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 楓真は以前就いていたという美容師としての仕事も、この怪我と記憶障害のせいで辞めざるを得なかった。あるいは、気がついたら仕事を失っていた、という方が正しいのかもしれない。自分が美容師として働いていた記憶ももちろん無く、部屋に置かれたシザーセットを見ても何も感じることもない。何も実感のないまま無職になり、浩成に食べさせてもらっている状態だった。  毎日仕事に行く浩成を見送り、残された楓真は一日ぼんやりと部屋で過ごす。ここ最近では少し前の記憶を失うということもなくなり、日常生活を送る上での最低限の記憶も戻りつつあった。おかげで浩成のために少しでも役に立てるよう買い物に行ったり料理をしたり、一人で家事をこなすようになっていた。  不思議なことに、料理は元々得意だったのか迷うことなく様々なレパートリが頭に浮かんだ。浩成も「流石だな」と毎回褒めてくれる。自分の知らない得意分野に戸惑いつつも、恋人だという浩成に褒められれば、素直に嬉しいと思え幸せな気持ちになった。ただ外出することに関しては、心配からか浩成はあまり快く思っていないようでいちいち確認が必要だった。外出しているとわかればスマートフォンにメッセージが頻繁に入る。楓真はそれが少し面倒だと感じていた。それでも、心配しつつも今朝みたいに買い物を頼み、外に出ることに慣れさせようとしてくれているのも、ちゃんとわかっている。だから面倒だな、と思っても今の現状しょうがないのだと割り切ることにした。 「さて……」  浩成を見送った後、ベッドに横になりながら少しだけ眠った楓真はゆっくりと起き上がり、部屋の掃除に取り掛かる。毎日時間をかけ隅々まで綺麗に片付けながら、何か記憶が戻るようなことはないかと期待する。常に頭痛に苛まれながらも、記憶を取り戻そうと考え周りを観察した。  浩成や医者は「無理に記憶を取り戻そうとしなくてもいい」と、楓真に余計なプレッシャーやストレスを与えないよう配慮したことを言う。記憶を無くした当人は記憶の無い状態こそがストレスだと感じているのにだ。楓真を思ってのこのアドバイスはなんの気休めにもなっていなかった。  浩成という「男」と恋人同士だったというのも楓真は未だに信じ切れていないところがあった。自分の持ち物だったスマートフォンは事故の際に紛失してしまったため、新しいものを買い与えられた。これで色々調べたからわかる。少し近い気がする浩成との距離。たまに愛おしそうに見つめられ頬を撫でられることがあっても嫌悪感が湧くことはなく、むしろ少し心地よく感じる。それでも自分が「ゲイ」なのかと問われても、ピンとこないからどうにも頷けなかった。もしかしたら恋人同士と言ってもプラトニックな関係だったのかもしれない。もしくは単なる仲の良い友人関係だったのかもしれない。浩成が記憶のない楓真と早く親密になり打ち解けられるよう「恋人」だと嘘を言ったのかもしれない。  同棲していた、という割にはその痕跡が見当たらないのは、きっとそういう理由なのかもしれないな……なんて漠然と思う。何にせよ、恋人でも友人でも、楓真にとって頼れる唯一の人物が浩成であり、実際とても親切にしてくれ世話を焼いてくれているわけだから問題はなかった。  自分もここで長いこと生活をしていたのなら、心当たりのある所持品があってもおかしくないと思うのに、それらしいものは一切なかった。記憶がないから、それらがあったとしても分からないだけなのかもしれない。それでも何かしっくりこない、と思わずにはいられず、そして痕跡を探していることは浩成にはなんとなく言えないでいた。

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