11 / 16

第11話

◇  真後ろで物騒な音を聞き冬夢湖(ふゆみ)は足を止めた。ラブホテルが並ぶ繁華街の奥地で、夜間では治安の悪さが全国にまでその名を轟かせているらしかった。しかし今は昼だ。人々の顔や服装がよく分かる。 「そんなことしか言えねぇのかテメェは!」  知り過ぎるほど知っている声が怒鳴り散らしている。想定内ではあったが断定したくはなかった。ゴミ捨て場で事は起こったらしく、車道にまでゴミ袋が転がり、婚約者はゴミ山に隠れながら腕を振り上げている。彼女は気が狂っているのだ。主義とこだわりによって気が違ってしまった。冬夢湖はそこに過去の自身の延長を重ねていた。やはり世良田(せらだ)恋愛嵐(りあら)は冬夢湖にとって必要な人物に違いなかった。 「何をしているんです、世良田さん」 「コイツが!畜生め!ド畜生!」  ピンヒールが容赦なく、ゴミ袋ではなく人間を蹴っていた。被害に遭っている者は両腕で頭を覆う。 「暴力はいけません。一体、何があったんです?」 「マンコは男に付いてねぇんだよ、ド屑!テメェは親の交尾の産業廃棄物だゴミが!」  黒髪を振り乱し、閑静なラブホテル街に怒声が響き渡る。治安が悪いだけに交番も多かった。 「世良田さん」 「テメェの脳味噌はチンポに付いてんだよ、くだらねぇ!シコってとっとと寝ろ!それか首吊れやカス!第三ポワールから飛び降りろ!」  冬夢湖の声も聞こえなかった。終いにはこの近くにある自殺スポットで自殺を迫る。 「マンコマンコマンコマンコ、テメェの口はマンコ以外レパートリーがねぇんだからよ、塞いでやる。それか死ね!」  世良田はゴミ袋に蹴りを入れ、袋を破ると何か得体の知れないものを掴み、被害に遭っている不幸な男の口に捩じ込んだ。血走った目は正気ではない。 「頭蓋骨粉砕して脳味噌垂らしながら、テメェは野次馬に、マンコ…ケツマンコ……って助けを求めてんだよ。そうしたら今まで隠れてたとんでもねぇド変態が、その蛆虫が詰まった脳髄までファックしてくれるからさ!」 「世良田さん」  腕に何かが纏わりついたが冬夢湖はまるきり気にしなかった。手の出しようがない恋愛嵐の暴行に、どう入るか思案する。 「あたしが悪ぃってのか!」 「先に手を出したのなら貴方が100悪いです」 「で、こいつが100億兆悪ぃ!」  男の口は腐乱していると思われる何かで汚れていた。顔も赤くなっている。 「一体何をされたと言うです?」 「その辺にいたド底辺バカ売男(ばいた)に、マンコで楽な商売してるド淫乱って言ったんだよ。マンコで!マンコ!男のどこにマンコがあるんだよ?人類みなマンコ持ち!マンコ野郎が。死ね!」  激しく興奮した様子で冬夢湖が(たお)やかな腕を掴んでも彼女は悪辣な言動をやめない。 「世良田さん!もう口を開くな」  片腕に纏わりついた生温いものを払い、婚約者の腕を力任せに引き寄せてゴミ捨て場から離した。彼女の腕の皮膚に指が浅く沈んだ。女の肉体に力を入れた感触に彼は非常に不愉快な忌まわしい心地になる。恋愛嵐を回収したはいいが、ゴミ捨て場で被害者がよろめきながら立ち上がった。拳を作り、肩を回している。わ逃げるという選択は無かった。女は豆腐より柔らかく、小麦粉のだまよりも脆く、粉雪よりも儚い。すでに先程の行いで世良田の骨は砕け、肉は潰れ、血管は千切れて手首が落ちているはずだった。それでも冬夢湖は恋愛嵐を背に隠し、まるで相手が加害者とばかりに前に立った。 「殴るなら、俺にしてください。恋人なので」  相手に言葉はなかった。冬夢湖は目を閉じる。暴力は見慣れていたが、振るわれたことは数えるほどしかない。父親の中に息子はほぼいなかった。暴力は前からではなく背後からで、彼は肩を引かれるとそのまま放り投げられる。目の前を影が倒れた。黒い髪が棚引く。婚約者は殴られ、道に尻餅をついた。冬夢湖は呆然とする。 「女は男にケツ拭ってもらうしかないとかごめんだからね」  恋愛嵐の次の標的は彼女自身の婚約者だった。冬夢湖は片頬を赤くした女に指を突き出される。女の殴られる光景は彼の反応を鈍らせた。 