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第10話

◇  隣の部屋から女の声がした。きゃらきゃらと笑っている。高校時代も異性と仲が良かった。あまり気に留めていなかった中学時代もおそらくはそうなのだろう。隣人の友達付き合い0日目から交際に至った宗教上の身内から連絡はなく、また隣人を訪れたりもしていないようだった。真城の知らない数時間に逢瀬を重ねているのかも知れない。息苦しさと行き場のない漠然とした怒りに真城は膝を組む。食事は喉を通らず、ただ明日のための身嗜みに湯を浴び、悶々とした眠れない夜を過ごす。包帯は外れたが、変色したままの手の甲には骨が高く浮かぶ。そして初めて痩せ細ったことに気付いた。壁奥の些細な音が気になって仕方がない。鼓動、吐息までがうるさい。女の声にばかり気を取られ、どれだけの時間が過ぎたのかも分からなかった。暗い室内が振動とともに淡く光った。キッチンテーブルの真上の天井がぼんやりと見える。壁際で蹲る真城はメッセージを受けたスマートフォンを暫くの間、所在もなく見つめていた。やがて頭にまで伝達が行き、やっと立ち上がる。機械のように画面の黒くなったスマートフォンを手に取った。勘解由小路から、飯を食いに行くと来ている。返信も忘れた。ただ内容を確認することで完了したつもりでいた。壁奥からは物音がする。またそこに戻る。耳を当てるような真似はできなかった。それでも聴覚を研ぎ澄ませ、弾むような、つまりスタッカートの効いた高い彼の声を聞いた。間延びし、甘えた、溶けて消えていくような声を。防音対策のされているこのアパートの壁を隔て、まるきり友人の雰囲気にはそぐわない粉雪のような儚い質感になっている。傍で聴きたくなってしまう。下腹部と下半身の間のものは痛いほどに張り詰めていた。盗み聞きをしている罪悪感と高校時代から焦がれていた相手の声が次々と真城の肉を煽る。勃ったものは布を押し上げ、真っ直ぐ立つことを阻む。頭を抱えた。一箇所だけは猛烈に熱く、他の蒸した肌は急冷凍されていく。女の声は嘲笑的で、甘えた声は短く切れて連続し、真城の吐息には無自覚な嘆きが込められていた。スマートフォンが再び振動した。今度はメッセージの受信を示す3拍では収まらず、継続的にテーブルを震わせる。壁からキッチンテーブルまでが遠く感じられた。脚の間の悪鬼が思考も挙動も鈍らせる。助けを乞うた。何もかもが些細なことだと言わんばかりの身内に。堅苦しい字面とデフォルトのアイコンが映る画面に汗ばんだ指を落とす。電話が繋がった。 <ッせーよ、れーあん!おい!(れい)くん!>  元々がなり気味の声質が実際にその特徴を強め、一言目は怒声だった。 「……」 <手首切って死んじまったか、おい> 「仔牛郎……」 <今から行くから鍵開けとけや。そこで死ぬと事故物件になるで。格安になったら俺ちゃん、借りちまぁかな。隣ン()仮恋人(オンナ)()だもんな。幽霊(バケモノ)になったら飯作ってくれな>  勘解由小路は喋り続けた。普段は一方的な用件を言ってすぐに切れたが、彼はおそらく外にいるにも関わらず不謹慎なことを楽しそうに話し、通話相手が聞いているのか否かということを気にしている様子はない。 <何なら作れる?ぱっくり()っちまって作れねぇ?たまにゃ弁当買って帰ってやろっか。何食いてぇ?確かれーあんってさくら大根嫌いだったよな。今日日(きょうび)さくら大根入ってねぇ弁当なんかあるかね> 「でんぶ…」 <あ?なんでぇ、生きてんのかい。でんぶ?でんぶが食いてぇの?ってかでんぶって何?> 「嫌いなのは……」  電話に雑音が混ざった。勘解由小路の声が曇り、数秒すると音質が戻る。 <とりまでんぶ探すけど、なかったらめんごな> 「仔牛郎…」 <鍵開けとけや>  苦しみが喉まで来ている。電話が切れる。キッチンテーブルに手を付いたまま身体は崩れ落ちた。股の間に棲まう悪鬼が腫れている。焼かないと決めた。待合室で診察を待つ者たちや、診察中の医者の顔が自罰への義務感と罪悪感に板挟みになる。