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第16話

 雨の音がする。大雨だ。夥しい雨粒に頬を打たれる。(ぬく)い。腕が溶けたようだ。  真城はバスタブの(ふち)に傾いていた。片腕を増えていく湯の中に浸け、意識は薄いものの雨音と洪水を聞いていた。淡いピンクに染まった湯が横切っていく。濡れた服は重く、薬によって目蓋を開き続けることもできない。生命の危機を感じてか、股間は大量に水を含んだ布を2枚も押し上げ、腹では錠剤と酒が暴れている。  肉業から逃れることができない。大先生に叱責されるだろう。教えも守りきれず、肉業は捨てきれず、自ら堕落に甘んじようとした。この先生きていても意味が無いどころか、恥を塗り重ねるだけだ。肉を食い、大気を汚し、あらゆる資源を消費した。こうして終わるのは人生を無駄にするかも知れないが、損切りをするのなら今しかない。隣人の婀娜(あだ)な姿を夢にまで持ち込んで、遠ざけ難い快楽を得てしまった今しか。  雨は止まらない。手首の傷から血は止まらないが、痛みはあまり感じられなかった。下半身のものは性的な興奮は伴わないくせ勃起しているが、それとは別に脳味噌から内臓から骨から、すべてがゆっくりと穏やかに融解していくような気持ち良さがある。このまま意識を失うのを惜しむほどだ。酒と薬がどんぱちやっている胃の違和感でなんとかまだ気を繋ぎ留めている。ピリピリとした頭痛も否定できない。  何時間経ったのか感覚も掴めない。インターホンに一度意識を確かにしかけたが、連続する高い音にやがて慣れてしまう。こういう時でもインターホンは不快な音だ。 ―"真城(さねぐすく)"っていうんだ。  バスタブの縁に頬を預け、真城は顔を真っ白にして不気味に笑った。初めて、当時高校生の隣人と喋ったときのことを思い出していた。ひひひ、と劇雨の籠る風呂場に気色悪い引き笑いが響いた。 ―ウソじゃん。  目の前の窓ガラスをどこからか飛んできたボールが突き破ってきたときにすぐ近くにいた彼と出会った。パーソナルスペースを無視して、彼はガラスを浴びた真城の無事を確認した。同じクラスにもかかわらず、名前を覚えられていなかった。 ―しんじょうまれあ?レアチーズケーキみたいだね。  仲の良いクラスメイトの女子を介してのコミュニケーションだったような気がする。  緩やかな懐古が途切れ、現実は腹を叩き、胃袋を歪ませる。前後左右上下不覚に陥るほどの浮遊感と吐気の大波が押し寄せる。抗いがたい力によって喉から裏返しに捲られるような放出感でありながら、酒も錠剤も()り上がってくることなく虚無を吐く。舌が震えた。湧き上がり飲むこともできない涎が赤い湯と合流する。  ドアを叩く騒音が鼓動と不協和音を奏でる。ドア板そのものを叩いているのではなく、蝶番の悲鳴だ。チェーンロックの軋りだ。 「恋愛(れあ)!」  恐ろしい声が一縷の閃きとなって耳を串刺し、眼球の裏を焼きながら頭を(つんざ)いた。びくりと肩が震える。無視できない。その理由が分からなかった。この先にある苦痛に近い酩酊と吐気よりも恐ろしい。真城はいつでも膨張しそうな喉を押さえ、立ち上がった。膝が震える。平衡感覚が狂った。視界には靄がかかる。空気が混ざると布の濡れた感触が気持ち悪く重かった。一度洗面台で錠剤の溶けかけたものを吐いた。胃酸と酒と薬剤の異様な匂いがした。いくらか楽になる。赤い湯水を垂らしながら恐ろしい声のもとに向かう。滾っていた腹の奥が今は軽い。薄暗い玄関の扉が短い間隔を往復し、物音を響かせ明滅する。 「れーあん!」  濁声が聞こえた。勘解由小路(かでのこうじ)だ。真城は包丁で裂いた傷を隠す。 「仔牛郎……」  吐気と嗚咽が同時に起こった。口も素行も目付きも悪いが、宗教上の身内として寄り添い、気を回していた者を裏切ってしまった。焼くな、切るなと口酸っぱく言っていたことを破ってしまった。 「すまない、仔牛郎。悪かった……」  人肌より少し高い湯から揚がった傷は徐々に止まるようだが、まだ真城の肌をくすぐっている。