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第1話
弟の尻を叩くと、犬のような愛らしい声を上げて逞しく育った身体が跳ねた。引き締まった肉が薄紅に染まる。
「お尻の穴を見せなさい」
甘たるい質感のある声で冷たい美貌の青年は言い放った。細いフレームの眼鏡を掛けているが、顔の一部にはならない不釣り合いな雰囲気があった。それでも視力矯正器ではなく洒落た服飾品と思わせる卒のなさがあった。弟の梢春 は従順に左右の尻たぶを広げた。片親の違う兄である十河 冬夢湖 とは似ず活発で手足や顔は日焼けしている。まだ白さの残る尻の中心で淡い色をした窄まりが蠢いた。弟の下から膝を抜き、四つ這いにさせたまま下に潜った。眼前に陰部がある。まだパンツで隠そうとしている前の膨らみを捲った。尻を叩いただけで勃っている。
「いけない子だ」
「ご、ごめ、なんかいきなり腫れちゃって…兄貴!」
先端部の窪みが濡れていた。それを一撫でしてから弟の下から這い出た。指を舐めるのを、無邪気な目が見ている。
「ごめんなさいお兄ちゃん、だろう?」
「ゴメンナサイ兄チャン」
弟の梢春は兄の亜麻色の髪よりもいくらか暗い髪をしていた。しかし頻繁に屋外スポーツやプールに遊びに行くため毛先は傷んで色が抜け、ぴんぴんと跳ねていた。筋張った白い手を放すと、弟は気紛れな猫のように飛んでいった。そしてアルコールティッシュの箱を持って戻ってくる。
「ちんこの汁舐めるの汚いよ」
「おちんちん」
「オチンチンノ汁舐メルノ汚イヨ」
「いい子だ」
バスケットボールのドリブルやバレーボール、キャッチボールは器用なくせ、日常生活では不器用な手が冬夢湖のしなやかな指を粗雑に拭いた。
「オレ、これから真恋愛 くんと勉強会すんだ。行ってい?」
「すぅちゃん、だろ」
「すぅちゃん、コレカラ―」
冬夢湖にとって学生生活は悩みの種だった。無邪気な弟が同年代の同性たちに汚れされていく。女の子と遊びなさいと一時期口酸っぱく言ったが、すると「ヤリチン」という言葉を覚えて帰ってきた。「させ子」とは何か、「キツマン」とは何かと彼は兄に訊ねた。教師と兄以外何か質問することを禁じた。しかし真城 恋愛 という友人のみ、家の出入りを許していた。「聡愛の幸福検証学会」という宗教に属している一点のみの理由で。
◇
友人が来る。真城は枕に顔を埋めた。そして慌てて除菌スプレーを部屋中に吹く。汚れた場所や変な物はないかと気を張った。大きな珠の付いたブレスレットを両手で握り、玄関で蹲る。インターホンが鳴るの待つ。そしていきなり開けるのは変だ、何秒空けて出るのがいいのか、様々にシミュレーションする。唯一の友人といえる十河が来るのだ。胸が張り裂けそうになった。そしてインターホンが鳴り、口から心臓を吐き出しそうになる。
「こんちゃ~!」
側 から見れば相容れない2人だった。十河は溌剌として炎天下と半袖シャツのよく似合う雰囲気を持っていたが、反して真城は濡れたように黒い髪に日に焼けた形跡のない白い肌をしていた。時折この友人に誘われ屋外プールやスポーツに誘われることはあったが焼けることなく赤くなる。
「入ってくれ」
「うん!お邪魔しま~つ。あ、そだ。お菓子持ってきた。大丈夫かな?あとこれ、兄貴から!」
十河は彼にとって、関わってみなければよくいる軟派で軽率な輩だった。しかし実際は過干渉な兄から制限を受けている。真城が受け取ったのは手紙と喫茶店の金券だった。梢春を頼むということと、苦労をかけるということだった。その礼として金券が付いている。友人という関係を買っているような気がして真城は嫌悪した。しかし突き返し方を知らない。
「どったの」
「先に部屋に行っていてくれ」
笑い方の下手な真城は耽美主義の彫刻家が作ったような度外れに整った顔を醜悪に歪めた。
「うん」
醜い笑みにも十河は真城の中の彼らしく朗らかに笑った。顔を覆って、友人に対する熱情をやり過ごす。そしてもてなすための用意をした。