一家庭に必ず一セット置いている法具は、自罰せよと言っている。自罰が儘ならないのなら慚愧(ざんき)し、他罰されよと言っている。テーブルの上の拳が震えた。歯を食い縛り、滑稽に勃起している下腹部を叩いた。容赦してしまう。臓物を逃さず叩いた。視界が明滅し、痛苦が爆ぜる。圧迫感と鈍重な激痛に息ができなくなった。隣人の声と隣人の姿、隣人との思い出にその顔を覗かせようとする、いやらしい、淫らかつ卑劣で陋醜(ろうしゅう)な愚物が萎れる。この奸悪な下種の兇器を壮健で清爽な友人に知られたなら、高校時代の離別が再来してしまう。否、侮蔑し嫌忌(けんき)しても優しい彼はそれをひた隠すかも知れない。何しろ近所過ぎるほどの近所付き合いがある。勘解由小路が着くまで、己に対する虐待は続いた。宗教上の身内が来ることさえ忘れていた。インターホンに激しく怯えた。総裁が来たのだと真っ先に思った。この為体(ていたらく)天眼通(てんげつう)によって一喝しに参られたのだ。参られたのだ!真城は動悸を起こす。インターホンが立て続けに鳴った。出ないわけにはいかなかった。チェーンロックを掴む手が震え、控えめな打楽器と化した。「品行方正部屋」に入れられてしまう。尻叩きの後に自分の罰を10回書かされ、20回読み、それを囲まれながら読まれる。改善策をまた10回書き、20回読み、囲まれながら読まれる。さらに3時間の読誦(どくじゅ)と、1時間の「お叱り」があった。真城が最も苦痛だったのが、それを名誉少年団の前で行うことだった。彼等は嗤ったり、侮蔑の眼差しをくれることはなかったが、幼い真城にとっては激しい羞恥と屈辱、拭い去ることのできない劣等感を与えた。品行方正部屋、または改善部屋と呼ばれる処置を受けた者は名誉青年団にはなれない。真城の検証学会への貢献、参加は名誉青年団に相応しかったが、彼が集会に呼ばれたことはなかった。  チェーンロックが上手く外せなかった。破壊することも厭わない力で揺さぶる。金具が皮膚を痛め付けた。ドアノブが乱暴に回る。蝶番がうるさく軋む。 「れーあん?大丈夫かよ?おい」  何を言っても文句に聞こえてしまう(だみ)声は総裁ではなかった。自分の息遣いが大きく耳に届く。チェーンロックが外れ、(つまみ)を捻った。玄関扉が開く。三白眼が大きく開いた。 「なんかほんのちょっと見ねぇだけで痩せたな」 _親しげにフリンジの付いた頭陀袋のような白いシャツを着た勘解由小路が腕を開き、海外風の抱擁を交わされる。香水が薫った。 「桜でんぶ、あったぜ。探しちまったよ」 「仔牛郎」 「俺ちゃんがグーバンハーで、オマエ、からあげな」  家主に促されなくても宗教上の身内は遠慮なく中には入っていった。まるで来訪者と役割が入れ替わったように真城はおどおどとついていく。 「そういやめちゃくちゃ美人が出て行くの見たけど、あれが例の相手かい」  勘解由小路は我が物顔で電子レンジに弁当を入れた。 「知らない」 「マァジ?方向的にこっちだったんだけど。まっさか隣のジャリガキか?」  心臓を握り潰されるようだった。認めたくなかった。女の声は確かにあったが他者から追撃に遭うような心地になる。女、美人。手に入らないものが並べられていく。女になりたいと思ったことは一度もなかった。さらには世間一般からいって彼は息を呑むような美貌といえたが、本人にその認識はまるでなかった。日にも焼けず髭も薄く、活力のない目、線の細い(おとがい)、繊細げな鼻梁など、将来の漠然とした結婚像について案じたほどだった。 「女性の声は、聞こえた」  仮にも交際しているこの勘解由小路に密告するような形になったが2部屋ずつ階段を中心に東西で別れているため、西側で会ったなら言い逃れできない。 「あ~、よかった。アイツ、ノンケか。は~。全然釣り合ってねぇけど」  電子レンジが鳴り、からあげ弁当がキッチンテーブルに運ばれた。突っ立ったままの真城はイスまで腕を引かれる。苦しみは変わらない。芳ばしい匂いはして、空腹はあった。しかし食欲はなかった。 「包帯取っちまったのかよ。グロいな。ちゃんと治したほうがいいぜ」  勘解由小路はハンバーグ弁当を電子レンジに放り、インスタント味噌汁を作っていく。 