隠し切れない。床に血痕が落ちていく。水を含んで薄まっている。 「いいから、れーあん!ここ開けろや、バカ!」  チェーンロックが伸び縮みする。 「仔牛郎……………」  勘解由小路の脇から隣人が顔を覗かせた。目眩に近かった頭痛が鋭くなる。目蓋の裏に稲妻が見えている。膝はがくがく戦慄き、ついに崩れ落ちて強打した。赤い雫が散る。 「れーあん!開けろって、タコすけ!」  しかし真城の頭の中には痛みと酩酊の他に、一瞬視界に入った邪悪な誘惑の根源しかなかった。 「帰ってくれ!帰れ!」  隣室どころか下の階、否、建物全体にまで迷惑になるような声で叫んだ。  「真城くん……」  呟くような獲物の声に、頭痛はさらに厳しものに変わった。腹を殴られたように嘔吐(えづ)く。酒臭さが喉を焼いた。諸悪の根源だ。異国宗教の悪魔の定義にそのまま当て嵌まる。だのに彼は何も悪くないと理屈で分析しておきながら、感情は伴わず、防衛本能は敵意を示して、憤激を命令した。残りの体力のすべてをそこに割り振ったかのように真城は膝を床から離すとチェーンロックを引き千切らんばかりの勢いで外した。 「帰れ!二度とそのツラを見せるな!」  怒声を浴びたのは真城の頭の中、視界にただひとり残っている、日焼けの眩しい幼気(いたいけ)な青年だった。  熱量を放出した後は自分の怒気に驚き、怒鳴りつけた相手の義姉の蔑んだ眼差しと腐れ縁の不快感を露わにした三白眼をどこか現実から離れて見ていた。隣人は目を見張り、硬直していた。 「真城くん、でも今は、ちゃんとお医者さんに診てもらわないと」  気圧(けお)されることもなく、隣人はしかつめらしい顔をして真城と共に玄関に入った。義弟をきつく叱りつけられた女も後に続いて入った。真城は流されるまま、どうしていいのか分からず、自分が怒声を浴びせた相手のなすがままになっている。女の冷ややかな声が救急車を呼んでいた。真城は隣人とは少しも目を合わさず、また顔を見ようともしなかった。風呂場のほうから帰ってきた勘解由小路が隣人を遠ざけた。 「いいよ、(おい)ちゃんがやる」  勘解由小路は適当なバンダナを見つけ出してきたらしく真城の腕を縛った。 「お前はもう帰ったほうがいいよ。あとはやっておくからよ。どうせちょっと縫うだけだろ」  それから少しの間は勘解由小路と隣人との間で小さな言い合いがあった。 「こいつもまだよく分かってねぇみてぇなんだわ。酒入ってるし。またオマエにどいひーなこと言っちまうとオマエだけじゃなくてこのタコもヘコんじまうから。頼むわ、このバカ野郎のために、今日のとこは退()いてくれねぇか」  酩酊の外で会話が聞こえる。 「お姉さん、すみませんっした。こんなことに巻き込んじまって」  真城はバンダナを突き破って流れ出る血でテーブルを汚していた。吐気が押し寄せて喋れない。同時に救われた心地がした。十河の顔を見ても巨悪的な欲望が湧かないのだ。淫情が鎮まっている。  やがてサイレンが耳を劈くように近付いてきた。すでに隣人とその義姉は真城の家を去っていた。勘解由小路と2人きりになる。 「すまなかった」 「いいよ。2度目も3度目もあるんだろ。その時は救急車呼ばねぇし呼ばせねぇ。1回数万だとよ。俺ちゃんの税金2ヶ月分3ヶ月分が、イカ焼きごっこに使われてんだから、俺ちゃんももっと世間様にイキり散らしてぇくれぇだよ」  勘解由小路が悪態を吐いた直後に救急隊員たちがやってきた。  数針縫った後の真城は俯いていた。順番待ちの人々に頭を上げられないらしかった。大きな病院で、点滴台と共に歩く者や、車椅子の使用者も目に入る。勘解由小路は真城の背を抱きながらエントランスを出た。外は少し暗い。処置をされてもまだ倒れてしまいそうな彼を、病院の敷地内にある花壇の(へり)に座らせる。 「最低だ、俺は……」 「まぁたはじまった」  普段は背筋に針金を入れているのかと思うほどぴしっと真っ直ぐ姿勢がいいくせに、今は弓のように丸まっている。 