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第3話

◇  ゴミ出しの時間が隣人と重なり真城はぎくりと肩を弾ませた。相手も彼の存在に気付いた。少し眠そうだった。うるさくはなかったが夜中まで微かにテレビの声が壁越し聞こえていた。 「あ……オ、オハヨ!真城くん」  欠伸をキャンセルし挨拶に続いた呼び名愛称ではなかった。些細なことが真城の喉元で凝り固まる。 「おはよう…」  聡愛の幸福検証学会の読誦(どくじゅ)が聞こえた。法具がちんちん、ぽくぽくと鳴っている。長い片想いをしている相手に胸の内を晒すような羞恥があった。政治と宗教の話は無難ではない。何か話しかけたかった。しかし話題はなかった。いつもは無邪気な友人から話を振り、真城が広げていた。彼に限らず、友人との会話の仕方をもう忘れている。ドラマや映画、小説でよく見る依存気質な恋人みたいに、真城には十河(そごう)梢春(すえはる)しかいなかった。 「ついでだから、持って行く」  探してみても話せることなど何もなかった。真城は目を伏せ、手を差し出した。傍に居るだけ苦しい。それでいてその苦しみを欲してもいる。 「えっ、いいの?」  真城は頷いた。胸の鼓動が速まり、喉が締め上げられるような心地がする。この旧友のことは好いているが同時に(いばら)が巻き付くようでもあった。日に焼けた手がゴミ袋を渡そうとして、結局渡さなかった。 「あ、でもオレ、ゴミ出す場所よく知らないんだよね。悪いんだけどさ、教えてくれる……かな?」  彼らしくない頼み方だと真城は思った。それが今の間柄なのだとまざまざと見せ付けられる。前ならば「教えてくれよ」と溌剌とした態度で、拒否の選択など最初から無かったかのように言ったのだろう。彼に、この人懐こい隣人が歩み寄りを見せようとしていることはまるで見えていない。 「分かった」 「ありがとな」  何度も聞いた礼もぎこちなく、遠慮がちだった。些細なことが針になって毛穴ひとつひとつを穿(ほじく)り出すみたいだった。読誦と法器の音の中を真城が先頭になって歩いた。幼い頃から毎朝聴いている経典に辱められている気分だった。 「どうしてこのアパートを選んだんだ」 「兄貴がここならいいよって言ったから」  まだ兄離れはしていないらしかった。荷解きで出たらしい大きなゴミ袋を抱え、幼児のように歩いている。階段を降りる足取りが危うい。真城はシャワーサンダルから目を離せなかった。高校時代から上履きも靴も彼は踵を踏んでいた。休日に遊ぶ時もビーチサンダルや発泡樹脂でできた軽い履き心地のスリッパサンダルばかり履いていた。変わらない。あの頃のまま多少逞しさと精悍さを携え、そこに居る。身体の内側に火を点けられ、その後の扱い方を真城は知れないでいる。 「足元、暗いから気を付けろ」 「うん?うん!あっ…!」  足元を確認すると同時にシャワーサンダルが段差を滑った。真城はゴミ袋を放り投げ、バランスを崩し宙を掻く隣人に近寄る。しなやかな肉感がぶつかった。腕の中に捕らえ、勢いを持った体重を支えきれず、真城は旧友を抱き留め重力に呑まれた。肩を打ち付ける。高い体温を守った。肘と膝を打つ。ゴミ袋が下に転がっていった。痛みよりも懐かしい匂いと新しい匂いを先に感じた。鎮痛剤にも似ていた。痛みを上塗りする火照りが爪先まで駆け巡る。鼻先を恋焦がれた高校時代の想い人の毛が(くすぐ)る。彼の匂いを求め、酸素不足になりかけた。 「ご、ごめん、真城くん!」  胸板に寝そべる相手が覆い被さるように腕を立てた。視界が陰る。至近距離に十河梢春の顔がある。唇の荒れまでよく見えた。思わず手が伸びてしまった。痛みはなかったが肘は滑らかに動かなかった。 「俺は大丈夫。十河は?どこか痛むところはないか」  関節が小さく軽快な音を立てる。日に焼けた肌に触れる。互いが吸い付き合うように彼の肌理(きめ)が指紋に沿う。 「だいじょぶ、オレは全然。でも真城くん…」 「怪我が無いならいい。俺は平気だから気にするな」  痛覚は遅れてやってきた。しかし十河の手前、膝や肘や腕を摩るわけにはいかなかった。