十河は教科書を開いていた。成績も察しも悪いが育ちと地頭の良さはある。一度隣に座った。十河は炭酸飲料が飲めたため事前に買っておいたソーダの缶をグラスに注いで出しす。友人の家の匂いが届いた。ぎこちなくなる。今日こそはテーブル向こうに逃げたくなった。
「あ、真恋愛 、ピアス変えたんだ」
ランダムに呼ばれるニックネームに真城は顔を熱くした。十河の顔が近付く。
「あ……ああ。この前、誕生日でこの石の回り年というのがあって……」
宗教上の都合で真城は未就学児の時分からピアスを空けていた。聡愛幸福検証学会の方針で生年月日から守り石の回りが決まっていた。今は紫色の石が耳に刺さっている。
「えっ、誕生日だったの!わっ、マジか。ごめんな、オレ何もしてない!」
「い、いい!そういうつもりじゃなかった」
何か欲しかった。十河から何か欲しい。金の価値はそこでは無に等しかった。強く彼に結び付いた何かが欲しい。
「ダメダメ。何かさせてよ。何か欲しいもんある?あんま高いのだと難しいけど、兄貴のお手伝いいっぱいしてお小遣い稼ぐし」
「い、いい。本当に、何も要らない。テストで良い点とってくれ。それだけだ」
返事はなかった。耳が温かく湿った。悪寒に似た痺れが全身を駆け巡った。おそるおそる、首の骨や筋を軋ませながら横を向く。
「ご、ごめん!ブドウグミみたいだったから!あとフツーに甘くなかった!で、誕プレ、何がい?」
手が震えた。真城は様子を窺いながら十河の腕を掴む。ミント系や柑橘系などの制汗剤の匂いがしそうな爽やかな見た目に反し、石鹸や甘いフローラルな香りがする友人に、抑え込んできた努力が爆ぜた。力任せに押し倒してしまう。
「ごめんて!悪かったよぉう!」
両腕で顔を覆う相手からすぐに身を引けなかった。
「キスしたい」
「へ?」
「キスしたい」
「キ、キス!」
誕生日プレゼントに縋り付くしかなかった。譲れなくなってしまった。何か欲しい。十河から何かが欲しかった。強く彼を感じられるものが。目の前の顔が赤くなり、連動したかのように真城も顔を赤くした。
「キ、キスって、こういうやつ?」
武骨さのある手がウサギともキツネともいえない形を作り、口吻を模した三指を左右からくっつけた。
「結婚じゃん……男同士は結婚できないってママンが前に言ってた」
「頬に、だ!犬とか、猫とか、よくやっているだろう」
「そ、それ赤ちゃん、デキない……?」
「でき、ない………」
兄がまともな性教育を受けさせていないらしかった。保健体育の時間は別室に連れて行かれている。女子に手を繋がれ、赤ちゃんがデキちゃったのだと泣き出して校内放送で呼び出しを喰らい早退していたこともある。
「あのな、男同士で結婚はできないし、男同士で子供もデキない。覚えておいてくれ」
「で、でも、な、ナイショだよ、ナイショの話なんだけど……」
耳貸して、と彼は言った。この部屋には2人しかいなかったが、生唾を呑んで強張りながら耳を差し出す。
「兄貴が、男同士でも結婚できるし子供いる家もあるって言った…」
「法律が許すかどうかの話で、子供も、養子をとれば、そういう家庭もある……あと、キスでも子供はデキないし、手を繋いでもデキない」
「なんで?」
邪気のない眼差しに晒され真城は身を引いた。友人も起き上がる。
「なんで……?」
友人の恍 けた問いに彼は戸惑う。
『それだけじゃ受精しないからだ』
「―絶対神が介入していないからだ」
逡巡した。何か不思議な力が、真城の中にある理屈と秩序を捻じ曲げる。身に染み付いた習慣と刷り込まれた教えは、彼を自然に従わせなかった。
「絶対神って何?」
「俺たちが今見ているものを作った神だな」
「ふーん。でもい~なぁ、ピアス。オレも空けちゃおうかな?真恋愛くんは自分で空けたの?」
「いいや。俺は学会の人たちが……勝手に空けたら、お兄さんが怒るんじゃないか」
弟に自己決定権はないようだった。多少は干渉も必要だろう。しかし行き過ぎていると思うところもしばしばある。
「そだね、怒るね、兄貴。真恋愛 の見てるだけにする」
「見ているだけでいいのか」