「仔牛郎…」 「あ~、気にすんなよ。割引弁当だしな。競馬勝ったんだよ。プレミアムフライデーナイトちゃんが頑張ってくれてさぁ!なめことあさりどっちがいい?」 「なめこ……」 「乾燥わかめあったよな!あれも入れようぜ」  兄弟分は忙しそうに棚を漁った。真城は弁当を前にぼんやりと座っているだけだった。そのうちにハンバーグ弁当も温めて終わり、味噌汁も並ぶ。対面に勘解由小路が腰を下ろす。蓋も開けられなくなったのか、と彼は呆れた様子でからあげ弁当の蓋を取る。彼は(しお)らしくなった目で手を付けない真城を覗き込む。 「痩せちまったな、マジで。隈すご。化粧みてぇ」 「仔牛郎」 「恋煩いってすげぇ」  勘解由小路は両手を叩き合わせた。 「でも大体こういうのって相手意外と地味でブスなんだろうな。ストーカー女に刺されるヤツとかも冴えないブ男だったりするからな。オマエは恋の魔力ってやつに騙されてる。ちゃんと相手を見ろ!オマエを苦しめてるその相手(おんな)はブスだ。顔なんか岩石で、顎でクルミも割れるぞ。デカっ鼻で3人分の空気吸うし、目なんか干しブドウより小せぇんだよ」  兄弟分はハンバーグ弁当を食いながら言った。十河は男で、顔は大きくもなければ小さくもない。顎は高校時代に転んだ縫合の痕が目立たないところでシミになっている。鼻はこれという特徴はないが小振りで、時々鼻腔拡張テープを貼っていた印象がある。目は顔の割りには大きく、活気に溢れ光に満ち満ちている。隣人の魅力に息が詰まる。 「今思い浮かべたろ。フツー好きなヤツのこと思い出したら、嬉しそうっつーか、楽しそうなカオしねぇ?れーあんは、そういうカオするのな」  ハンバーグのたれをかぶったポテトサラダを彼は割り箸で掬った。 「いいから、早く食えよ。俺ちゃんが食っちまうぞ」  ついでに勘解由小路はからあげをひとつ持っていった。さくら大根の入ったカップも摘んでいく。真城はその光景をただ視界に入れるだけ入れて、微動だにしない。 「今日泊まるわ。不安だもん、オマエ置いておくの。あとフツーに帰るのが面倒臭ぇ。ちゃんと寝られてんの?添い寝してやろっか?」 「いい」 「遠慮すんなよ、酒飲んでねぇし。よしんば飲んでてもれーあんにだけにはゼッテェ手ぇ出さねぇし!めちゃくちゃ溜まっててれーあんかメスのタガメしかいなくても、俺ちゃんはメスのタガメとセックスするからよ」  露骨な単語に真城の眉間は深々と皺を刻んだ。食欲がないどころか、胃が拒むまでになる。視界は緑色を帯び、一部はモザイクになってしまう。吐き気がした。水場に駆け込む。食事中の勘解由小路に対していくらかすまなく思った。彼は食う気が失せたとばかりに箸を置く。吐き気に内容物は伴わなかったが心地の悪くなる口腔を開いたまま真城は謝ろうと徐ろに頭を上げた。小石が背中を転がる。 「あんま、ムリすんな。弁当(あれ)はテキトーにタッパーに入れとくから明日食えよ。ンでも一口くらい味噌汁は腹ン中入れとけや」 「……すまない」  嫌な唾液が溢れ、それを出してしまいたかった。目眩と胃痛がする。元気付けるように背を軽く打たれた。気にすんな、と小さく聞こえる。ほとんどのことを彼に任せていた。可燃ごみと不燃ごみの分別や洗い物だけでなく、熱い風呂を入れたという。来訪者と家主が完全に入れ替わり、飯を食らいに来たという目的は看病と介護に変わっていた。真城は風呂に促され、勘解由小路は玄関で靴を履いていた。爪先を三和土に叩き付けている。 「ちょっと隣ン宅行ってくら。顔見にな。責任取りによ」  赤みのある照明が手を振った指の付け根に光芒を作る。真城は返事ができず、兄弟分に甘え、風呂場の扉を閉めた。気温は暑くも寒くもなかったが、身体は汗ばむほど蒸し暑くなったり、その分寒くなったりして彼の情緒とともにひどく不安定だった。湯船から熱い湯を掬って肩に掛けるだけで浸かる気分にはならなかった。ユニットバスではないために勘解由小路はこれを楽しみにしている節があった。シャワーを浴びる。無数の湯の固い筋が完治していない火傷を貫く。