「情けない……」  交通事故に巻き込まれたのか半身を赤くして足を伸ばした車椅子患者が2人の前を通った時、当人は見た目より元気そうな様子で付き添い人と話していたが、真城は少しずつ萎んでいった。彼の診察は早かった。勘解由小路は待っている間、ロビーで診察を待つ人々を見ていたし、真城もまたそれを目にして気を揉んだのだろう。 「いいんじゃねぇの、安楽死がないのが悪ぃのさ」  勘解由小路は口にしてから急に不機嫌な顔をした。生真面目な宗教上の身内が求めているのは死ではない。罰か、検証学会でいうところの「善美な魂」だ。 「あの隣人(ガキ)とはもう会うな」 「それがいいのかも知れない」  意外な返答に三白眼はさらに白の面積を増やした。 「十河にはすまなかったと伝えておいてくれないか。直接言えないのは俺の弱さで申し訳ないと添えて……」  下ばかり向いているが足元を見ているばかりではない幼馴染みたいなのが転びそうで勘解由小路は長いこと触れていた。今にも転びそうだ。 「分かった、言っとく。約束守れよ」  とんと背骨を叩いた。首の骨が粉砕したかのように彼は頷いた。勘解由小路は唇をきつく噛んだその横顔を見ていた。 「元気出せよ。俺ちゃんが傍に居てやってんのになんなんだその態度はよぉ。あのガキとは離別(バイなら)しても、俺ちゃんが居るならそれでよくね?何が不安なんだよ」   真城は勘解由小路の存在に初めて気付いたような珍奇な表情をした。手首を切り裂いた時から、今の今までこの堅物の頭の中には忌々しい童顔のあざとい挙動といい子ぶった言動をする見た目と精神年齢のちぐはぐな隣人のことしかなかった。そしてそれは自分の恋人なのだ。勘解由小路は溜息を吐いた。 「すまなかった、仔牛郎。迷惑をかけたな」 「いーよ、別に。さっさと帰ろうぜ。ゲロまみれの血まみれのゴミまみれだ。今日は弁当だな。食って帰る?そろそろ割引シールも貼られるしよ」  人のかたちをした燃えかすみたいなのの腕を引っ張った。 「れーあん」  繋げた手をぶらぶら揺らす。真城は俯いている。可愛い子ぶった日焼けの子供みたいな禍々しい隣人のことばかり考えているに違いない。 「俺ちゃん、アイツ嫌いだな」 「十河のことか」 「他に誰がいんだよ。れーあんのことこんなふうにしちまって、ムカつくよ」 「十河は何も悪くない」  逆恨みすることもできない宗教上の身内が哀れだ。 「十河のことは恨まないでくれ。2人の邪魔をするつもりは、本当になかった……」 「そりゃそうだ。ンだってれーあんは、俺ちゃんのコトなんかちっとも考えてなかったろ。2人のジャマしたくたってムリだ。何故なら俺ちゃんのコトなんか、アウトオブ眼中なんだから。頭の片隅にもなかったろ」  手を離せばそこで留まってしまいそうなほど真城は覚束ない状態だった。 「ホント、ムカつくよ」  「すまなかった。本当に、十河は何も悪くないんだ。だから、十河のことは……」 「分かってるよ、ぅるっせぇな。口開けばあのガキのことばっかでさ、他に何か言えねぇのかよ。俺ちゃんが来てくれてよかったとかさ、今日の飯は焼肉が食いてぇとか、なんかねぇの?」  うんざりした様子で勘解由小路は喚いた。 「すまなかった」 「許してやるよ。俺ちゃんは聡信大先生とは違うんでね。いっそのこと聡信大先生に手首切るな、自分の肉を切るなとでも言ってもらうか」  痩せこけて蒼褪めた麗美な顔が引き攣るのを、意外にも周りを見てしまう気質が見逃さなかった。 「それで楽になるなら、品行方正部屋に、また…………」  人の好い敬虔な信者どもは"品行方正部屋"などと"(のたま)う"が、実際は折檻をする部屋だ。今でいうモラルハラスメントを許された部屋だ。勘解由小路は鼻で嗤う。 「今度は手首切るだけじゃ済まなくなるぜ。人間なんざ飯食ってクソしてゲロもする不完全な臭ぇ生き物なんだから、完璧目指してそりがムリだなんて分かったら、もう首括るなり電車にダイブするなりするしかねぇぞ。やめとけ、暴行モラハラ合法部屋なんて。そのうち虐待も合法(オーケー)にするつもりじゃねぇのか」  彼はこの話に興味は無さそうだった。勘解由小路は内心で舌打ちして真城を引く。