「へ?えっ、どゆこと?」
十河は待てを命じられた犬のようだった。真城はひとりで顔を真っ赤にした。誕生日プレゼントにキスをねだった話は自然に流れてしまっていた。友人に触れたかった。この際、触れられるのでもよかった。しかしそのような意図はなく、ほぼ反射で言ってしまったことに真城は咄嗟に繕うことができない。
「だって舐めても甘くないよな?甘かった?舐めたとこが悪かったんかな?」
人懐こい大型犬のような空気を纏い、友人は真城に迫る。また耳が熱く濡れる。突然のことに内外問わず準備ができていなかった。身体が強張る。衣類が薫る。高い体温に包まれ、しなやかな肉感があった。舌先が真城の小振りな耳を擽った。ピアスを突つかれる。腰から力が抜けた。股の間で片想いが燻った。
「やっぱ甘くない。本当にブドウグミ?」
呑気なことを言っている隣の友人を睨んだ。真城の気も知らないで、十河はぶつぶつと何か言っていた。
「あれ?ブドウグミ?ブドウグミか。うん?ピアスだ」
舐められた耳から彼の感触が消えそうだった。まだ疼いている。弄ばれている。本当は互いに同じ想いなのではないかと疑ってしまう。誰の耳でも食むのだろうか。想像して真城は苦しくなった。腕を伸ばせば届く距離にいながら見えない壁がある。
「十河…」
「よし、んじゃ、お勉強するか」
脚の間がもどかしかった。抑えがたい衝動をどうにか留める。勉強をしに来た友人に不適切な欲望を抱き、実行する気もないくせに期待に胸が膨らみすぎて、張り裂けそうで圧迫している。苦欲に耐えるのに必死になった。教科書の式を見ながらノートに計算をしている。背は丸まり、集中して前のめりになって肘をついて姿勢は悪かったが、それが十河らしかった。後ろから抱き締めてみたくなる。淫らだ。
『我々は父親が母親を姦淫し産まれた咎人である。父親は強欲の罪人であり、母親は罪業を背負っているのである。絶対神はこう語る。咎人は罪人と業人を救い給え。咎人は哀れな処刑人を親にするのだ。男は苦欲に耐え忍び、女は疑痛に耐え忍ばなければならない』
淫らはいけない。キスをしたい。この欲求は十河に対する姦淫であり、加害行為に等しい。絶対神が許さず、罪人になってしまう。海にも空にも風にもなれず来世をまた繰り返すのだ。罪人男と業人女の処刑人たちを親にしなければならない。
「真恋愛 くん。ラブりん…?ねぇ、恋愛 くん」
日に焼けた手が真城の袖を掴んだ。布越しに体温を感じる。温かかった。
「どした?腹痛いとか?ストマックエイク?」
「い、いいや。何でもない。よく覚えていたな」
「ふふん。オレ結構英単語覚えたよ。偉いでしょ」
友人の得意げな顔も好きだった。しかし身体を引き絞られるような苦しみがある。舐められた耳はまだ疼いていた。股の間も同様だ。
「いい子ちゃんてしてよな~」
「それくらい、覚えておいてもらわないと困る…」
「うん、そだな」
十河はしかつめらしい顔をして、外方 を向くようにテーブルの上のノートに戻った。何か悪いことをして深く傷付けた気分になるほどの空気の変わりようで、シャープペンシルが緩やかに紙面をすべった。唇をもごもごと動かしながら尖らせ、しかし眼差しは真剣に問題を解いていた。褒められたかったのだ。彼は素直にそれを求めていた。手が伸びた。傷みきって硬くなっている髪に指を入れる。
「い、いい子だ。十河は、いい子だ」
ノートから離れた人懐こい目が大きくなって、真城に迫った。
「ホント?本気 ?嬉しい!」
真城からしてみれば、同年代に「いい子」などと言われ頭を撫でられたなら馬鹿にされていると感じるものだった。しかし十河は喜んだ。罪悪感を再び激しい希求が上回る。ノートに向かってしまわないように真城の腕は両側から友人の服を掴む。
「十河……」
「うん?」
「………あ、その…………」
『誕生日プレゼントのキスはどうなったんだ?』
「―さっき呼んでいただろう?何か訊きたいことでもあったのか」
十河からも組手をするように真城の両腕に応えた。本物の犬がするみたいに小首を傾げている。可愛い。湧き上がる感慨は肉体の反射の如く容赦なく口から突破しようとする。
