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第2話

◇  帰ってきた弟を冬夢湖(ふゆみ)は玄関で出迎え抱擁する。 「おかえり、すぅ」 「ただいま兄貴」 「お兄ちゃん、だろ」 「タダイマ、オニイチャン」  他人の家の匂いを付けている梢春(すえはる)に身を擦り付ける。 「今日はお友達と何したんだ?」  リビングまで引き連れながら訊ねた。ソファーに座る弟に飲み物を出す。子供の頃から好きだった「リンゴジュースのびるんるん」だ。よくある黄味の強い不透明なリンゴジュースではなく、褐色で酸味の少ない透明感のある子供向けの飲み物だった。弟はそれを無邪気に飲み干す。 「お勉強して、あとね……レロレロした……でな、御守ももらった!」 「御守?」 「うん、真恋愛(まれあ)くんが付けてたピアス。綺麗な色してるでしょ?」  弟は小さな石に金具の付いたものを見せた。分不相応(ぶんふそうおう)だ。いかがわしく胡散臭い拝金宗教の金ヅル狂信者が泥吐泥(どろへどろ)の付いた手を弟に伸ばしている。繁華街を跋扈する暴力団よりも腥い邪教の養分にする気なのだ。 「ピアス、空けたい。いい?」 「色気付くな」 「え?」 「すぅ、おいで」  ソファーに座る弟の足元に冬夢湖は膝を付いて座った。膝を叩いて両腕を広げる。梢春は腰を上げ、兄を前にして椅子のようにそこへ座った。 「お兄ちゃんにもレロレロしてくれ」 「兄貴に?」 「お兄ちゃん、だろ。お兄ちゃんにはできないことなのか?お友達とはできるのに?お兄ちゃんにもできるよな。お兄ちゃんを仲間外れにしないでくれ」 「ゴメンナサイ、オニイチャン」  ぴんぴんと跳ねた髪を長くしなやかな指で梳く。子供用シャンプーがこの髪質に合わず、別のシャンプーに変えた時は葛藤したものだった。芳しい香りが残るのはいやらしい。 「お兄ちゃんにもできるな?」 「う、うん、オニイチャン…」  弟の顔が接近した。一度躊躇うように角度を変えてから冬夢湖の唇を塞いだ。おずおずと舌先が伸び、冬夢湖は口を小さく開いた。するりと内部に入ってくる。拙い動きで兄の口腔を(まさぐ)る。何か探しているような、不器用で雑な色気のなさがあった。それに満足する。弟の身体を強く抱いて固定し、冬夢湖からも舌を絡ませた。裏表の質感の違いを使って弟を責め立てる。何度も仕置きを重ねた硬い尻を押さえると腹に膨らみが当たった。 「ぁ…ぅんッ、」  鼻から声が抜けていく。保護欲と加虐心が燃え上がる。何歳になってもどれだけ背が伸びても、弟は庇護対象だった。女には渡さない。親にも任せない。どこの男にも汚させはしない。 「すぅ」  舌先が融けて弟のものと一体化したような感覚だった。支えていなければ彼は後ろに倒れてしまいそうで、蕩けた瞳は虚空に囚われている。 「頭、ぼーっと、する……」 「寝るか?」  再び唇を封じて返事を奪った。狭くぬるついた弟の中で上下左右、場所が入れ替わりながら激しく舌同士が縺れて絡む。甘い唾液が溢れ出る。冬夢湖は脚の上の重みが震えているのに気付いた。貧乏揺すりのように小刻みに浅い運動を起こしている。さらに強く弟を抱き寄せる。腕に負荷がかかった。 「あ、ぅ……っ」  されるがままになっている舌を吸い、互いの唾液を(まぶ)した。下品な水音が聞こえる。ただのハーネスやサスペンダー、ベルト代わりになっている手で尻を揉む。弟の腰がくねった。彼の下半身が兄の腿を擦る。逃げようとしているつもりで貪欲に求めている。 「ぁうう……っんあ、」  がくんと弟は強く兄の腹に膨張を押し付けた。腕の中で身体を波打たせている。ひく、ひく、と腰が揺れ、冬夢湖の腿を往復している。 「こんないやらしいことをしていたのか。ダメだろう。このまましてたら子供がデキてしまうよ。すぅはパパになれるのか?子供の面倒看られるのか?お兄ちゃんから離れて…」  口の端から涎を垂らし、梢春は何も聞いてはいないようだった。いやらしい射精の余韻に浸っている。握っているピアスを奪い取ろうとした。だが弟は拒絶する。 「あ………ぅう…」 「あの子と付き合うのはもうダメだ。こんないやらしい遊びをして。