「十河(そごう)さん!」  彼の世界には自分と殴られた女しかいなかった。殴った男も忘れていたというのに、また別の存在が混じる。 「十河さん、十河さん。会いたかった…」  婚約者がいうところの"ド底辺バカ売男(ばいた)"が纏わりつく。ストーカーだ。婚約者同様、少し気が狂っている。冬夢湖より年上で見た目は落ち着いているが、まるで年長者のように扱われる。年上のくせ兄と慕い、弟のように振る舞う様に少しずつ嫌悪が生まれた。腹違いの実弟を消され、蔑ろにされたような気分が逃げ回る理由だ。 「警察を呼ぶよ、世良田さん」  冬夢湖はストーカーの存在を消した。纏わりつくものも感じない。恋愛嵐は通り魔的に被害に遭った男から目を離さなかったが、警察という単語に彼は走り出してしまった。 「………悪かったわね」 「いいえ」  聴覚が何か拾ったが閑静なラブホテル街の小さな物音と彼女の声しか聞こえなかった。 「で、アンタはそのちんぽ付きとラブホ行く?」 「いいえ。どうしてそんな突き放すことを言うんです。俺は一度だって貴方にペニスを求めたことがありましたか」 「アンタはいつだってあたしのちんぽを求めてるでしょ!」  彼女は荒々しく怒鳴った。冬夢湖は纏わりつく者から腕を抜く。 「十河さん、この女の方は誰ですか。十河さんホテルに行かれるんですか?またメールをしてもいいですか?」  冬夢湖は婚約者を見た。彼女は冷ややかに彼と視線を合わせ、ぞんざいに外方(そっぽ)を向いた。 「行きましょう。早くイきたいです」  ストーカーには一瞥もくれず冬夢湖は嫌がる恋人の腕に腕を絡めた。普段はやらない。スマートなシルエットのジャケットが薄手のニットを拒んだ。しかし無理矢理に腕を組み、彼女の神経とは反比例して細い手指を握る。 「刺されるわよ、アンタ」 「その時は、その時で…」  恋愛嵐は何度かストーカーを気にした。冬夢湖は一度たりとも振り向かなかった。しかしラブホテルに入る前に彼は立ち止まった。 「有事の際は、梢春(すぅ)のことを頼みます。梢春(すぅ)はもう貴方の仮姻弟(おとうと)ですからね。俺にもしものことがあったら……頼みます」 「嫌」 「頼みます。もしものことなんて無いようにしますが、リスクマネジメントというものです。梢春(すぅ)を頼みます。何かあったら俺よりも優先してください」   改めて頭を下げた。片頬を赤く腫らした女は眉を顰めた。 「だったら、みっともなくても女を庇おうだなんて真似はやめるのね」 「そうしたいところですよ。協力していただけますか、貴方にも」 「イ、ヤ!」  冬夢湖はへらりと笑った。そして彼女を追い越しホテルに入った。恋愛嵐はホテルの壁を囲う生垣の陰にストーカー男が立っているのを見た。目が合った。彼は一歩後退る。来るのが遅いのを呼ばれ、背を向けた。 ◇  勘解由小路の巻き込むような口添えで真城は2人の逢瀬に割って入ることになった。勘解由小路は日頃からまるで移住するようにこの賃貸物件に私物を置いていくため着る物には困らず、しかしあまり着る頻度の高くない、彼らしくない地味な服で、白と紺のグラデーションが入った薄手のフーデッドスエットシャツだった。彼を高校生に見せてしまう。真城は相変わらず堅い感じのする服装をしていた。それでいて四肢の長さや体型が形式張らない垢抜けた雰囲気を醸している。  話では、十河の義姉が車を出すらしかった。実兄の結婚相手とは仲が良いらしい。恋人はいないというが壁越しに聞く異性の声が真城の疑問を深める。 「やっぱれーあんは何着ても似合うなぁ」  左右に上体を揺らし、右から左から勘解由小路は真城を観賞する。 「やめてくれ」 「あのボウズが引き立て役になっちまうな」 「十河は俺なんかよりもずっと可愛い」 「…………そーゆーのとは違うんだよな。なんだよ可愛いって!俺ちゃんも可愛いだろうがよ!」  勘解由小路は目付きを鋭くするのと同時にインターホンが鳴った。隣人が待っている。 「今日はよろしくな、真城くん、コーシローくん。お義姉(ねえ)ちゃんももう着いてるって」 「義姉ちゃん、美人?」 