「うん。ここの問題の答え自信なかったんだ。合ってる?」
合っている。教えれば呑み込みが早い。応用も利く。集中力に偏りがあり、単純な計算ミスは多く、見直しをしないが頭はいい。だが成績は体育以外悪い。
「合ってる」
「えらい?」
「ああ。えらいな」
「真恋愛くん」
色落ちした髪が肩に被さる。塩素や制汗剤の匂いばかりしそうな彼から洗剤が薫る。
「いっつも勉強教えてくれてんのにいい点とらなくてごめんな」
「そのことは気に、するな……でもどうしてなんだろうな。本番に弱いのか?」
勉強を教える点についてはまったく、真城にとって不都合はなかった。ただ点数に繋がらないとなると過干渉な兄が出てくるのではないかと疑いはあった。遊んでいる、二度と家に行くな、関わるなと。
「う~ん、兄貴さ、オレが点数悪いと嬉しがるから」
「は?」
「オレが点数悪いと嬉しがるんだよ。変だよな~。勉強しろって言うのに。ギュッてしてチュッてしてくれんだ。いいだろー?」
はしゃぎながら体当たりされる。ぶつかるたびに彼の衣服が匂い立つ。爽やかな外観に似合わない穏やかな洗剤の香りは、彼がまだ兄の強い保護管理下にいることを思わせる。
「十河の、お兄さんと?」
「うん」
「キスしたら子供がデキるんじゃなかったのか」
「キ、キ、キス、キ、スじゃないよ!チュウだよ!家族だし」
謎の理論を出され、真城は言い返す言葉を失くしてしまう。それから十河は、ハッとした顔をする。
「あ、そうだ。キ、スだよね。キ、キキ、キス、したいんだよね?」
「したい」
食い気味に返答する。引けない願いだった。誕生日プレゼントのキスが欲しい。誕生日プレゼントでなくてもいい。十河からキスされる取っ掛かりがあるのなら何でもよかった。いつも少し乾いている粗雑な、それでいて柔らかそうな可憐な唇に触れたい。触れられたい。
「ギュッてして、チュッでもいい?」
「いい」
真城は数度頷いた。
「緊張してきた!ちょっと手、汗すごいから洗ってくる!キッチン借りるねっ」
足音を立て友人はキッチンのある1階に下りていった。ひとりになって真城は顔を覆う。何故キスをねだってしまったのか。他人から施しを求めるのは卑しい。変に思われはしなかったか。過干渉な兄の耳に届いたらどうするのか。自己保身のために秘密を作ろうとするのは恥だ。その場で膝を抱いて蛹になる。キスはだめだ。断わろう。変に思われる。現に友人は恥ずかしがっている。真城は自身と会議を始め、だが結論が出る前に十河が戻ってきた。
「よし、やるぞ。真恋愛くん、いくよ?」
「ああ……」
心臓は高鳴っている。思考回路はもう辿れないほどに雑念が渦巻き、一部では現実逃避のようにまったく無関係な物事を真剣に考えていた。同時にこの場に一点集中しなければ後悔することも予感していた。それでいて目の前の出来事だけに向き合うことは、胸が保たない。
「えっと、ごめん。ちょっと緊張しちゃって。兄貴とするときは、フツーなんだけど……」
嫌がっているんだ、今からでも断れ。まだ自己反省会は続いていた。真城は引けない。着痩せする、身体に合うサイズよりも大きめな服に包まれた腕が真城を抱き締めた。黒々とした前髪越しに柔らかな弾力を感じる。肺いっぱいに寝ても覚めても理性を苛んだ人の香気を吸った。
「オレ真恋愛くん宅 の匂い好き~」
すぐに離れると思われた反発力のある肉感は真城を包んだまま留まる。鼻先が首や胸元を探った。猥雑な内心までが嗅ぎ取られてしまいそうだった。
「十河!」
抱かれる側から抱擁する側に回り、薄皮の剥けた唇に接吻した。頭の中は真っ白だった。目の前のこともよく分からずにいる。燃え滾る欲情に息も忘れた。前髪を隔て額に落ちた弾力が唇に触れている。即刻やめて謝るべきだ。行動と思考は一致しない。幼い頃から存在していた絶対神も創始者も隠れてしまった。
「りゃぶり……ッ」
彼の口が開き、口腔の熱と吐息、湿 りを感じる。理性の崩壊が加速した。真城は舌を熱い蠢きの中に挿し込む。他人の体温は苦手だった。だがこだわりも嫌悪も主義も思想も無視して、脳髄から皮膚まで馴染んでいく。
