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第4話

◇  見た目がいいだけの性格に難のある女だった。しかしそうでなければ、婚約を申し込んだりしなかった。冬夢湖(ふゆみ)は喋るでもなくワインを飲む。関係のスイッチが入らなければ彼女は穏和(おとな)しかった。そんな彼女の気性の薪木に油を注ぎ火を点けるのが、冬夢湖の消極的な趣味でもあった。 「あんまり美味しくないわね」 「俺と飲むからですか」 「卑屈にならないでよ、面倒臭い」  この女と同じような華奢なフォークがチーズを刺す。 「言ってください。俺の辛気臭い顔を見ながら飲むのが嫌なのでしょう。酒が不味くて堪らないんだ…!」 「顔面にしか価値が無いんだから黙っていてくださる?このメンヘラ!」  冬夢湖は鮮やかな赤いネイルアートに彩られた指が、グラスのワインをかけるのを待っていた。しかし液体は降りかかってこない。 「アンタにかけるワインなんて無いんだから。85円の安酒でも勿体ない」  地元の商店街をシャッターだらけにしたとも言える大型ショッピングモール・カルパを経営するカルパグループが全国に展開しているプライベートブランドショップで、本当に100円もしない缶酒が売っている。冬夢湖も口にしたことがあった。目の前の女には似合わなかったが、同時に彼女の気性からしてよく似合ってもいた。 「そう俺を元気付けようとしないでください」 「黙りなさいよ、気色悪い変態マゾヒスト」  冷酷げな美しさのある顔が気味悪く微笑する。女の細めに描かれたブラウンの眉が露骨に顰められる。このリストランテでこのテーブルだけが異色だった。利用している者たちの容姿こそ華々しいが、2人の醸す雰囲気は陰鬱で今にもテーブルやそのクロス、座っている木椅子にカビが生えてしまいそうだった。 「そろそろきちんと身を固めたい」 「アナタあたしとやっていける気してるの?」 「貴方でないと駄目だと思っている」  金を返すような調子で冷淡な手が指輪のケースを女の前に置いた。ドラマや映画で見るような(あで)やかな甘いムードはない。アイスブルーの小さな箱に彼女は大した興味を示さなかった。 「アナタが人殺しだって知ってるから?人殺しはパパになれないし、あたしは子供とか嫌だからね。そんな、業の深い。それでもいいの?自分の子供、抱き上げたくない?人殺しの異常性癖のド変態マゾヒストが遺伝したら?遺伝しなくて、マトモな価値観を持った母親似の子になったほうが地獄みたいだけど、それでも」 「俺には貴方しかいないと思っている。俺には……貴方しかいない」 「あら、大事なことだから2回も3回も言ってくれるのね。家族が欲しいなら他を選んだら。気でも違っているんじゃない?それとも新しい女と最初(いち)から関係を築くのが面倒臭いんじゃないかしら。神経質そうに見えてアナタってある意味ズボラだし」  侮られているにも関わらず冬夢湖はにやりと笑んだ。婚約まで漕ぎつけたが、いざ結婚となると彼女は渋る。婚約も結婚も冬夢湖にとって大した違いはなかった。しかし世良田(せらだ)恋愛嵐(りあら)には大きな意味があるようだった。 「普通は引かれる。けれど貴方は受け入れてくれた。恋人も結婚も諦めていたから…」 「受け入れた?あたしが?あたしがいつアンタを受け入れたの。珍獣がいたから観察しているだけ。人殺しのブラコンのマゾヒストのド変態がいたから!」  指輪ケースを突き返す。冬夢湖は引き攣ったような強張ったような、しかし冷ややかな笑みを絶やさなかった。 「弟にそろそろ報告したいんですよ。梢春(すぅ)に」 「違うでしょ、弟クンに会いたいだけでしょ。間良(あわよ)くば弟クンの家にお邪魔したいだけでしょう?そのためならあたしに結婚まで急かすんだから。結婚したら、次は何て口実で会いに行くの?」 「弟や妹のいない貴方に話したところで同意を求めようとは思いませんが、知らない土地で一人暮らしだなんて、あの子は心細い思いをしているに決まっている」  恋愛嵐(りあら)(まず)い話でもするように首を竦めた。 