そんな弟は要らないよ、すぅ。よその家の()になりなさい」 「ご、めん兄貴、ごめ…」 「お兄ちゃん、だろ、すぅ。何度言わせるんだ」  反抗的な指が解かれた。ラピスラズリのような石を没収する。 「ピアス穴を空けるなんていけない。子供のくせに色気付いていやらしいな。お尻の穴を見せなさい。恥ずかしい子だ」 「許して、兄貴………」 「違うだろう、すぅ。お兄ちゃん」 「ユルシテ―」  梢春はよろよろと履いているものを下ろした。  弟の精失禁した白いブリーフに冬夢湖は鼻を先を埋めた。梢春の汗と洗剤と、そう濃くはない彼自身の匂いがする。洗濯機の前で滾りを慰める。弟の性の匂いに昂った。背は高く伸び、筋肉質ではあったが顔立ちは優美で中性的な色を残し、鍛えても華奢な印象を与えてしまう兄に反し、可憐だった弟が逞しく精悍な雄になりつつある。不可逆的な変化に切なさを覚え、それが甘かった。張り詰めたものを扱く手が止まらない。兄の自慰の淫肴にされている弟が哀れで愛しかった。しまいにはブリーフで(みなぎ)りを摩擦した。ボクサーブリーフやトランクスを履きたいと言っていたのを跳ね除けてしまった。だがこの時分に白いブリーフは却って目立つ。女は遠去けられるかも知れないが男からは目を付けられてしまうだろう。ろくでもないクラスメイトから不都合な教育をされるのだ。弟に新しいパンツを買ってやろう。冬夢湖は手淫に耽り快感を追い求める片隅で決心した。そして弟の粘液が乾いた布に放精する。洗濯してしまうのが惜しかった。しかし異物が混ざった。残滓まで吐き出す。弟の肌を覆っていた布が速度を落としながら兄を快感の淵まで追いやる。弟と新しいパンツを買い行き、このパンツを持っておくのだ。洗いたくなかった。まだ冷静さを取り戻さないが手洗いを始めた。年相応の下着を身に付ける弟を想像して恐怖した。弟が住むにはこの世のほとんどのものが下品でいやらしく、卑猥だ。  卑猥だ。一度信じた搾取教団の養分も、結局のところは猥褻な人間だった。冬夢湖は怒りに満ち満ち、激しい喉の渇きに目が覚めた。寝汗をかいている。水を飲みにキッチンに向かった。トイレのドアの隙間から光が漏れている。家では閉めるなと口酸っぱく言っていた。ドアノブを捻る。カギは掛かっていなかった。梢春が可愛らしい声を上げて肩を弾ませる。 「トイレのドアを閉めるなと言っただろう。地震が来たらどうするんだ?俺が圧死していたら?すぅは子供なんだから」  弟は陰部に短い指を絡ませていた。兄に似ず普段は皮に半分埋まっている燻んだ桃色を膨らませ、トイレの明かりを薄い膜に映している。 「何をしている」  自慰行為に耽っているようだった。手付きからして慣れていない。つい最近覚えたのだろう。歯ブラシを持つような向きで、手首を傷めそうな握り方をしている。弟は目を丸くしておそるおそる股の間から手を離す。 「ちんこ腫れちゃって……ムズムズするから……」 「おちんちん、だろ」 「オチンチン、ムズムズしたの、撫でたら治るって…」 「誰が言ったんだ」  梢春は蕩けた顔をして、悪徳宗教団体の末端信者の名を挙げた。 「すぅ……おちんちんいぢいぢはもうやめなさい。恥ずかしいことだ。すぅ!」 「ご……ごめん、兄貴。でも寝れなくなっちゃって……」  叱りつけると弟はぼそぼそと呟くように弁解する。 「お兄ちゃん、だろ」 「オニイチャン、ゴメン」 「寝られないならお兄ちゃんと一緒に寝ればいい。そうだよな?すぅ。おいで。おちんちんいぢいぢはもうするな」  梢春が自主的にやめるのを待っていたが弟は便座に座ったまま寝間着を直す様子はなかった。兄は甲斐甲斐しく弟を服装を整えた。手を洗いたがり、それは認めた。手を洗う弟の横で水を飲み、自室に引っ張る。梢春は拗ねたように冬夢湖に背を向けてしまった。 「おちんちんいぢりは最低だ。すぅのお友達は恥ずかしいんだ。おちんちんいぢいぢするのはヘンタイだから、もうそのお友達と喋ったり遊んだりしたらいけない」 「真恋愛(まれあ)くんはそんなんじゃないもん…」 「すぅ。お兄ちゃんは、すぅのことを想って言っているんだ。おちんちんいぢいぢは頭が悪くなる。おちんちんいぢいぢすると女の子を襲う犯罪者になるんだ。