「ぁ、ふ……」
舌と舌が絡み、唾液同士の混ざる音の中で真城は沈黙しながら友人の名を呼んだ。音の無い響きだけで官能が高まった。口で深く繋がっておきながら、下半身が痺れている。
「りゃぶり……んっ、んっ、ぁ…」
歯が甘く縺れ合う舌を噛んだ。それすら昂るための新たな刺激になる。姦淫するな。姦淫するな。姦淫するな。典籍の一文ばかりが強烈に脳裏に張り付いている。
「れろれろくしゅぐっひゃ……りゃぅりん……」
友人の手が真城の胸板を叩いた。出不精な生活ばかりしていても体質なのか、そう薄くない筋肉がのっている。しかし十河のような膨らみはなかった。同性だからと無防備に開 けさせている胸元を真城はいつも劣情を催しながら顔を背けていた。女のような丸い膨らみとは違かったが、あどけなく健気な人格と成長していく肉体のアンバランスさがたまらなくさせる。
「まれぁきゅ………、ん……」
首が傾いた。一度奥深くまで舌を絡めてから離した。糸がまだ友人との間を繋いでいた。潤んだ目が眠そうになりながら真城を見ていた。喉が何度か嚥下で起伏する。
「……すまなかった」
「ん、だいじょぶ。でも、ホントに赤ちゃんデキないよね?オレ、まだパパになりたくない……」
「それは大丈夫だ」
「よかった!兄貴が老爺 になっちゃったら困るかっさ!」
彼は再び教科書とノートと向き合った。そのうち胡座をかいた膝が猫の耳のようにぴん、ぴん、と跳ねた。
「十河?」
「おトイレじゃないんだけど、なんか下半身、ムズムズしちゃって。たまに腫れちゃうんだけど、ニョーロケッセキかな?ニョーロケッセキって痛いんでしょ?どうしよ!オレ怖くて、ナントカ水しか飲まなかったのに。皆勤ショー狙ってたのにニョーロ欠席するのやだな…」
友人の不思議な世界観を真城は解していた。同じところが膨張し、同様に完全燃焼を叶えられず鬱屈している。
「別に何かの病気じゃないから安心してくれ…」
「よかった。兄貴には言えなかったから」
戒律ではなく、この友人は無知と兄の情報操作によって苦欲の中にいる。真城は実行できなくとも、その苦しみと苛立ち、悩みの解放の手段を知っていた。
「撫でて、やればいい。直に……手で、撫でるんだ。握り込むように…」
「え?」
「腫れてるなら…」
澄んだ目を受け止めきれなかった。視線を逸らす。
「そうなんだ!今度やってみるよ!」
色気のない笑みに苦欲が削がれる。好意と欲情、両方を友人関係に持ち込んでしまっている。励徳 が足らない。
「でも兄貴、オレがちんこいじると怒るからな~」
「隠れてしろ。家族の前ではするな。トイレとか、とにかく、一人でいる時にやれ」
「そだな!あ~……でも、」
「まだ何かあるのか…?」
「う、ううん。だいじょぶ!今度トイレでやってみる」
友人は、もう濃密なキスのことなど忘れたようだった。ひととおり復習を終えると雑談を交わし、人懐こい彼なりのスキンシップをとって帰りの時間が迫ってしまう。玄関まで来て、真城は十河を呼び止めた。少し待たせて、以前耳に付けていた石のピアスを握らせた。
「消毒はしてある。もし付ける機会が………なくてもいい。御守りだ。絶対神とか検証学会とか聡信 総裁とかそんなんじゃんなくて、俺が……その、いつでも、十河の味方だから」
針の付いた青い小石が少し子どもっぽさのある掌に転がった。きょとんとした顔で想い人は石ではなく真城を見ていた。
「えっ、いいの?ありがと、真恋愛くん」
玄関扉を友人が潜った。腕を掴んで引き止めたくなった。しかし真城は口を開かなかった。また会えるというのに、長いこと会えないような心地になる。これをほぼ毎回繰り返した。濡れたように黒い艶やかな髪に今にも数本、白髪が増えたに違いない。友人が振り返り、手を振る。また明日。次もよろしくね。バイバイ。曲がり角で消えた姿に伝えられなかった告白をする。
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