恋慕が冷めるどころではなかった。痛みと疼きに、密接に繋がってしまった。十河に惚れている。認めたくなかった。考えたくない。逃げたかった。タイルを叩く。惚れているのだ。辱めている。肌と体温、声を想像し、笑顔の見返りを求め、彼への自己顕示欲と承認欲求に抗えない。相手が同性であることもさらに真城の口にガムテープを余分に貼っていた。生殖に対する欲求は社会への貢献らしかった。しかし同性に対する思慕、避妊具を伴う性行為、生殖の期待がない行いは欲情であり、欲情は利己的極まりない不徳であり、不覚悟であるらしいのだ。検証学会の者たちに知れてはならない。両親が発狂してしまう。親不孝だ。孤独だ。その後の生きる(すべ)を知ってはいてもビジョンがみえない。  風呂場の扉がノックされる。勘解由小路が珍しく遠慮している。そのうち勝手に入ってくるだろう。頭を洗っている時に開扉の音がした。 「真城くん?コーシローくんから――」  湯が飛ぶのも構わず真城は勢いよく顔を上げた。脱衣所とを隔てる磨りガラスの奥にぼやけているのは宗教上の身内の陰ではない。 「具合悪そうって聞いたから、上げてもらっちった。勝手にごめんな。桃缶持ってきた……って言っても古いけど、缶だし、ちょっと埃かぶってっけど、賞味期限、来年まで持つし、食ってくれよ」  十河だ。十河の声に間違いなかった。 「十河………」  気の利いた返答ができなかった。まだ混乱している。苦しみが一旦遠退き、ただただ困惑した。 「”黄桃(きもも)”好き?なんとなく真城くんは”白桃(しろもも)”のほうが好きそうだなって思ったんだけど、なんか、”黄桃(きもも)”のほうが栄養ありそうな気がしてさ。なんとなく!」 「ありがとう」 「お大事にな!お風呂の時にごめんな」 「もう帰るのか」  磨りガラスのぼやけた隣人が身を翻しきる前に呼び止めた。肯定が返ってくる。 「もう少しいたらいい」 「いいの?でも真城くん体調悪いんだろ?手伝うことあるならやるよ!」 「もう少しいてくれ。もう少し……」 「分かった!」  磨りガラスがゆっくりと開いた。十河が入ってくる。湯気が彼を襲う。真城は濡れた髪を掻き上げた。落ちてくる水滴が邪魔だった。 「十河…?」 「背中流すしさ!歯も磨くぞ。ちんこの毛も剃るし」  濡れることも厭わず、十河はカーゴパンツの裾を捲り、シャツの袖を上げて近付いてきた。何かとんでもないことを聞いた気がして後退る。 「だ、大丈夫だ。それより、十河が濡れる」  彼の明朗な瞳は真城の目を見ていなかった。無邪気な眼差しは薄い毛を戴冠した性器を捉えていた。しげしげと観察している。興味深げな視線によって、真城の肉体は部分的に戦慄(わなな)いた。 「真城くんの、大っきいな。兄貴のと同じだし」  そしてふと覗き込まれる。恥ずかしげもなく陰部について言及されるとは思わなかった。彼の顔は一瞬にして真っ赤に染まる。 「十河、仔牛郎はどうした」 「あっちにいると思うよ。呼んでこよっか?」 「いや、いい。仔牛郎といないのか」 「だって話すことないよ、オレ。コーシローくんと」  友人はもう陰部は見ないで、真城の顔を覗き込むようにしながら首を捻り、胸の中、思考の奥まで、潔白な光に射抜かれる。視られてしまう。穢らしく下劣で卑しい妄想を。 「背中流させてよ」  幼さのある手に腕を触られた。静電気のようだった。水滴だらけの指が触れ返す。シャツの色が濃くなる。それを申し訳なく思いながら、口にすることも出来ず、かといって手を放すこともできなかった。 「真城くん……?」 ――梢春(すえはる)  シャワーの音のほうが大きかった。切なげに眉根を寄せる真城を十河はまだ屈託なく見上げている。あまり長くない睫毛に極小の水粒が絡み、白くなっている。顔面の筋肉が形作るものとは異質の表情が加わる。後先を考える力など消え失せてしまった。関節症になりそうなほどではたいが、頑丈そうでもない顎を拾い上げ、片腕は布に包まれた腰を寄せる。ぽかんと開いた唇に食らい付いていた。一瞬だけなめらかな感触に蕩ける。良質な眩暈にまた眉が寄った。シャワーの音が聴覚を占める。