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第12話
「弟に会ったのよ。まさか再会するとは思わなかった」
世良田 は曇っている空を遠く眺めていた。
「例の、折檻部屋送りにしたとかいう」
「そう。気付いたのかしら、あたしだって。恨んでるでしょうね。仇の顔は死んだ親より忘れないって言うんだから」
「言います?」
「ああ、アナタは親が仇だったわね」
女は嫌味でもなくさっぱりとした調子で呟いた。疲れ果て、何か諦めたような軽さがある。
「アナタの弟の友達だったわ。絵に描いたような紳士だから、アナタの目玉の穴にぶち込んでも痛くない弟と仲良くしてても、あまり警戒しないで」
「貴方の頼みなら受けるほかありません」
「あたしに似ない清純な子よ。無害だからね」
冬夢湖は彼女にしか見せない愛想笑いで躱した。
「アナタならどうする?そのつもりもない土地で、そのつもりもなく、自分を知らない弟に会ったら」
「抱き締めてキスします」
それが弟との当然のスキンシップだった。今隣を歩く女にさえ、迎えたり別れたりするときは抱擁することもある。そしてそのまま頬に口付けるはずが、化粧の都合で許されなかった。
「そのままファックまでする気でしょ!アンタなんか!」
「梢春 が嫌がるでしょう。それならできません」
女の調子が戻ってきている。冬夢湖からしてこういう気性の女でなければ簡単に男に撲殺されてしまいそうで落ち着かなかった。
「それで、引きこもっていたんですか。アナタらしくない」
「悪いシュミよね、GPSとか」
「俺が3日くらい動かなかったら、刺し殺されたと思ってください」
「手続きが面倒臭いわね。早くどうにかしなさいよ。あのストーカーの前であの恥ずかしい姿見せてあげたら?潔く諦めるんじゃない」
冬夢湖は世良田を追い抜いてから振り返った。
「今その話はやめてください。反応してしまいますから。恥ずかしい姿だなんて」
「間違えた。恥ずかしいのはアナタじゃなくて、見たあたしたちのほうね」
彼女はカバンから探し出したチョコレートを口に放る。
「俺は女になって、彼にレイプされる妄想をしているんです」
「気持ち悪い!」
「それで、梢春(すぅ)を身籠るんです」
「汚らしい!犯したい願望あるくせに!」
恋愛嵐 はヒールを鳴らした。
「ですが彼は……俺に抱いてくださいと言ってきたんです」
「だから応えられないの?」
「それもありますが、俺はこのとおり男ですからね。男は抱けません。かといって抱かれる側というと、レイプされたいのは俺が女である妄想の中だけです。そうでなければ梢春 を産めません。梢春 を産めないレイプ被害なら、俺は嫌です」
婚約者は非常に渋い表情をする。
「少し熱くなってきました。今日はそのつもりはありませんでしたが……世良田さん、どうですか」
「アンタの趣味 がキモすぎてムリよ。吐きそう。またにして」
「今、したいんです。俺が妊婦役をやりますから、世良田さんは強姦魔美女を…」
乾いていても濡れたように艶やかな黒髪が波打つ。彼女は珍しく人目を気にした。
「弟と会ったのよ。こんなんじゃ、いつどこで誰と会ってもおかしくない。そんなこと言ってるキモ男と一緒に居るの見られたらどうする気?」
「弟さんの前ではしっかりしていたい?」
鋭い目が冬夢湖を逃がさない。
「バカじゃないの。あたしはいつでもしっかりしてるでしょう?アナタと一緒だから気違いに見えるの、アナタと一緒だから。尤も、アナタと比べたら、あたしなんてしっかりし過ぎて個性がないわ。でもアナタといるから気違いに見える。弟の前で気違いにはなれないわ。アナタみたいにね。アナタは弟の前でも気違いなんだから!」
いつもの調子だった。情緒不安定な突然の怒声が、彼女の安定感だ。冬夢湖は微笑む。火に油を注ぎ、やがて彼の一風変わった趣味の話よりも彼女の怒り狂った罵声が人目を引いた。
「行きましょう、ホテル」