まだ十河は立ち上がらなかった。そのために真城も立ち上がれなかった。思い詰めた表情に見下ろされる。 「十河…?」 「ごめんな。こんなんじゃ、また嫌われちゃうよな……オレ、また真城くんと仲良くしたいのに……」 「何を言っている。嫌うわけない。俺が十河を嫌う理由がない………十河は俺と仲良くしてくれるのか…?」 「でもオレ、真城くんのこと無視したし、もう遊ばないって言ったじゃん。オレ、真城くんが許してくれるなら、また仲良くしたい」  ただでさえ答えはひとつしかなかった。それを十河は物悲しげな顔で言う。真城はもう片方の肘も鳴らして両側から彼を掴んだ。 「俺も」  隣人は一度大きく吃逆を起こしたように見を震わせ、そして飛び起きた。 「よかった!オレ、ずっとそればっか気になってた。あれから…体育祭も球技大会も、学園祭のときも、卒業式の時もさ……」  十河が立ち、真城は起き上がって弱くだが打ってしまった側頭部を押さえた。些細なことが気に掛かった。素直で大胆な友人は些細なところに濃縮された本音がある。真城はそう信じていた。期待を見出してしまう。 「……俺のことを、ずっと…?」 「うん。だって、いきなりだったし。全部言い訳みたいだけどさ、兄貴も、何でいきなりあんなこと言い出したのか分かんなくて……オレは真城くんといて楽しかったし、真城くんと遊ぶの大好きだった。なぁ、またラブりんって呼んでもいい?」  転がったゴミ袋を拾い、十河は首を捻った。真城はこの仕草に弱かった。心底参っている。 「ああ」  俺も梢春と呼んでいいか、の一言が出せなかった。胸中では何度も呼んだ。眠れない夜、冷めない火照り、狂おしいほどの欲求の中では何度も呼んでいたが、声を伴い、本人を相手にするとなると口にできそうになかった。 「よかった~、オレここ選んでよかった!風呂もトイレも別だし、ゴミ捨て場も近いって聞いたし、コンビニも大学も近いしさ!それにまた真恋愛(まれあ)くんと仲直りできたし!最初ビックリしたし人違いかもって思ったけどよかった~」  鼻の下を指で擦り、彼は高校時代の明快さを取り戻す。真城はそれを傍で目にしておきながら、大きな隔たりを覚えた。この友人にだけ別の時間が流れているようなある種の羨望とそれよりも疎外感だった。ここはまるで彼を基準の世界で、そこに紛れ込んでしまったような。 「またよろしく!隣の家の人じゃなくて、友達として!な?」 「ああ」  些細なことが魚の骨のように喉に刺さる。突き放した一言も彼にとって魚の小骨になっていたのかも知れない。 「…傷付いたか?」 「え、何が?」 「いいや…何でもない」  円い目がきょとんと捻くれたところのない視線をくれた。真城は目を逸らしてしまう。ほぼ反射だった。ゴミ捨て場を案内する。友人に戻れた喜びは確かにあった。それ以上に息苦しさが胸部に張り付いている。 「じゃあ、またな」 「うん。うるさかったらすぐ言ってね!オレ、そそっかしいからすぐうるさくしちゃうし」 「ああ…」  隣人が笑うたびに、活き活きと喋るたびに、彼の無邪気さを見せ付けられるたびに、別次元にある胸の腫瘍が肥大化していく。隣の部屋の玄関扉は何の頓着もなく閉まっていった。真城はそこに立ち竦む。新しい読誦が耳を素通りしていく。隣に住まう友人に苦しむ日々が始まるのだ。たとえばシャワーの音に、たとえばクッキングヒーターの唸りに、笑い声、足音、トイレの流水音、扉の開け閉め、インターホン。防音対策をすり抜けた彼の生活に気を取られ、意識を向け、淫らな妄想、不毛な想像、低俗な憶測に苛まれるのだ。開け慣れた玄関扉が重く感じられた。息苦しい。隣の部屋が気になって仕方がなかった。気怠い。恋心は針玉だ。収めた部分の柔らかいところを容赦なく突き刺さす。甘酸っぱさはない。真城は救いを求め法具を鳴らした。浄め線香に火を(とも)した。総裁の格言集にも手蔓(てづる)はない。信じて拝んで祈って徳を積めども絶対神からの黙示はなく、また救われた心地にもならなかった。赤青黄白の4色盃に水を汲み飲み干した。恋慕は冷めず、全身が湿(しと)る。病熱とは違う、気のせいに近い圧迫感に目を閉じた。