「貴方の家族にも挨拶しにいきます。けれどその前に、梢春(すぅ)に……」 「アナタのご両親は勘定に入れていないのね。このブラコン」 「両親は…いいですよ。後でで。貴方の家族にお会いした後で…」 「血が繋がってないから?」  彼女は意地悪く口角を吊り上げて訊ねた。 「血は繋がっています。伯母夫婦ですから。ですが梢春にとってはほぼ両親なので、あまり…」 「ふぅん。アナタには訊くけど別にあたしだって誰彼構わず家庭環境訊いたりしないから」 「それはよかった」  いくらか穏やかに彼は笑った。しかしそこには軽侮(けいぶ)が含まれている。世良田はぴくりと眉間を動かした。 「アナタあたしのこと何だと思ってるの。本当に失礼ね。ブラコンのくせに」 「貴方は俺を喜ばせる天才だ。やはり貴方としか考えられない」 「別に結婚して目の届くところに置かなくたって、あたしはあの可愛い弟クンに、アナタが人殺しだなんて言わないし」  長い睫毛が一度伏せた。世良田は胡散臭そうに憂いを帯びて氷点下の色気を放つ美男子を眺める。 「俺が…幸せな家庭を築いたところを見せたいんです。梢春(すぅ)に…」 「はぁ?」 「馬鹿なことを言っているのは承知です」 「いーえ!分かってない。全然、承知なんかしてない」  恋愛嵐は運ばれてきたサラダにフォークを突き刺す。 「それならアナタを心の底からアイシテくれる(ヒト)を探しなさいな。アナタの変態行為を否定されてもね」 「貴方は俺の母親…2番目の母親と違って気が強い。だから安心するんです。結婚するのならアナタみたいな女性(ひと)でないと。俺にはDV男の血が流れていますから」  女の鋭さを強調した化粧の施された目が野菜を咀嚼しながらも冬夢湖を射抜く。 「ここで話す内容ではありませんでした」 「気になる、フツーに。あたし、アナタが父親ぶっ殺したことしか知らないし。ま、それなりの事情があったんだとは思ったけど」  世良田は口元を押さえ、今までとは調子を変えて言った。彼は照れたように笑う。 「ここで話すことではありません」 「ベッドで話す?アンタと同じ寝床だなんて反吐が出る。寝首掻かないでよ。血って落ちにくいんだから」 「貴方がベッドで寝首を掻かれようが大量出血しようがどうでもいいことです。梢春(すぅ)には報告していいんですね?」 「まぁ余計な二言!幸せな家庭を見せ付けてマウントとりたいだなんてもうムリでしょう。不仲なんて滲み出るんだから、加齢臭みたいに」  サラダを平げ、恋愛嵐はワインを呷った。 「近親相姦はもうやめなさい」 「していません。出来なかったんです」 「可愛すぎて?」  色味の強い琥珀みたいな瞳と女の黒い目がかち合う。 「正解です」 「あたしはアナタとクイズオクタゴンをやってるんじゃないの。犯罪者。殺人、レイプ、次はオクスリ?強盗でもするの?え?」 「しません。梢春(すぅ)が関与していないなら俺に興味はありませんから」  やっと記号的で大衆的なウサギを思わせる可憐さも秘めた美貌が手元にあるサラダに気付く。恋愛嵐は溜息を吐いた。 「あたしアンタみたいなのと結婚したら、ノイローゼになってアンタより先に紐無しバンジーするかもね」 「葬式で梢春(すぅ)に会えますからね。頼みますよ、是非とも」 「葬式なんかしないでくれる。ナントカとかいう頭のおかしい名前付けられて、変な木板拝んじゃってさ。死体蹴りもいいところ。遺族のオナニーじゃない。寺に金払ってどうするの?そのお金で高い牛でも食べたら?」  店員がテーブルにやって来た。新たな料理は運ばれては来なかったが、一言二言、当たり障りのないことを接客用の無難な態度で訊ね、作られた上機嫌で戻っていく。 「何あれ」 「露骨な話をするから、牽制しに来たのだと思います」 「ふぅん。露骨な話、ね。どいつもこいつも涼しい上面(カオ)して家じゃオナニー三昧かパコりまくりなのに?」 「そうじゃない家庭もあります」  世良田は背凭れに腕を掛け、身を捻りながら他の客たちを見回した。瀟洒(しょうしゃ)な制服に身を包んだ姿勢の良いホールスタッフがファッションモデルよろしく料理を運んでいる。落ち着き払っている冬夢湖を彼女は嘲る。 