燃え上がった冬夢湖は刺々しく抗議する婚約者の腕を引いた。
◇
話し出せば騒がしいが、共にいるのが無口な人となると静かにしていられるような落ち着きが十河にはあった。ここに勘解由小路がいればそうはならない。真城は何度目になるのか、口を開いて、また閉じる。何か話したい。しかし取り留めのないことだ。身の無い話で、不要なことで、いつでもできる、何のためにもならない話しかない。それを言葉にして口にし、十河を突き合わせるのをすまなく思った。彼が返答に困るかも知れない。カーテンの留め具を付け直している友人を横目で見た。集中力散漫な時も多いが、何事にも熱心な様を気付くと追っていて、意識してみても逸らせなくなっている。何か話したい。声を聞きたい。彼の集中を打ち破ってしまうと分かりながらも、彼の意識が欲しい。勘解由小路がこの場にいたなら、彼から絶え間なく何か話していたであろうに。深い溜息を吐く。
「ごめんな、真城くん。自分ン宅 のコトなのに付き合わせちゃって……」
嫌味のない笑みを浮かべ彼は言った。
「ち、違う。ああ……その、何か、十河と話したいと思って………けれど何から話していいか分からなくて………」
十河は嗤ったりしない。そこについ甘えてしまう。他の人には変な人だと揶揄されても、十河は嘲ったりしない。
「そっか!」
おかしさを感じたとしてもすぐに忘れてくれる、あっさりとして朗らかな優しさがある。
「俺は、十河を手伝えて………嬉しい」
「マジか。ありがとな。オレも、真城くんとカーテン一緒に選べて楽しかった」
無邪気な笑みに真城は消されてしまいそうな恐れを抱いた。彼の寛容さに縋り、甘え、許されたい。己の穢さを見透かしていて、それを理解のうえで同じ顔をしてくれと。苛立ちにも似ていた。怒りも孕んでいる。軽快に笑う何の罪もない友人を肉体の怒りに任せて、どうにかしてしまいたいのだ。
「き~す!き~す!」
背後から手叩きが聞こえる。喋らなければ気配を消すのが上手い厄介なところがある。リサイクルショップで買ったというソファーに勘解由小路が寝ているのだった。
「キス?」
「あ~あ。俺 ちゃん、とんでもねぇ野暮シちまったな。どうみてもキスする流れだったろうが、えぇ?」
勘解由小路は下卑た笑みを浮かべた。
「ありがとうのチュウ?」
きょとんとした表情で、もう友人は勘解由小路を見ていた。真城は乾いた唇を舐める。
「そ。な?れーあん」
寝起きの低い声で底意地の悪げな面構えの宗教上の身内は真城に無理矢理肩を組む。頬に間近に迫っていた唇が当たる。
「なんだ」
「いんや?あのおぼこボウズに手本ってものを見してやろうと思ってよ」
ひとり楽しげに勘解由小路は笑った。
「要らない」
「オマエからもしてやれよ」
「い、いい。仔牛郎……!」
年齢の割りに若気な印象を持たせてしまう丸い目は真城を捉え、何の他意も無さそうな足取りで近付いてくる。
「ありがとのチュウね!」
十河が背伸びをした。真城の頬が柔らかく弾む。その瞬間、身の内が熱くなる。津液 という津液が苦獄画図の如く沸騰している。顔を側められない。友人の姿を視界に入れることができない。わなわなと震え、痺れるように疼く肉の薄い頬を押さえた。息が重い。疼きは頬だけでは済まなかった。欲望が苦しみに変わる。一歩たりとも動くことができず、言葉も思考も体熱で焼き消える。
「れーあん?どしたよ?」
冷水を浴びせてくるような腐れ縁が傍にいてなんとか怒りに酷似した灼熱辛苦を堪えることができた。もし、友人と2人きりであったなら。耳の奥にいつか聞いた孅 げに上擦り、弾んだ声が甦 る。眠れない夜に何度も描き直した淫画が脳裏でちかちかと明滅する。十河と同じ空気を吸えない。
「真城くん?」
危険視していた本人から顔を覗き込まれ、真城は印象が悪くなるのも厭わず顔を背けた。彼に相手のことを慮る余裕などない。
「そろそろ帰る。長居して悪かった」