すぅは馬鹿な犯罪者になりたいのか」  体温の高い身体を抱き締めた。程よく筋肉のついた背中が肌に馴染む。 「お兄ちゃんよりお友達を信じるのか」 「だってちんこ、気持ち悪い…」 「おちんちん、だろ。そんなにお兄ちゃんよりお友達がいいなら、お友達の家の()になればいい。もうすぅのことなんか知らないぞ。すぅがたくさんおちんちんいぢいぢして馬鹿な犯罪者になっても、お兄ちゃん、すぅの面倒看られないんだからな。お友達に見放されてもな」  蹲る弟は黙っていた。冬夢湖も黙った。眠りに落ちたのかと思ったが、梢春は寝返りをうって兄と向き合った。 「お尻の穴見せるから、許して…」 「分かったならお兄ちゃんはそれでいい。今日はもう寝なさい。おちんちんは明日には治っているから」  弟が肩口に顔を寄せ頷いた。まだわずかに湿気を帯びた髪を撫でる。弟の可愛いらしさから離れることなどできない。そもそも手放す気などなかった。毒電波の受信者を選んだとしても見放すことはできない。弟を愛している。 + 『ごめんな、もう勉強だいじょぶだから』 『ちょっと……忙しいだけだから。ごめんな、また今度…』 『兄貴が……もう真恋愛くんと遊んじゃダメだって………ごめん』  目が開いた。首を絞められているような苦しさがあった。濡れた頬を拭う。朝になっていた。今日は隣の部屋に引っ越しが入るらしい。真城の通う大学の別の学部のキャンパス替えで、このアパートにやってくるという。そのために少し物音が聞こえたり出入りに手間取ると通知が入っていた。このアパートに入ってくるとなると、身内かも知れなかった。法器を打ち鳴らしたり、(きよ)め線香を焚いたり、励徳 読誦(どくじゅ)の音声出力をすることを許された数少ない物件だった。オーナーが熱心な信者で、管理会社の社長もまた身内だった。得体の知れない胡散臭い怖い宗教という風評に抗うためかアパートの外観は垢抜け、敷地内にダストボックスもあり、花壇や外構の手入れも行き届いている。内装もしっかりし、悪くはない造りだった。真城は1年住んでみて満足している。  休日に早起きしてしまった。寝覚めは悪い。もう一度横になる気にはならなかった。戻らない日々と息苦しくなる過ちと色褪せることのない恋心が時折こうして牙を剥いた。今日は特に酷かった。誕生日プレゼントとして無理強いし得たキスはほんの刹那に甘く、しかし深々と相手を傷付け、(もり)の如く突き刺さったまま抜けずに錆びて腐っている。3年からはクラスが変わり、もう話すこともなく赤の他人同然になった。思い出は甘さと刺々しさを持って墓場に埋まるのだ。否、息の根が止まるのと同時に消える。或いはその前に忘れ去るのだ。家族の顔も分からなくなる時に。少しの間物思いに耽ってから習慣になっている励徳をした。読誦(どくじゅ)はせず、音声を流してちん、ちん、と法具を打ち鳴らす。浄め線香を焚いた。熱心な信者は煙を浴びるのだが真城は昔から煙も匂いも嫌いだった。まだ煙草の匂いのほうが品があり、有毒なだけ中身がある。彼は軽度の強迫観念として定着したこの教えと務めを果たし、気怠げにベッドへ腰掛ける。何か身になった試しはない。来世のためと言われても前世はすべてを放棄したのかと思うほど変わり映えのない今生を歩んでいる。幸も不幸もない日常が成果であるというのなら聡愛の幸福検証学会の者にとって人の世の難易度は高い。おそらくは虫や鳥に生まれ変わり弱者として捕食されるか斃死(へいし)するよりずっと。役目を与えられ食い扶持もありいずれは屠殺される家畜に生まれ変わるよりも或いは。  物音はしていたがうるさいというほどではなく、真城は特に気にならなかった。気付けば静かになっていたほどで、慣れない土地に引っ越してきた、顔も名前も知らない隣人の心細さを自身の過去と重ねて慮ったり、隣人が引っ越してきているということももう頭から離れ、別のことを考えたりなどして過ごしているとインターホンが鳴った。保険会社やガス会社の営業と思われた。真城は断ると決めていてもとりあえずのところ毎度応じている。惰性で付けているチェーンロックは付けたままドアロックを外す。「検証学会は拝金主義で喜捨する金を蓄え込んでいる」という話は流布(るふ)している。