立っていられなくなる。存在を忘れていたスマートフォンが突然主張をはじめ、真城は息を詰まらせた。同い年の検証学会員からの電話だった。先月に3日ほど飯を食わせた相手で、おそらくまた競馬で生活費を溶かし、食うに困っているのだろう。 「なんだ」  検証学会員でなければ接点を持つことはないと断じられるほど、真城とは真逆な人物だった。新たな隣人と気の合いそうな明るさと、彼が気を遣わないで済むほどの騒がしさと図々しさがある。 <あ、恋愛(れーあん)?つか今何してんの?今日暇?これから家行っていい?>  掠れた質感を帯びた、語気の強い、怒鳴っているような喋り方で、一方的に捲し立てる。これが常だった。メッセージ機能に特化したアプリケーションを使わずに電話で手早く済ませるのもいつものことだった。 「今…特に何ということはしていない……が、また何か食べに来るのなら食材を買いに行く必要がある」  冷蔵庫を覗いた。生卵が2つと、使いかけのジャム、食パンが3枚、牛乳が半分ほどある。 <あ~、いい、いい。れいあんに用あんだし、昆布出汁。そのまま出掛けんなよ> 「俺に?」 <あ、電車乗っから切るわ。stay home、プレイボール、シュプレヒコールな>  通話相手の声の奥で駅でよく聞くような音がした。 「おい」  ぶつりと電話が切れた。彼の最寄り駅からここに来るまでまだ時間があった。近くのスーパーに出掛ける。飯を食いに来るのだと決めてかかっていた。それ以外に用がない。菜食主義者だの修験者だのと揶揄されるため肉を多めに買った。牛や豚の臭みがあまり得意でなかったため魚肉ソーセージやツナに頼ることが多かった。八百屋スパゲティに玉子焼きを添えたものを作ると決め、食材探しは短時間で済んだ。インターホンが鳴り、執拗にドアノックを繰り返される。ロックだけを外し、念のためチェーンロックから訪問者を確認した。ドアが無理矢理に開かれ、チェーンロックがぴんと張った。 「ンだよ、鎖付けてんのか?女かよ」  青みを帯びた不自然な黒髪とデジタルパーマ、両側頭部を刈り込んだヘアスタイルに、検証学会員の物とは違うどころか、耳朶の肉を()()いたホールピアスをして、首にはテキストの刺青が入っている。脱色と染髪、ホールピアス、入れ墨、彼を見るだけで痛覚が刺激された。 「今外すから一旦閉めさせろ」  知り合いはドアを引き、チェーンロックを引き千切らんばかりだった。真城からも強くドアを引いた。チェーンロックを外し、訪問者は強盗よろしく侵入した。 「食事はもうすぐ出来上がるから待っていろ」 「は?作ってくれてんの?マジかぁ」 「それが目的じゃないのか」  宗教という点でしか関わりのない知り合いはレザージャケットを脱いで真城に渡した。溜息を吐いて香水がわずかに薫る上着を玄関脇のコート掛けに整えながら引っ掛けた。知り合い・勘解由小路(かでのこうじ)仔牛郎(こうしろう)頭陀(ずた)袋を思わせる型の白い綿素材のプリントシャツに体操着を彷彿させる3本ラインが入った黒いスキニーパンツを履いていた。シルバーアクセサリーが悪趣味に垂れている。 「ま~たそんな服装(かっこう)をして、聡信総裁が泣くゾ~ってか?」  くるりと身を翻し、勘解由小路は肩を竦めた。(すだれ)のような前髪の奥から目付きの悪い眼差しがある。 「そういう目、してたぜ。よせよ~、(おい)ちゃんたちは背信者(ユダ)でいようぜ~!」  真城は何も返さないで2人掛けのキッチンテーブルセットの椅子を引いた。 「相変わらず丁寧な暮らししてんのな。ムカつく」  悪態を吐きながら来訪者はそこに座った。調味料をふりかけ、八百屋スパゲティを盛り付けた。普段は入れない豚肉が塩胡椒を被って照っている。 「はぇ~、美味そう。肉入ってんじゃん!やりぃ」 「黙って食え」 「あ~、その前にやることやっちまわねぇと」  彼はシャツの胸元を叩いてから「あっ」と声を上げ、上着のポケットにあると言って玄関に戻った。 「金返しに来たんだよ。競馬当たったんだわ。やったね。励徳した甲斐あるわマジで」 「金?金を貸した覚えはない」 「金は借りてねぇけど飯食わしてもらったし、あと光熱費込み込みで。