「うん」 「ま、そう言うしかねーわな」  勘解由小路は靴に足を突っ込み、先に下まで行ってしまった。十河は玄関前で戸締りを待っている。 「2人のデートに俺まで……すまない」 「何言ってんだよ。オレは楽しいし、コーシローくんも真城くんが一緒で嬉しいと思う」  口にして虚しくなり、そして彼がそれを埋める。彼のことで重苦しくなり、彼のことで満たされる。玄関ドアに鍵を掛け、十河の案内とともに近くの駐車場に赴いた。内装の赤い浮ついた黒の車が見えた。その傍にモデルのような女が立っていた。頭が小さく脚が長い。 「お義姉ちゃん!お友達連れてきた!」  十河は女の姿が見えるとスキップするような足取りで駆け出した。勘解由小路は口笛を吹く。 「結婚の決まっている人がいるらしい」 「口説かねぇよ。目に入るなら美人に越したこたねぇだろ」  ロシアンブルーを思わせる冷淡な雰囲気があった。彼女は後部座席を開けたまま真城を見ていた。そして思い出したように赤いカラーリップの塗られた唇が開く。 「乗って、梢春(すぅ)ちゃんのお友達たち」 「す、梢春(すぅ)ちゃんは恥ずかしいよ!お義姉ちゃん」  照れた横顔を見ていると腕を引かれる。 「いいじゃん、すぅちゃん。俺ちゃんもそう呼ぼうかな。なぁ?れいちゃん」 「は、恥ずかしいだろ!」 「いいじゃん。すぅちゃん。可愛くて。れーあんもオマエのこと可愛いって言ってたし」  十河は勘解由小路に迫り、勘解由小路は真城を突き出した。 「そ、それは、ちょっと、照れる!」  十河は顔を隠して助手席に座った。バックミラー越しに鋭さを強調された女の目が斜め後ろのこちらを向いていることに真城は気付いた。 「すぅちゃんのお義姉さん、名前なんていうんすか?」 「すぅちゃんって呼ぶなよぉ」 「あたしのことはただのタクシー運転手だとでも思って、3人で楽しんで」  十河の義姉はサングラスを掛けてしまった。真城はどこか見覚えのある目鼻立ちから意識を逸らした。 「クールっすねぇ」  勘解由小路は戯ける。真城は助手席の後ろで十河の髪や、窓に映った姿をぼんやりと観ていた。車内はラジオ番組が静かに流れ、家具屋のある大通りへ進んでいく。十河の義姉は斜向かいにある喫茶店で時間を潰すといった。周りには本屋や電気屋もある。 「すぅちゃんの義姉ちゃんめちゃくちゃ美人なんだな」 「兄貴もすごくカッコイイよ」 「あ?へ~っ。野郎には興味ねぇけどな」  勘解由小路は十河と話し、後をついてくる真城に絡む。 「なんかアイツ変だよ」 「兄に育てられたんだ。世界の中心が兄でも不思議はない」 「れーあんも変だわ」  目的はカーテンだったが、カーテン売り場に辿り着く前に、布団だの敷物だの食器だの、彼等は寄り道をした。 「木の食器良いよな。木の食器。丁寧な暮らしじゃん。れーあんも木の食器にしろよ。これにポテサラ乗っけよ」 「ホント仲良いよな、2人とも」 「ふふん。昔の恋人(オンナ)だった」  勘解由小路は真城の背を叩いた。十河はきょとんと彼を見上げる。悪戯好きの宗教上の身内は笑いを堪えていた。 「ち、違う。違うからな」 「いいじゃん、いいじゃん。オレもコーシローくんと付き合ってるんだもんな?3人で仲良しじゃん」 「ま、俺ちゃんとれーあんはもう今じゃ夫婦レベルだかんな」  十河の純真な眼差しは真城にだけ注がれていた。 「違う。誤解だ。十河、あまり仔牛郎の言うことは鵜呑みにするな…」 「いいじゃん。羨ましいよ、オレは」  屈託のない笑みが直撃する。何気なく彼に触れ、彼を楽しませることのできる腐れ縁の幼馴染こそ、真城は羨ましく感じられる。マイペースに店内を回っていた当人はカーテン売り場を見つけ、人目も気にせず大仰に手招きした。 「カーテン何色にすんの?ピンクはやめとけよ。ラブホみたいになんぞ」 「ラブホってそうなの?」  カーテンのサンプルをひとつひとつ吟味しながら勘解由小路が言った。十河は大雑把に見て歩いた。この友人の半歩後ろにいるために真城が的になる。 「ピンク色が多いとは聞いたことがある」 「ま、そんなチャチなんは昔だわな。