呼び止める勘解由小路を振り切った。ここの家主と付き合っているのだ。2人にしておいて何の問題もない。むしろ関係性の点でいえば真城の存在は邪魔をしていた。自宅に駆け込み、まるで何かに追われでもしているかのように鍵を閉めた。玄関扉に背を預けると大きく息を吐いた。慣れた匂いと家具の配置。纏わりついた苦しさが薄らいでいく。膝から力が抜け、三和土に座り込んでしまう。呼吸がまともにできる。安堵。すると残るのは十河に対する罪悪感だった。彼はいきなり素気無く帰られたのだ。気を悪くする程度ならまだ良い方だ。
治ろうとしている火傷が主張する。焼いてはいけない。痛め付けてはいけない。衝動と理性、この現実から排他されそうな恐怖。一時的ならば逃れる術 を知っている。背にしている壁を殴った。痛みと痒さが覚醒し、痛みのために痒さを求め、痒さのために痛め付けると混乱によって陶酔する。感情を置き去りにして目頭が熱くなった。自身を惨めに思う気分と、情けなさ、友人に対する罪悪感。鬩 ぎ合っている。
『おい、れーあん!れーあん?れーあん、開けろ!』
背中を支えている玄関扉が揺れた。真城は苛烈な感情に振り回され、それどころではなかった。顔を覆う。手が痛む。痒さに床へ叩き付けた。痒いところには当たらず、無関係な骨が軋む。
『真城くん?大丈夫?』
十河までやって来た。彼の声を聞くと、股の間の悍ましいものが猛り狂う。得体の知れない恐怖と不安に襲われる。喉を締められているみたいに声が出ない。
『あ~、後は俺 ちゃんがやるわ。悪ぃけど、帰ってくんね?』
勘解由小路の声はその質感から戯けているようだったが、彼の中の態度としてはしかつめらしいほうだった。外が静まり返る。それもまた真城の恐怖を煽った。何の罪もない友人を突き離してしまった。傷付けたに違いない。呆れ果てたはずだ。面倒臭いやつだと嫌がられるに決まっている。
やがて軽くノックされた。丁寧で妙に落ち着いた音を立てる人物に心当たりはない。顔を揉みくちゃにして真城は玄関扉を開いた。廊下にいるのは勘解由小路で、目が合った瞬間、またもやふざけた顔に戻った。かと思えば拗ねたみたいに唇を尖らせ舌を打ち、地団駄を踏む。
「ンだよ無事かよ。開けろ、おら」
有無を言わせず勘解由小路は真城宅に踏み込んだ。彼は突っ立っている家主に軽く抱擁した。コンタクトレンズによって禍々しい色に変わった瞳は遠慮も礼儀もなく真城の下半身を凝視した。幼馴染の身体の異変に気付いておきながら、彼は何も言わない。瘡蓋が襤褸雑巾のように破け剥け、薄らとした血だけでなく組織液も滲ませている片手を指輪やネイルで目障りな手で取った。生々しさと痛々しさでグロテスクな傷口を勘解由小路はぼんやりと見下ろしていた。
「ちゃんときっつく包帯しとけよ。痒かったのか?」
真城は俯き黙ったままだった。
「汚 い菌 入って壊死したらどうすんだよ。励んで治れば医者要らねぇの、分かる?分からねぇな。消毒液貸せよ、汚ぇな」
家主よりも家主らしく我が物顔でリビングへ引っ張り込み、救急箱の在処も彼は知っていた。テーブルを挟んで処置をする。真城はどす黒い雰囲気を纏い、俯いたきり口を利かなかった。消毒液の鋭い匂いが鼻腔を刺す。勘解由小路は臭がったが真城は茫然としていた。傷口に湿った綿が当たるたびに痛みが走る。握られた手を引こうとした。
「逃げんなバカタレ。舐めるぞ」
勘解由小路はピアスの食い込んだ舌を晒す。真城の手はさらに力がこもる。
「冗談だわ。生焼けは危ねぇんだろ?」
「……十河は…………?」
「知らね。帰ったんじゃね。ま、隣ン宅 だしそう心配することじゃないわな」
黒のマニキュアでおどろおどろしくされた指が新しいガーゼに軟膏を塗りたくる。小石みたいな指輪がテーブルにぶつかる。
「なんでまたその発作でたの」
熱を持った患部に軟膏の塗られたガーゼは冷たかった。
「発作…………」
「どうみても病気のソレでしょ。やめろよな、こういうの」
勘解由小路は小馬鹿にするように首を捻った。
「十河にすまないことをした……最低だ…………」
腐れ縁の言葉などもう真城は聞いていない。