計算分からなかったから、ま、多かったら利子、足りなかったら悪ぃねってことで5000円で頼まい」  ファンシーな封筒を差し出される。 「相互扶助だ。気にするな」  相互扶助の教えが確かに検証学会にはある。身内に対する施しはさらに徳が高い。善行はすべてポイント稼ぎの損得勘定で何よりも"ダサい"のだと、真城は目の前の軽率げな青年に言われたことがある。 「ソーゴフジョ!ソーゴフジョときた!やめてくれや。受け取れって。れいあん銀行でもいいや。マジで俺ちゃんが大負け喰らったときのために持っててくれ。使ってくれるとありがてぇけど」  真城は顔を顰めたまま封筒を受け取った。勘解由小路は片方だけ目立つ八重歯を見せ、八百屋スパゲティと玉子焼きを食った。世間話をする仲ではなく、接点といえる宗教の話も特にすることではなかった。静寂の中で(やかま)しそうな男は黙って飯を食う。隣の部屋から声が聞こえる。弾むような、吃逆にも似た声だった。最初はテレビの音量調節を誤ったものかと思われた。対面の三白眼が真城を見上げる。 「昼間っからお(さか)んだな~」 「え?」 「ヤってんだよ」  真城は訳が分からず首を傾げた。醤油で味を整えたスパゲティをフォークに巻き付けながら勘解由小路は相変わらず下卑た笑みを浮かべている。 「何を…」 「何を?おま、言わせんのかよ~」  客人は楽しそうだった。深く考えれば答えが出たかも知れなかった。しかし隣人に気を取られてしまう。テレビの音漏れではなく、十河の声だった。 『だめ、だめっ、腰止まんな……ッぁう!』 「ここって検証学会(こっち)系のアパートっしょ?よくやるよな。聡信センセの御御御御(おんおみお)写真の前で?線香臭ぇ部屋で?トンデモ法具の前で?ラブホ行けよな」 「やめてくれ……」  皿の上をフォークが回り、キャベツが噛み砕かれる音、嘲るような勘解由小路の笑う吐息、媚びたような想い人の声。真城はキッチンチェアの背凭れを握り硬直していた。 「隣ン()、オカマなん?」 『だめ、だめ、もう出ちゃ……ッ、出るッ』  玉子焼きにソースがかけられた。真城はケチャップを好んだが、勘解由小路はソースをかける。それが気に入らない。視界に入っただけで、鮮やかな黄味にその黒褐色の液体は合わないのだと主張してくる。 「…知らない」  咄嗟に嘘を吐く。"知らない"で済む話ならよかった。激しい感情と気の触れそうな焦熱を常に持て余している。恋人が居たのだ。目の前に知り合いがいることも忘れてしまう。壁を1、2枚隔てた程度の隣人が遠く感じられる。過干渉な兄の元を離れ、女を知り、性を知る。頭が重い。首は胸元の内側から迫り上がってくるものとこの頭の重さで据わらなくなる。目の前では能天気にコーンやキャベツが齧られ、擂り潰され、フォークが皿に掠る。その間も背後の壁の奥からは声が聞こえた。それでいて隣人の恋人の気配は感じられない。 「おかわりくれよ」  意識の外にいた訪問者が皿を突き出した。 「もしかしてもうねぇの?」 「え?」 「お、か、わ、り!おかわり!」 「ああ………ある」  一人暮らしにしては広く、カウンターキッチンになっているフライパンの元へ真城は回った。 「もしかしてれいあん、欲求不満なんか?ボーッとしちゃってさ」 「別にそういうわけじゃ…」 「じゃ、やることヤってんだな。へぇ~。なぁ、マヨネーズねぇ?マヨネーズかけたらゼッテェ美味ぇよ、それ」  真城は言いなりになった。マヨネーズを冷蔵庫から取り、盛り直したスパゲティとともに勘解由小路の前に出す。思考は十河一色だった。マカロニサラダの如くマヨネーズまみれにされようが知ったことではない。すでに隣室から声は聞こえなくなっていたが、真城が囚われているのはそのことではなかった。 「あ~、俺ちゃんも一発ヤりてぇな。最後にやったのいつだかな~。で、れいあんはジョカノできたのかよ?」 「いいや」 「不犯(ふぼん)!でもほら、男はシコシコやっとかんと、つらいっしょ」 「よせ。そういう話は他人(ひと)にするものじゃない」  マヨネーズが絡み合い、粘り気のある音を立てた。