資産家は検証学会幹部役員だの、聡愛信者なら金持ちだなどという図式まで出来ている。そのために防犯は口酸っぱく言われていた。ドアを開けるとまずサンダルが見えた。有名なスポーツブランドのロゴが大きく刻まれたシャワーサンダルだった。苦々しい思い出の中の友人がふと脳裏に浮かび、その人物をそのまま訪問者に馳せてしまう。丸い目が驚いたように真城を見ている。真城も、苦々しい思い出から成長して出てきたような人物に固まった。顔も服装のセンスも彼によく似ていた。 「あ、あ……えっと…」  気拙げな顔が答えを出した。大きな目が忙しなく動いた。何を言いに来たのか忘れた、と素直な仕草が語っている。 「隣に引っ越してきた方ですか」  頭を真っ白にしているらしい相手は隣人を凝視したまま口をぱくぱくさせているだけだった。真城から話しかける。 「あ……えっと、真恋愛(まれあ)く……?あれ?」 「はい。真城ですが……」 「あ、あの、ずっと前は、ご、ごめんな…」  甘さを上塗りした苦く渋く蘞味(えぐみ)のある過去が真城を突き刺す。目を逸らした。見ないふりをした。向き合わないことにした。 「ハジメマシテ。真城 恋愛(れいあん)です。どうぞよろしくお願いします」  ドアが軋んだ。チェーンロックがぴんと直線状に張る。見知ったまま微かな精悍さを帯びた顔が一歩分近寄った。 「ハジメマシテじゃないぞ!」  真城は勢いに()され首を引っ込めた。口を開くと喋り方が見た目より幼いのも変わらない。 「ハジメマシテじゃ、ないもん……オレ真恋愛くんのコト知ってるもん…」 「十河(そごう)…」  久々に声にした名前に寒気がした。頬を膨らませた古い友人は俯いてしまう。また傷付けてしまった。誘って、断られたときに傷付いていたのは断っている彼のほうだった。噛み締めた唇や、裾を握る癖を真城は知っていた。 「そのほうが、いいと思った。十河も、そのほうが暮らしやすいかと……まさか隣に越して来るだなんて思わなかったから………」  平然としているようで、自分のその態度に真城自身も半ば驚いていた。現実味が足らなかった。レポートを書いているか参考文献を読み漁っているうちに寝てしまったのだ。そして夢を見ている。おそらく。それでも安心感があった。離れたところで、明るく直向(ひたむ)きな彼は昔のことなど忘れ現在の時間軸を満喫しているに違いない。彼の中の汚点にはなったはずだと思いながらもただ逃れようと、苦々しいのは自己嫌悪と罪悪感のためだと決めてかかり、そして夢の中で許された気になる。或いはこの初対面の隣人に、知己の皮を被せている。幻覚に囚われているのだ。目の前に十河梢春が現れるはずはない。 「真恋愛(まれあ)くん、怒ってない…?」 「何故、俺が怒る」 「オレ、ヒドいこと言ったから」 「言われた覚えがない。俺こそ酷いことをした。怒るなら十河のほうで、俺には怒る理由なんてひとつもない」  大きな目は訳が分かっていないようだった。首を傾げ、上目遣いで真城を顔色を窺う。 「真恋愛くんのこと、無視した」 「無視はしていないだろう?お兄さんの言いつけを守るなりに、俺には誠意を持って接してくれたと思っている」  兄か友人か、選べと言われたら肉親を選ぶことになるのは仕方ない。当時は何度も自問自答した。彼の兄は過干渉で過保護だ。接頭語に「クソ」も付けば「毒」も付くほとであっても兄を選ぶ。未成年の高校生の時分で、血の繋がらない別の家庭の他人を選べるはずがない。 「真恋愛くん」  逆剥けのある唇に馴れ馴れしく呼ばれた。『これからまたよろしくな』。気の利いたことは何も言えなかった。重苦しい記憶をまた無彩色に上塗りするようなことがあってはならない。それだけだった。 「隣人としてよろしく」  話を終わらせる一言を口にした。 「あ…うん。じゃ、また」  黒と白のシャワーサンダルが横を向く。それを認めると真城は玄関ドアを閉めた。彼のように素直になって、謝り、許しを乞い、そしてまた昔のように友人としてやり直したい-と言えなかった。彼は偏屈な自分の性格を呪った。ドアに凭れ、(うずくま)る。長く苦い時間をかけ鎮まっていた想いが昔のまま瑞々しく燃え上がる。