「何したっけ」
「ろくに挨拶もしなかった。あんな不機嫌を押し付けるみたいな態度………」
「そう?フツーに腹痛 起こしたんだなってカンジだったケド?だいじょーぶ、アイツ、お前のコトなんかなんとも思ってないから」
抱き竦めるように勘解由小路は強張った真城の背を叩く。
「れーあんが思うほど、アイツ頭良くないし、れーあんのコト、気にかけてないよ。俺 ちゃんのほーがれーあんのコト、気にかけてんだケド?」
真城は首を振った。冗談に付き合える気分ではない。腐れ縁はわずかに眉を顰めた。
「ンだよ、あのガキのことしか考えてねぇのな。あ、そだ、ほいならさ、俺ちゃんが消毒してやるよ」
黒に近い紺のネイルカラーが邪悪な感じのする手に顔を固定された。爛れた気になっている薄い頬肉が乾いた弾力を受ける。何も考えず、咄嗟の判断によって手の甲で拭った。嫌悪も喜悦もない。ただ無意識だった。
「ほ~ん。そーゆー態度とっちゃうか~」
部外者から見れば、勘解由小路が家主を虐めているような構図だろう。彼は陰湿な笑みを浮かべ、その宗教上の身内は肩を縮め、項垂れていた。
「別れようか」
真城は頭を上げた。
「誰と……」
「あのガキと」
返答はなかった。勘解由小路は鼻を鳴らす。
「まぁ、別れねぇけどな」
真城はがくりと首 を垂れた。
「2人の仲を、邪魔するつもりはない」
勘解由小路は小馬鹿にしたように眉を上げ、唇を尖らせる。三白眼は家主から目を逸らした。だが立ちかけた真城を一瞥する。
「どしたよ」
「彼に謝る」
焦りが真城の背中を押している。勘解由小路の言葉なぞは何も響かず、十河は真城の行動を不快に思っているに違いなく、過去に傷付けた後ろめたさと相俟って思い悩んでいるに決まっている。高校時代のことを実は許していなかったと純朴で優しい友人が勘違いしないはずがないのだと……
「落ち着け、落ち着け、れーあん」
いくら飄々として軽率、軟派でちゃらけていても、長い知り合いの突発的で衝動性の強い、憔悴し病的なところはすぐに感じ取れた。陽気な方面では表情が乏しいくせ、憂鬱や煩悶を滲ませるには随分と色が豊かだ。
勘解由小路は真城の肩を押さえた。尋常でない白い顔には汗が浮かんでいる。
「あのガキのことは俺ちゃんに任せろって。アレは俺ちゃんの恋人 なんだしよ」
美男子は静止し、床を向いた顔面は悲愴に歪んだ。勘解由小路には見えない。
「奥に引っ込んでろよ。寝ろ。メンヘラなんじゃねぇの、しち面倒臭 ぇな」
肉感の少ない骨張った腕を指輪やブレスレットで装飾過多な手が引っ張った。我が家同然に仔牛郎はリビングを抜け、もうひとつある小さな寝室に連れて行った。郊外のためか家賃の割りに良い部屋である。宗教的な身内の仲介ならば割引もあるのだろう。
「仔牛郎……」
「寝ろや、バカタレ」
寝室はベッドをひとつ置けば脇を通るのもやっとという狭さで、恋人に限らず風俗嬢だのセックスフレンドだのを連れ込めそうな余裕はない。勘解由小路は色気なく整頓されたベッドへ家主を突き飛ばす。真城は投げ出されたが、悄然として座り直した。
「十河に、他意は無かったのだと…………気にしないでくれと伝えておいてほしい。本当にすまなかったと………後から直接言いにいく」
「ひでぇやつだな、れーあんは」
いつもの調子の軽口にも真城は怯えた態度を示す。
「俺ちゃん様が気に掛けてやってんのに、あのガキのコトばっかでよぉ」
「……ありがとう」
「別にいいケドさ」
勘解由小路を真城は機嫌を窺うように見上げた。マニキュアと指輪が特徴的な手に押し倒される。慣れたスプリングと慣れた生地が持主を抱き留める。宗教上の家族もまた陰を重ねた。
「目ん玉閉じて寝るんだよ」
眼球を抉りかねない野蛮な黒爪を防衛本能で鷲掴む。
「別に、眠くない……!」
「眠ぃよ!眠くなきゃンなメンヘラ起こさねぇだろフツー。生理前?ナプキン買ってきてやろうか?あ?」
「仔牛郎、!そういう冗談はよせ……そういう冗談はよくない」