血に汚れた服のままスーパーマーケットには入るのは憚れ、外で待たせた。1人になると、ふと訳の分からない肌寒さに襲われ、勘解由小路はふらりと揺れた。割引シールの争奪戦のことはもうどうでもいい。息苦しくなった。どこかで座って休みたい。肌寒いくせ汗が滲み、妙な蒸し暑さに襲われる。生鮮食品を冷やす風で気持ちの悪い熱を飛ばした。何かが気に入らない。胸が苦しい。深く息をして棚に貼られた鏡に映る自分を睨んだ。割引シールの弁当を買い物かごに入れ、炭酸飲料と菓子を少々。  不快感は店を出るまでだ。真城は夜風に当たっている。勘解由小路には生温く感じられた。薬によって切った痛みも縫った痛みもないらしく、彼はぼんやりしていた。 「ホントにムカつく。買ってきたぞ。次はいいもん食わしてもらうからな」 「すまない」 「許さねぇからな。俺ちゃんの貴重な1日を無駄(パァ)にしやがって」 「悪かった」  自傷者は後ろをとぼとぼとついてきた。腕を切ったくらいで死ぬとは、勘解由小路自身は思っていない。しかし血まみれになって吐物で汚れた姿を見た瞬間、一気に何かが噴火した。心臓が破裂するようなあの驚愕はもう味わいたくない。  近くの小さな公園に寄って弁当を食った。互いに無言で、真城は缶ジュースにも菓子にも手をつけない。ナポリタンを行儀良くフォークに巻いて食べている。暗闇に消えそうな姿を塩焼きそばを突つきながら眺めた。 「帰ったら、俺ちゃんはあのガキん()寄るわ」  口の中で砂糖の強いブドウの炭酸ジュースがはじけた。 「そうしてくれ。すまないが、代わりに謝っておいてほしい」 「まったくイヤぁな役割ですわ。言っとくよ。でもなれーあん。いきなり絶交(ブッチ)するっていっても、俺ちゃんはあのガキの恋人(カレシ)だし、れーあんの悪縁(だんな)みたいなモンなんだから、あんま切羽詰まって考えなさんな。あのガキは、バカなくらい人が好いんだしよ」  真城はナポリタンの毛糸みたいなのを器に置いた。 「彼とこういうことになるのは2度目だ。何度も彼を傷付ける。今は隣人だ。前みたいにはいかない。気を遣うだろう。彼は優しいから……もう甘えられない」 「ふぅん。でも完全にギッチギチにバイならってのもあのガキは傷付きそうだけどな。ま、俺ちゃんが上手く間に入ってやるよ。あのガキが傷付いたら、どうせれーあんもまたイカ焼きするんだろ。なんで出会っちまったかね」  解けたナポリタンを真城はくるくると巻いている。勘解由小路はその姿が怖くなった。それなのに言葉は止まらない。 「出会わなきゃ良かったんだよ、オマエ等は」  塩焼きそばの味はブドウ香味の糖汁に洗われている。腹は一気に満たされた。割り箸が重い。 「十河からしたら、そうかも知れないけれど、俺は…………十河に会えてよかった」 「そゆトコが、ムカつくんだよ。メンヘラめ」  余った菓子だの缶ジュースだのを持って、真城は自宅に帰した。勘解由小路はその真横の部屋のインターホンを鳴らす。防音は嘘だと思うほど隣の声が聞こえる壁では、この呼鈴も響いているのだろう。 「十河(そごぉ)。いる?いない?」  カンカンとノックするとすぐに扉が開く。 「美人な姉ちゃんは?」 「帰ったよ」 「そぉかい。また会ったら、今日は悪かったんなって言っておいてくれやって、れーあんが」  十河はさらに扉を開けて勘解由小路を迎えた。菓子やジュースを家主に手渡す。 「ありがと」  抱かされた菓子やジュースに戸惑いながら彼は勘解由小路を見上げた。狼狽が窺える。 「おん。お前は大丈夫?」  それが当然とばかりに勘解由小路は堂々と家に上がろうとし、十河ももともとそのつもりだったのか流されているのか中に促した。 「オレは別にダイジョブ。それより、真城くんは?」 「傷縫ってピンピンしてるよ。もともと手首切ったくらいじゃ、人は死なねぇんだよ」 「う、うん。身体のほうが無事なら、とりあえず良かったケド、真城くん、何か深刻な悩みがあるのかな……?オレ、バカだし、多分何の解決にもならないケド、力になれるコトがあるなら協力する……」  ぱちん、と勘解由小路は指を鳴らした。