「弟を白痴同然に育てたお兄様は言うことが一味も二味も違いますこと」 「いつまでも可愛い弟でいて欲しいんです。性はいけません。ろくなことがない」 「気持ち悪いッ!」 「俺が言われる分にはまったく構わないことですが、あまり突飛なことばかり言っていると出入り禁止になってしまいますよ」  彼は陰湿に微笑む。婚約者止まりの女は身体こと直った。 「言論統制?」 「店側も客を選べますから」  優雅な手付きで冬夢湖はサラダを口に運んでいく。 「結婚してください。俺も子供は望みませんし、婚外交渉をしても構いません。ただたまに、俺を誅罰(ケア)してください」 「サイッテーなプロポーズ」  単品で頼んだチーズを世良田は齧った。褒めていないというのに対面の男ははにかむ。 「梢春(すぅ)義姉(あね)になってください。アナタがいい。夫を殴れる女性(ひと)でないと…」 「そんなヤバい男って自覚あるなら、フツー結婚なんて選択しなくない?でも不幸な子供が産まれないように、あたしが結婚してあげる。アナタがどこかの女孕ませて、DV男の血が再生産されないようにね!殴り殺される女子供が増えないように!」  恋愛嵐はきゃはきゃはと笑った。冬夢湖は目を大きく開き、両の口角をテープで貼り付けように笑みを作って固まっていた。奥からホールスタッフが接客用の微笑を携えテーブルにやって来る。 ◇  隣室から質量のあるものと硬質なものが叩き付けられるような音が聞こえた。真城は今まで何をしていたのかも忘れた。その後の寂然とした空気に数秒甘え、足の裏からバネが生えたように玄関を飛び出した。インターホンを鳴らす。 「十河(そごう)?十河…!大丈夫か?」  焦れに焦れ、把手を捻った。鍵が掛かっていない。チェーンロックもされていなかった。無用心さに対する不満と安堵が同時に起こった。他人の家に勝手に上がった。友人に許された範囲を越えている。宗教上の身内に当たる勘解由小路(かでのこうじ)意気自如(いきじじょ)とした気質が羨ましく感じられる。 「十河…!」 「うぇえ…真恋愛(まれあ)くん?どしたの……?もしかしてうるさかった?ごめんなぁ、電球換えようと思ったら脚立(はしご)倒れちゃって」  玄関扉を開けてすぐの廊下に十河が倒れていた。彼の脇に膝をつく。 「怪我はないのか」  十河は真城をきょとんとした顔で捉え、ぼんやりとしていた。打ち所が悪かったのかと真城は血相を変え、肝を冷やす。 「十河?」  目の前に掌を翳す。出血や激痛がある様子はなかった。しかし十河はぼうっとしていた。口をぽかんと開けて、真城一点を凝らしている。 「十河…」 「あ?ごめん。前もこんなことあったよなって」  軽快に起き上がり、多少左肘の打身が痛む程度で大した怪我はないようだった。頭も打っていないと言う。 「あっ、ヤベっ!」 「どうした?」 「ああ~よかった~。電球割れちゃったかと思った」  彼は手の中の電球を大事そうに抱き締めた。真城もその行動を無意識に真似ていた。腕の中に隣人を収める。深い安心感があった。力一杯抱擁する。 「真恋愛くん…?」 「本当にどこも怪我はないんだな?左肘を見せろ」  左肩を撫で、二の腕を辿る。肘までは触れなかった。 「うん。でも大丈夫。骨はどこも折れてないし」  患部を見せるよう言っておきながら真城は抱擁をやめなかった。少しずつ、あの声を思い出してしまう。鼻にかかった甘えた声音を。 「真恋愛くん?」 「押し入って悪かった。鍵とチェーンロックはしたほうがいい」 「うん……真恋愛くん、ママンみたい」  言われたままに玄関扉に行こうとする友人を放さなかった。腕が動かない。指先から関節から、筋肉まで、隣人を腕の中に留めてしまう。放さなければと思う反面、放せない。 「真恋愛くん?どした?」  無邪気な顔で見上げられる。十河は平均的な身長をしていたが、真城はそれよりも背が高かった。女性を含め自分よりも背の低い者たちを日常的に目にしていながら、下腹部から炙られるような保護欲に陥るのは両腕に軟禁したこの友人だけだった。 「単純に驚いた。