取っ組み合いが終わる。勘解由小路は気分が萎えたらしく真城を放す。寝るつもりのない真城も上体を起こした。
「真面目ちゃんがよ。タンポン派かよ」
何故彼は異性ともなれば簡単にその神秘を揶揄できるのか、それが真城には理解できない。教戒如何に関わらず、何かとても恐ろしいことのような気がした。しかし理由を言葉にできなかった。
「でもガチめにれーあんって生理あったら重そうだわな」
何度言っても利かない悪縁相手を睨む。まだふさげている。彼は銃社会の国みたいに両手を上げた。女を取っ替え引っ換え、流行物みたいに扱う勘解由小路にとって異性の肉体のことなどはある程度理解し、自らも介入するほどに身近なものなのかも知れない。そして真城自身は男体の制御しがたい渇望に理性が拮抗してしまうせいで苦しむ。今でも油断をすれば、友人の唇の感触を思い出し、過去の口付けによる劇薬じみた甘い官能まで掘り起こすのだから気が抜けない。それだけでなく、欲望はあらゆる友人の肉感や声の変調で代替してこようとさえしてくるのだ。わがままで横暴、露悪的な勘解由小路でわずかばかり気が紛れる。
長い睫毛を伏せ、悪辣な知己を遮断する。耳鳴りがした。頭の中は靄 で埋め尽くされ、視界に入るものもモザイクのように粗い。
「シコシコやっちまえばいいじゃん」
鳥肌が襲った。真城はぶるぶると首を振った。恐ろしい誘惑はまず言葉の意味など分からずとも耳をすり抜けただけで身震いする。そして禁忌のその先にある感覚を想像し、また慄然とするのだ。
「やってやろっか。れーあんならイケるかもしんねぇし。なんたって、あのガキ喰っちまえるくらいには同性 には疎 いみたいだから」
「やめてくれ……、」
「ンだよつまんなッ。壊 れぽこちんになっても俺ちゃん知ーらね」
また張り詰めている。思い出したくなかったものから結局逃れ切れなかった。十河梢春に関わったあらゆる部位が疼き、さらに真城を苛み、喘がせる。あとは勝手に、肉体が限界を迎えるのだ。
「相手を傷付ける……」
「あ?ンだって?」
「性欲に馳せた相手を傷付ける」
「なんで」
真城は顔を覆ってしまった。泣くほどの激情は伴わなかった。好き勝手に沸き立つ劣情に炙られ、眼球に涙が滲むのだ。
「れーあん?」
隣の壁から物音がする。静かになった2人の間に乾ききった空気が流れた。
「仔牛郎には分からない。俺も仔牛郎が分からないんだ。だから俺に構うのはもうやめろ」
それは強い拒否ではなかった。懇願というほどでもなかったが、忠告に近かった。
「俺はきっと気違いなんだ。色気違いだ。経験のある仔牛郎よりも、1日中、ずっと長いこと、いやらしいことを考えて、俺はもう気が違っている」
「そりゃ牡 の肉欲 は抜かなきゃやらしースケベな妄想でいっぱいになるわ。大賢者の聖人君子になりたきゃ、シコるしかねぇな」
真城は項垂れ、両手を覆ったまま顔を上げなかった。返事もない。勘解由小路は少しの間、よく動く口を噤んでいた。
「手、いじめんのやめろな」
持主に焼かれた手をぞんざいな仕草で労ると反応のないのを察したのか、物置きみたいな小部屋から出て行った。1人になっても壁越しの物音が真城をひとりにしない。自分を苦しめる気配を想像した。何をしているのか。すぐ傍にある。呼べば届くかも知れない距離にいる。喉を震わせようとすれば、脚の間の腫物が全身を焼く。窮屈な布に押し込められ、過敏な器官が折れるような感覚に悶える。触りたい。勘解由小路の誘いに乗ってしまいたい。同時に、壁一枚隔てたところにいる友人へ浅ましい情念を抱いている自分を激しく嫌悪した。頼りないこの壁一枚では、十河に鄙陋 で下劣な想いを抱いていることが知れてしまう。恐ろしいことだ。悍 ましいことだ。破廉恥極まりない。そして十河の人懐こい顔が青褪めるのを脳裏で創り上げ、真城は目を見開くと力無く眉を下げ、戦慄し、くたりとベッドに沈んだ。
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