心地良かった。理性が深く潜り込んだまま戻ってこない。否、戻ってきていて容認しているのかも知れなかった。数日の間、己を突き破り、引き裂き、足蹴にした矜持や良心は疲労し使い物にならなくなっている。  舌先が伸びる。やんわりと唇が閉ざされる。目を開けることを覚えた。隣人の手が腕に触れている。それは拒絶というほど強いものではなかったが、制止の意図を多分に含んでいた。 「あのさ」  間を置くこともせず口付けたばかりの唇が開いた。喜と哀楽の顔しか見たことこない顔に怒の様子はない。 「言い忘れてたんだけど、」  真城は固唾を呑んだ。ぱち、ぱち、と霧滴を纏いながら十河は通常のリズムで瞬きをする。 「明日カーテン買いに行こうと思っててさ、一緒に来ない?コーシローくんも一応誘ってみるけど来ないかな」  まったく一連の流れとは関係の無い話だった。強く非難されて然ることをしたにも関わらず、先程の接吻は無かったことになっている。唇同士の接触に特別な意味はない。意識するだけの存在ではない。ただの気紛れによる行動で、悪戯と大差ない。おそらく彼の中ではそういう扱いなのだ!自分は取るに足りない存在なのだ!真城は誘いには答えず、頬に手を添え視線を合わさせる。 「十河に、キス、した……」 「うん。頬っぺだけどオレのことカワイイダイスキって兄貴もよくしてくれるし。真城くんもカワイイダイスキだよ」  背伸びをした十河は、真城の唇の真下に口付けた。彼は少し気に入らなそうな顔で真城の肩を下方に押すともう一度背伸びをして唇にキスする。海外風の挨拶を思わせる、友好や家族愛と同じ質のものだった。 「兄貴も真城くんも背が大っきいから、ちんこも大っきいんかな?」 「十河……」 「で、明日、用事あった?急だったもんな。ごめんな。いきなり思い出しちゃって。白いやつ要らないと思ってたんだけど、ここ夕方の太陽めっちゃ眩しいよな」  回答の遅れは断りと見做されたらしかった。水気によって色を濃くした髪を掻き、十河は軽快に笑う。湯を浴び続けていても真城は芯から冷えていくのを感じた。明日の用事はない、と言うのと同時に勘解由小路までが脱衣所に入ってきて、十河の意識を奪った。間もなく磨りガラスが開いた。隙間から顔だけ突き出して身体は脱衣所にある。 「コーシローくん、明日暇ぁ?」 「明日?明日は……競馬ねぇし、暇だな。何?何かすんの?キャンプ?キャンプはパス。何が面白ぇんだよ、文明の利器捨てて」  真城は彼等に背を向けた。何より全裸を見られたくない。 「星空とか綺麗だろ。カレー食ってさ、わ~って色々、いつもは話せないこと話すの。特別感!」 「窓から見てろよ、夜空なんざ。真上にあんだろ。クマにでも食われてろよ」 「夜空じゃねーの!星空!」 「同じだろうが。星空なんかネットで加工されたやつでも見ろや。人間様に手入れされた自然 ()(かっこ)しか興味ねぇクセに意識の高ぇこって」  彼等の息は合っているように思えた。喧嘩のようにみえて仲が良い。十河も真城の知らない側面をみせる。 「ンだよ、キャンプかよ。コテージとかねぇの?そこWi-Fi飛んでる?冷暖房完備?火って摩擦で起こすんか?」 「キャンプ バカにすんなよ!」 「へぇへぇ、クマに襲われても同じこと言ってくれ~」  話題はキャンプに変わり、リビングでする話を彼等は風呂場で盛り上げた。出るに出られず真城はシャワーを浴び続ける。 「で、違うんだよ。キャンプじゃなくて!明日カーテン見に行こうと思ってんの。真城くんはムリなんだって。コーシローくん、行かない?」 「はぁ?れーあん、なんでムリなんだよ。どうせ考える時間とかくだらねぇ用事だろ。来いよ、暇人。ケツの穴から根っこでも生えたんか。ちゃんと毟っとけ。そしたら俺ちゃんも行く」 「………2人の時間を邪魔するわけにはいかない」 「えっ、なんで?真城くん全然ジャマじゃないよ!」  十河は彼の肘を掴んで顔を見ようとする。シャワーが頬を伝い、顎を落ちていく。

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