ったのは私を抱き止める成海くんだった。 「明彦さんの言葉のおかげで自分を許せた。もう責めるのはやめる。過去は消えないけど、結果的に今があるって思えたから。俺がしたこと全てが悪いことじゃないって分かった」 「そうか。さっき言いそびれたけど私は君と過ごす時間が好きなんだよ。その為なら何も怖くなかった」 「俺も明彦さんの隣にいる時が一番幸せだった。だから一度逃げた村に走って戻れたんだ」  成海くんの表情から影は消えていた。いつもの様に蕩けそうなほど穏やかな顔を見せてくれた。   「ねえ、俺の望みをもう一度ちゃんと伝えたい。この申し出は明彦さんの人生を変えてしまうかも」 「大丈夫です。もう私は自由だから自分で決められる。安心して」  それを聞いてホッとしたのか、態とらしく彼は咳払いをした。もう決意はできているというアピールの様でなんだか微笑ましい。  私は随分世間知らずな人間だと自覚しているけれど、彼の言葉が意味する事は分かっていた。  また辛いことが起きるかもしれない。もう大丈夫だと心から思える。これからは二人で支え合えばいいのだから。素直で優しい彼と共に歩く道に怖いものなんて何も無い。  成海くんは大きく深呼吸をして、私の手を握った。二人分の熱が孕み、そこが心臓にでもなったかのように脈打つ。彼が私を見上げる。涙が溢れないように強く見詰め返した。 「俺と一緒に生きてくれませんか」 「うん、私も成海くんと生きたい」  目の前に広がる青藍は私たちを祝福するかのように、燦々と輝き続けていた。 終

ともだちにシェアしよう!