無事でよかった」 「ごめんなぁ」 「俺が勝手に驚いただけだから、気にするな」  他者の体温を惜しむようにゆっくり片腕ずつ彼を放す。 「十河は、恋人がいるのか」  何か話したい。彼から自分に向けられた言葉が欲しい。しかし真城の問いは自らを苦しめるものだった。 「えっ、いないけど。そんなん、兄貴に怒られるし!」  返答に時間は要さなかったが、それでも聞くまでに窒息状態になりかけていた。 「なんで?っつーか真恋愛くんは?やっぱまだそういうのダメなん?カッコいいしキレイだからモテそうなのに」  倒れた脚立を立て直し登ろうとする十河を止めた。 「俺がやる」 「あ!別にそういうつもりで言ったんじゃないかんな。ホントに思ってる」 「…ありがとう」 「え?ああ…うん?うん」  発達した筋肉と広い肩幅に釣り合わない幼さのある目に見られている。真城の身体は汗ばんだ。暑くなる。電球を取り替え、床に足を着けた時、やっと呼吸を思い出す。暑さは丁度良さを忘れ寒さすらした。 「プリンあるから食べようよ、お礼!真恋愛(まれあ)くん、甘いの大丈夫(ヘーキ)?」 「ああ…」  スーパーマーケットによく売っているもの想像したが、少し散らかった部屋で出されたのは洋菓子店に並んでいるような瓶入りで、蓋も洒落ていた。 「兄貴と結婚する女の人が引越し祝いにくれたやつ!2つあるから一緒に食べよ!」 「いいのか、俺がいただいて」 「うん、勿論(もち)。1人で2つ食べるのも寂しいしさ!」  最近はあまり見なくなった牛乳瓶を思い出す外装で、プラスチックの蓋の下にさらに紙製の蓋があった。真城は簡単に剥がせたが、十河は穴を空け、そこから破いていた。 「ずっと兄貴といたからかな。一人暮らし始めたときも少しの間寂しかったんだ。ンで、また住む場所変わっただろ?オレん学科(とこ)キャンパス替えあるって気付かなくってさ。だからなんか、ちょっとまた、"一人暮らしもう大丈夫(ヘーキ)!"ってのがリセットされちゃったみたいでさ。恋愛(ラブ)りんがいてくれてホントよかった」  眩しい友人を真城は見ていられなかった。肉体とはまた別の、胸部にできた腫瘍が疼く。プリンは少し固く、固まったクリームのようでスーパーマーケットなどで買うような弾力はあまりない。甘さは控えめだったが苦味のあるカラメルソースに引き立てられている。 「真恋愛(まれあ)くんは寂しくなかった?」 「俺は……十河みたいに活発で人好きな性格ではないから、あまり寂しさはなかったよ。でも、俺も十河が隣に来て……嬉しい」  友人は真城が言い終わるまで人懐こい目を彼に向け、その彼が言い終えると嫌味なくにかりと笑った。網膜は焼かれ、喉は縊られ、心臓は押し潰される。 「じゃあオレたち、両思いだ!」  他意は無いのだろう。残酷に友人の天真爛漫な言葉選びに貫かれる。身体中を鎖で巻かれ、数千億の針で刺されている。 「そう、だな…」  十河は昔から食べるのが早かった。もう瓶の中にプリンはない。代わりにスプーンが一輪挿しにされていた。真城はまだ半分残っている。隣人は暇になったのか真城の膝に頭を乗せて横になった。高校時代もそうだった。彼は退屈になると膝に頭を乗せる。腿から伝わるもどかしい体温に乱される。十河は甘え方が上手い。彼の持つ清々しい雰囲気もそれを助長する。 「オレこうすんの好きだったから、またできて嬉しい。真恋愛くんは?」 「嫌いではないから、十河がしたいならすればいい」 「へへっ、よかった。じゃ!お言葉に甘えて」  スプーンを握る手が腿に垂れる傷んだ毛に伸びそうだった。指先が覚えてしまった険しい野良猫の毛並みに似た感触を求めている。 「お兄さん、結婚するのか」 「うん。女優さんみたいにキレイな人だったよ。黒い絵の具で頭洗ったみたいに髪が黒くてさ」  彼は顔を両手で覆い、丸くなった。 「どうした」 「いっぱいおっぱいマッサージしてもらったんだけどさ、ぽやぽやしちゃったの、急に恥ずかしくなってきた。なぁ、真恋愛くんはおっぱいマッサージされたらぽやぽやする?」  友人の眼差しは"おっぱいマッサージ"をされたら"ぽやぽや"して然るのだと、そういう答えに対する期待に満ちている。