友人に向けるには相応しくない感情に炙られ、焦がれてしまう。壁ひとつ隔てた生活音に食事は喉を通らず、眠ることもできなかった。 ◇ 「クズが!」  黒いピンヒールブーティが股座を踏んだ。冬夢湖は小さく喘いだ。彼は毛先の巻かれた長い髪のウィッグにフリルや大振りの飾花の付いたヘッドドレスを付け、淡いピンク色を基調としたパフスリーブのロングドレスを身に纏っていた。目の前の女は赤いニットにレザージャケットと黒いタイトスカートを穿いていた。腿の半ばから足首まで素肌を晒し、冬夢湖へ敵意に満ちた眼差しを向けた。 「人殺し!ド変態が。何勃たせてんだ!」  緩く縛られた手を乱暴を装った慎ましやかな力で掴まれる。冬夢湖はか弱い声を溢す。 「今のオキモチを言ってごらんよ、殺人ブタ!父殺しめ、英雄気取りか!」 「アイシテクダサイ、アイシテクダサイ…」  冬夢湖は怯えきった声音でぶるぶると震えながら呟いた。 「アイシテやるよ!」  ドレスの(たわ)む膝の間をピンヒールがさらに力を持って進んだ。 「あ………ぁあ…」  レースの手袋に包まれた両手が拘束されながら女のほっそりした足首を掴んだ。切腹をする侍のように自身の腹に踵から生えた刃を受け入れる。頭上から女の溜息が聞こえた。艶やかな黒髪を耳に掻き上げ、同情めいた視線とぶつかる。 「ありがとう」  冬夢湖は簡単に、普段の調子で礼を言った。ピンヒールが股から離れる。たった一言発した声は携帯非常食になるほどカロリーの高そうな甘い質感だった。 「いいえ!別に」  彼女は呆れた様子でわざとらしく語気を強めた。 「脱ぐところも見ていてくれ」  女は曖昧な仕草を返した。冬夢湖は両手を縛っている縄を簡単に外し、丸みの強い大きなサイズのパンプスを焦らすように脱いだ。靴下も厚手のストッキングも見せびらかすように脱いでいく。 「早く着替えたら。さっさと帰りたいんだけど」  女は不機嫌らしく、美しく顔に険のある皺を刻んでいる。 「見ていてくれ。全部。裸になるまで」 「本当に変態なんじゃないの?よくそれで"弟は俺が育てた"なんて言えたわね!」  純白のファーマフラーを外すと、顔立ちは中性的ではあれど、男性的な輪郭が露わになる。ドレスを脱ぎ、羽化する(アゲハ)蝶を思わせながら裸体が現れる。女は彼を眺め、きつさのある目付きをさらに化粧で強調させた目をわずかに柔和にした。 「弟のことは、言うな……」 「言いますね!だってアナタ、弟のこと言われると興奮する変質者じゃない」  冬夢湖の切れの長い目がぼんやりとしはじめた。 「梢春…」 「弟に言いなさいよ、女装して虐められるのが大好きなド変態なんですってね。それとも、――」  女の声がふと耳鳴りによって消えてしまった。冬夢湖は耳を押さえた。ヘッドドレスが少し小さかったのかも知れない。或いは砂糖漬けみたいな香水が鼻を突き抜け、脳を刺激してしまったか。 『――お母さんごっこしてんじゃないの?』  女の声が胸を裂くようだった。すぐ傍にいる女は彼を案じるような、それでいて不満げな顔をしている。彼女は婚約者だった。世良田(せらだ)恋愛嵐(りあら)という。ベッドを共にしたことはない。婚約者や恋人の中に潜んだ甘い意味合いは無いに等しく、肌の介在しない(ただ)れた関係が出来上がっている。婚約指輪の受取を拒否するために彼女の左手薬指には小型の絆創膏が常に巻かれていた。 「また出た。病院に行きなさいよ。あれよ、祭壇内仏に祈って拝むような医者(ところ)じゃなくて、心療内科に行きなさい」 「俺を心配してくれているんですか」  冬夢湖は陰険に口角を吊り上げた。 「まさか。いきなり悲劇の婚約者になるのは困るって言ってんの。どうせアンタなんかビルの上から紐無しバンジーするんだから。あ、これ自殺幇助でも自殺教唆でもないから、アナタ、本当にアイキャンフライするならあたしに相談して来ないでよね」 「勿論、勝手にやりますよ。一筆、遺しはしますがね」  婚約者は肩を竦めた。冬夢湖は全裸であることも厭わずに冷めた笑い声を殺す。

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