最近は水族館とかお城みたいですげぇんだぞ」  勘解由小路は一枚、黄味のある鮮やかなながらも淡いグリーンのサンプルを引っ張った。 「これよくね?なんとなくオマエっぽい」 「え、なんか子供部屋みたいじゃない?真城くんどう思う?真城くんの部屋何色だっけ」  「ピンクの花柄入った芥子(からし)みたいな色だよな」  家主が答える前に勘解由小路が割って入る。早押しクイズかと思うほどの速さで真城自身カーテンの色など覚えていなかった。 「すごぉい」 「ゲーセンのクマのやつ、あそこに刺した時にばっちり見た」  クマの頭部のマスコットが知らぬ間にカーテンに付いていた。確信的だったが間違いなかった。他に思い当たる節がなかった。彼でなければ犯罪の線が浮上する。 「どうしろ。真城くん、これオレの部屋に合うかな?」  互いにあまり意識のない恋人のすぐ傍で十河は真城へカーテンのサンプルを見せる。何かがちくりと痛んだ。 「俺は、これがいいと思った」  青系の淡色の濃色で斑ら模様の地に白抜きで写実的な熱帯魚が描かれている。時々入る浮輪のイラストに使われた赤が青を引き立てる。 「あ~、でも冬寒げだな」  勘解由小路は腕を組む。十河は挙げられた2枚のカーテンを見比べた。 「う~ん、迷うな。どっちだろ?こっちはなんか、枝豆とかメロンみたいで美味しそうだし、こっちは落ち着いた感じするよね」  2人はふざけるのをやめて真剣に話しはじめる。何となく目を引いた細かい豹柄のカーテンを手に取った。色味としては真城の家のカーテンと同じ黄土色のグラデーションが入っていたが、毒々しいその柄はあまり穏和で爽やかな友人のイメージではなかった。 「あ、いいじゃん動物の柄。強そう」 「豹柄(レオパ)じゃ女っぽいし虎柄にしねぇ?」 「シマウマ柄がいいや!チョコバニラみたいで好き」  彼等は意見を新たにまた話しはじめ、結局ショッキングピンクの地にゼブラ模様のカーテンに決まった。 「なんだかな。センス(ヤバ)いんだな、コイツ」 「聞こえてるからな、コーシローくん」 「食われかけてるシマウマ柄だろ、あんなん」  会計している十河を待っている間、勘解由小路は真城の周りをうろうろした。 「あのさぁ、今度俺ちゃんの用事で旅館行かなきゃなんだけど、一緒に来ねぇ?」 「……何故」 「いや、コンパ?みたいなの」 「仔牛郎。曲がりなりにも十河と付き合っているんだろう?そろそろ落ち着いたらどうなんだ」  口にしてみて、自分の真っ当だと思った意見にも不満があった。 「大丈夫、アイツも誘うし。アイツも異性(おんな)が良いってなるさ。でもあんな美人の義姉ちゃんいてあれだもんな……やっぱガチか?口開けば兄貴、兄貴だしやっぱ?」 「兄が保護者代わりで大親友だっただけだろう。十河をあまり………妙な関係に巻き込むな」 「おっすおっすするアニキかも知れねーじゃん。大丈夫、大丈夫。でもよぉ、れーあん何でもアイツの肩持つのな。俺ちゃんの心配もしろし~」  勘解由小路は飛び跳ねて真城の腕に胸元を擦り付けた。 「仔牛郎は、大丈夫だろう…」 「で、来る?」 「いいや……そういうのは好きではない」 「れーあん来ればドタキャン出なげだし、面食いどもが(こぞ)ってオマエに夢中で、アイツのことなんか眼中にないままだよ。アイツのために(おとり)になってくれるよな。試される友情ですわ」  勘解由小路は街中で見る若いカップルの女側のように、真城の腕を取り、上目遣いで顔を覗き込んだ。 「……あまり得意ではないし…」 「大丈夫。俺ちゃんと他の野郎2人でやるから。オマエ来るって写真出したから一応来いってこと。嘘は言ってねぇから。で、オマエ誘うからアイツも誘うってだけ。つまりおまけ。2人でホモみてぇに風呂でも入ってろ~」 「断る」  真城は会計を終えた十河を迎えにいった。彼は財布をしまうか荷物を持つかで焦っていた。品物の入ったビニール袋を横から取る。 「あ、ごめんな、真城くん。ありがと」  子供っぽい笑みが胸を刺す。真城は首を振った。勘解由小路が背中に突進する。 「なぁなぁすぅちゃん、温泉好き?温泉行きたくね?」 