手元も見ずに勘解由小路はマヨネーズパスタと化した麺を()えていく。 「堅ぇよな。その歳で下ネタも話さねぇとか友達いんのかよ、れいあんちゃんはよ。名前負けしてるよな」  検証学会の総裁が付けた名だった。総裁は「恋」「愛」「夢」「想」「生」「嵐」を付けたがる傾向がある。名前負けしているとは何度も言われたことがある。 「いくら顔が良くてもモテないだろ。ま、女も男も明るいちょいブスがモテるから、マジな話」  やっと勘解由小路はマヨネーズの半分は使ったようなスパゲティを食べ始めた。 「ムラムラしてきた。帰り性風俗(ゾクフー)寄っちゃうべ」  部屋また静寂に包まれる。マヨネーズが主体になったスパゲティを啜る音は粘っこさを帯び、キャベツとコーンが噛み潰されていく。豚肉が突き刺され、しめじが貫かれる。 「ムラムラくらいするだろ、いくらなんでも。最近なんちゃらセクシャルだなんだとか言うけど、さすがに?」  黙ってマヨネーズを食っていた勘解由小路はフォークを咥えたまま再び口を開いた。 「……人並みには」 「嘘だな。嘘は良くねぇなぁ。別に悪くもねぇけど。人並みよりゼッテェ少ない。性欲」  露骨な単語に真城の眉が寄った。 「怒んなよ。大事なことだぜ。ちんぽが勃つってのは男にとって、屁理屈ぶち抜いて大事なコトなんだからな。ま、ちんぽが勃たなくても、ヤりたみが有るのか無ぇのかってことは?そうだろうが?」 「そうは思わない」 「女とヤれるかヤれねぇか、ガキ作るか作らないのかなんか関係無くよ?お手々がコイビトでも、ちんぽが餅みてぇに柔らかくても、ヤりたみがなきゃ、なんか、やっぱ心にクるだろ?」 「来ない」  呆れた溜息が返ってきた。フォークに巻かれたスパゲティが何本か(ほど)けた。 「宇宙人と話してるみてぇ。飯が美味くなきゃゼッテェ来ねぇわ」 「それなら次からは精進料理になるが」 「冗談だよ。つまんねぇやつ。肉は入れろよ、肉は!」  多少スパゲティが混入したマヨネーズが皿の上から消えていく。 「ごち~」  彼は雑な仕草で両手を合わせる。そして食休みを挟むでもなく性風俗に行くと言って早々と帰った。真城はフライパンに残った残りのスパゲティを腹に収める。食べることにも集中できなかった。上手く作れたか失敗したのかも分からない。麺は伸びている。歯応えからいってキャベツに火は通っていた。腰が重い。腹の奥が無視できない程度に疼く。隣から聞こえてきた声を拭い去れない。衝撃を履き違えたのだ。隣人の初めて聞く声音に驚いたのだ。息が深くなる。見えもしない壁の奥を、今から少し前の時間を、想像した。声だけで熱くなる。おそらく裸だ。割れた腹筋を晒しているのだろう。若い真城に鮮烈な印象を残した臍を無防備に見せ付けるのだ。まだ白いブリーフパンツを愛用しているのか。遊んでいそうな洒落た見た目に反した純朴な下着に、真城は過保護な兄の陰を感じながらも清艶を覚え狼狽したものだった。  とうとう漠然とした腹部から下腹部と断定できるほど違和感は膨らんだ。身動きを取るのもぎこちない。キッチンチェアに座ったまま、空いた皿も片付けられなかった。両手で頭を抱えた。生殖を促している。相手はいない。願望もない。勝手に息をすること以外、すべてのことに意識が分散した。何事もにも集中できない。あまり日に焼けていない隣人の胸や腹の筋ばかり頭に浮かぶ。街で見る女性とは違う角張りのある、部位によっては平均的な女性よりも太さのある脹脛や、或いは標準体型の女性よりも細くなる腿。汗ばんだ肉体、シャワーを弾く肌、張りのある腕、秘められた腋窩。シャワー室ではしゃぎ反響する彼の声のように脳裏で明滅する。引き締まった尻の窪みに見惚れていた。幼い内面と発育途上の体躯の差で息切れを起こしそうだった。悪寒に似た痺れに真城は悶える。淫らな妄想は加害行為だ。隣人を見えもせず触れもしない拳で暴行している。彼のシャツを引き裂いて、その下にある皮膚を辱めている。  最低だ、最低だ、最低だ…  髪を掻き乱し額に爪を立てる。股の間は膨張をやめない。

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