ひょいと円い双眸を呼ぶことに成功する。 「言ったな」 「え?」 「れーあんさ、怒鳴ってごめんってよ。直接謝りにこれなくて悪いってさ。巻き込んですまんって」  十河はぎこちなくなった。緊張感を纏いはじめ、警戒心を持って勘解由小路を見ている。 「でもな、れーあん……お前のコト苦手なんだよ」  みるみるうちに十河の顔は、眉を歪ませ、目には水膜が張った。唇を噛む白い歯が上唇からわずかに見え、俯くまで3秒かからなかったかも知れない。 「泣くなよ。俺ちゃんが悪者みたいじゃん」  この能天気で無邪気を装った良い子ぶりにとっては、友人をひとり損ねた程度のことだ。そしていくら隣人関係として気拙い思いをするのだろうが、自治会や回覧板があるわけでもなく、まず無視していい点に違いない。大学でも示し合わせない限りほとんど顔を合わせないと聞いている。 「ゴ……メン」  可愛いげのあるサル、見る者によってはハムスターみたいな顔を彼は乱暴な手付きで拭いた。 「れーあん、生真面目で優しいでしょ。俺ちゃんが先に距離置けばって言ったコトだから、れーあんのコトは責めてやらないでくんない?」 「うん。別に、責めたりしない……」  涙を拭きながら彼は頷いた。鼻を啜って、憐憫の情を乞うのが上手い。 「どっちがどう悪かったって話じゃなくて、単純に、2人の相性が悪かっただけだと思うんだわ」  ぽろぽろと拭いきれない涙が白く光って落ちていく。 「れーあんがああいうコトになると、俺ちゃんが付き添うでしょ。そうすっと俺ちゃんがキレるワケ。でも俺ちゃんも好きでキレてるワケじゃないから、れーあんがああいうコトする原因を絶たなきゃって話になって。ちゃんと自分で言わないれーあんが悪いよ。単純に相性の話で、オマエは何にも悪くないからね?トラウマとかになるなよ。お前は何にも悪くないから、れーあんも自分の中の訳分からん感覚をよく理解しちゃいなかったから上手く説明出来なかっただけさ。俺ちゃんなら上手く説明できる。ただただ相性が悪かった。何億分の一くらいの確率で、偶々。だからこんなコトで傷付かないでよ」  目元を真っ赤にして十河は頷いた。忙しなく顔に手が這う。喉から哀れっぽい唸るような泣き声が漏れ出ている。 「ゴメン。色々ワガママ言ってたし、昔のことあったのに、馴れ馴れしかったかも。オレから絶交みたいなコト言い出したクセに全部忘れたみたいに、オレからまた仲直りしたいだなんて都合良すぎた。ゴメンナサイって、真城くんに、言っといて……」  彼は勘解由小路に背中を向けて(うずくま)ってしまった。気分の良い話ではない。小さな嗚咽を見下ろす。 「ま、お前にはれーあんの旦那みたいな俺ちゃんがカレシとしてちゃんと居るし、れーあんもお前のコトを憎んだり怒ったり悪く思ってるワケじゃねぇんだ。気拙く思うこたねぇよ」  十河は適当に頷いているが、涙を拭き、声を殺すのに必死なようだった。 「そごぉ」  泣かせたまま放っておいたら真城に何を言われるか分からない。何も言わないだろう。罵倒も嫌味も無いが、代わりに辛気臭い自罰と重苦しい空気を感じさせられる。そこまではっきりと見えている。 「オレ、ダイジョブだから。真城くんは1人でダイジョブなのかよ?」  真っ赤に腫れた目元と充血した眼が痛々しい。 「でも俺ちゃん、お前のカレシじゃん?」  小さくなった肩に手を添えて隣に屈んだ。 「オレがコーシローくんと仲良くしてても、真城くんは、イヤじゃない?」  つくづく十河梢春は嫌味な無邪気さを優位性を示さんばかりに振る舞う人間だ。 「大丈夫じゃね」  何故なら真城は一度に2人のことは考えられないのだ。片方がこの可愛い子ぶった悲劇のヒロイン気取りである限り。  真城を苦しめた甘えたな気性のこの成人男性は勘解由小路のほうに身を持たせた。受け止める。腹の立つ話だ。真城はこういう毒にも薬にもならないくせに勝手に毒にするあざとい良い子ぶったのが好きなのだ。

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