「いいね、温泉。花苑湯ートピア?」 「ちげぇよ、旅館」  真城は徐ろに2人の間から抜け出た。 「ちょっと高そうだしオレはいいや。2人で行くの?誘ってくれてありがとな」  会話が聞こえた。十河は食い付くかと思ったが断っている。後ろめたい喜びを直視できなかった。 「は~、マジか。すぅちゃん釣ればれーあんも来ると思ったのにな」 「何それ?」 「こっちの話。じゃ、花苑湯ートピアでも行くか」 「行く行く。オレまだ行ったことなくてさ!」  花苑湯ートピアという安い銭湯が近場にある。十河は高校時代においても銭湯やプールにあるジャグジーが好きだった。 「れーあんも!」 「俺はいい」  2人は互いに付き合っている意識がない。おそらく相手をそういう意味で好いているということもない。意識をしているのは部外者だけだ。真城は疲れてしまう。十河のことひとつひとつに気分は大きく浮き沈む。 ◇  元気のない婚約者のGPSを辿って入った喫茶店で、彼女は知らない男と座っていた。4人掛けのテーブルに2人きりで、コーヒーも2つ。他に同席者の陰はない。冬夢湖は平然とした態度で彼女の隣の椅子を引いた。ソファー席のさらさらとした毛質の茶髪の青年が目も口も必要以上に開けて彼を見上げる。何か挨拶をするように立ち上がった。そこまで驚くことなのかと思うほどに目を丸くしている。 「浮気じゃないわよ」  婚約者の登場に焦ることもなく世良田は言った。互いに互いの場所を把握するのは合意の上で、彼等はほとんど己の婚約者の動向に興味を示さなかった。ただ今日はこの頃ホテルに誘っても応じず、引きこもりがちで連絡も遅い彼女を慮っての行動だった。やっと外に出たと思えば知らない男と2人でいる。これという感情は多少の興味のみで、怒りや嫉妬というものは一切なかった。 「浮気でも構いませんよ。こんなかっこいい相手なら仕方がない」 「ヤダわ。浮気相手ならこんなアンタに似てる人選ばないわよ」  浮気相手疑惑のある青年を2人で品定めするように眺め、彼女の言葉に冬夢湖は小首を傾げた。冷たげなカップルを前にその青年は苦笑しながら冬夢湖を見ていた。 「貴方から見て俺はこういった感じなんですね。喜ばしいことです」 「中身まで同じとは限らないから、あたしが選べるなら彼だけどね」 「いきなりごめんなさい。俺は十河冬夢湖と申します。彼女の婚約者です」  相手の青年は口を開いたまま無言で、肩を張らせていた。 「浮気の件は彼女の冗談ですし、俺も疑っていませんし、本当に浮気でも怒っていません。本当です。どうかそんな緊張しないで」 「ごめんなさいね。GPS付けてるの忘れていたわ。いきなり来たこの人が悪いんだから。飛び入り参加なんてルール違反」  彼女のネイルアートされた爪が呼び出しボタンを押した。店員が来る。冬夢湖はコーヒーを注文した。 「近衛(このえ)詠雛(えいす)っていいます。世良田さんとはこの前、ハンカチを拾ってもらってからお付き合い……友人としての!友人としてのお付き合いをさせていただいてます」  色の白い、美青年といった感じの男で言われてみると顔立ちの系統や雰囲気は似ているような気がした。 「で、デートに誘われたってわけ」 「俺の誘いも放ってですか。自宅で死んでいるのかと思いましたよ。誰かがなりすましているのだと」  女の気分は普段と同じように見えたものの、それが取り繕われたものだと冬夢湖はすぐに分かった。かなり気が滅入っている様子が窺える。近衛というおそらく自分たちよりも年下の男は気を遣ったのか、その後の話の大半を冬夢湖に振った。放置されたのか、自ら身を引いたこか女が冷めたコーヒーを飲み終え憂鬱げにしているのを見計らって場を奪い取ったような話し合いが終わった。2人で見送るように近衛と別れ、婚約者とも別れて帰る算段だったらしい女の腕を引いて冬夢湖は同行させた。 「ちょっと、あれだけ喋っておいてラブホにでもしけ込むつもり?ヤダわ。あたし疲れた」 「違います。貴方の元気が最近なかったものですから」  世良田は彼の目を見たまま項垂れてしまった。

ともだちにシェアしよう!