しかし真城にとっては"おっぱいマッサージ"で"ぽやぽや"するか否かの前にとある問題とぶつかった。 「胸を揉まれたのか…」 「うん。なんかずっとボーッてしてカーッてなって、暑くなっちゃうし、何も集中できなかったから相談したら、おっぱいマッサージすれば治るって。気孔ってやつかな?なんかまたじんじんしてきた…」  恥じらいもなく彼は自身の両胸に掌を当てた。そして身をくねらせ、くすくす笑ってはしゃいでいる。真城は堪らなくなった。自身の胸を触っている友人の腕を掴む。 「痒くなっちゃって」  ふざけていた顔がしかつめらしくなる。真城の突沸もいくらか治まり、そのまま冷えていく。粘こくも熱い澱みの中に埋もれていた理性の一部が露わになる。 「乾燥しているのかも知れないな。ハンドクリームとかないのか」 「あ~、ブリサならある」  ブリサは「brisa marina-ブリサマリナ-」という商品名の略称で、潮風を意味するデオドラント用品だった。石鹸や柑橘系、ミントの香りがする。夏場はどこからともなく香り、夏の思い出として嗅覚に刻み込まれる。この友人からもよく漂っていた。グレープフルーツの香りがするのだ。 「それだと荒れる。今持ってくるから掻くな」 「うん、ごめんな」 「謝らなくていい」  真城はまた戻ってくるにも関わらず、名残惜しく感じた。一度隣にある自分の家でハンドクリームを持って、また十河のもとに戻る。友人はもう起きていた。膝枕をねだる様子はない。 ―膝枕をさせてくれ。  言い出せなかった。不審に映るに決まっている。脈絡が無い。今すぐ膝枕をしなければ死んでしまう病なのだと嘘を吐いたら、友人はおそらく膝の上に頭を預けるだろう。しかし実際、そういった病の実例を真城は知らなかった。賭博狂いの宗教上の身内や目の前の健やかな友人のように気軽くふざけられる性分でもなかった。 「塗る」 「よろちくび!」  十河はふざけながら服の裾を両手で捲った。下着はなかった。両胸には乳頭の場所を主張する絆創膏が貼られている。真城は指にクリームを付けたまま下腹部とともに固まった。珍しくもない絆創膏が視覚情報として真城の顔面を殴打し、脳髄を撃ち抜き、頭蓋骨を粉砕する。臓物を口から吐き出しそうになるほどの欲熱に身体中が汗ばみ、肌は紅梅のように色付く。 「……真恋愛くん?怒った?」  よく舐め(ねぶ)った飴玉を彷彿させる、光を離さない瞳に覗き込まれる。 「十河!」  後先を考える力も感情も理性もすべてを放り投げ、真城は友人の両肩を掴み、床に押し倒す。陰に覆われても彼の瞳は光沢を逃さず真城を見つめている。ぽかんと開いた唇に眼輪筋が引き攣る。生唾が止まらない。身体中が蒸し暑い。視神経だけに集中していた。思わぬ形で再構築された関係を裏切りかねないことも、もう彼は考えられなかった。 「あ、寝なきゃやりづらいか!気付かなくて悪かった!」  甘え上手な手が床についた真城の両腕に絡んだ。宥めるように摩っている。真城は誰のものかも分からなかった耳障りな自分の呼吸に気付く。 「頭……打たなかったか」 「へ?うん、全然。今絆創膏剥がすからちょっと待ってよ」  罪の無い指が絆創膏に爪を立てる。下腹部が疼いた。そう長くはなく、子供のように均等な太さの指から爪が少しはみ出している。皮膚の薄皮を傷付けてしまいそうだった。 「俺が……外す」 「じゃ、頼む~」  絆創膏の上からクリームを塗る。縁取り、接着力よりを落としながら乳頭を覆うフィルムを捲る。赤みのあるぷくりと腫れた実粒を目にしてしまう。視界がちかちかと明滅した。喉が渇く。食欲とは異質の飢餓感に呑まれかけた。 「すご…!真恋愛くん、エステチシャンみたい、エステチシャン!絆創膏剥がしチシャン!」  まるでひとりの男を苦しめているとも知らずに片方の胸を晒し、左右に転がって十河は面白がる。 「こんなエステティシャンはいない」  声は掠れていた。獲って食おうとしている。下腹部に急かされ、理性に()され、感情は暴走している。

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