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2 零れ落ちた記憶

「おはよう。楓真(ふうま)、朝ご飯できてるから顔洗っておいで」  コーヒーの匂いに誘われ、楓真と呼ばれた男はゆっくりと体を起こす。 「大丈夫? 調子は?」 「うん……いつもと同じ。あ、元気だよ。大丈夫。浩成(ひろなり)君は?」 「俺? 俺も見ての通り元気だよ」  楓真と同居をしている繁村浩成(しげむらひろなり)はいつもと変わらない笑顔を見せた。  このやりとりもいつものこと。気まずくなるのが嫌で、なんとなく浩成に合わせ笑顔を見せながら楓真は洗面所に行き、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。何か言いたげな顔の浩成と鏡越しに目が合うと慌てて顔を洗いテーブルについた。  程よく焼き色のついたトーストとスクランブルエッグ、それとサラダにスープ。朝からこれらをさっと作ってしまう浩成に感心しながら、黙々とトーストにバターを塗る。朝のニュースをぼんやり眺め、楓真は無言でそれらを口に運んだ。浩成はこれから仕事に出るらしく、手短に食事を済ませるとスーツに着替え、食べ終わった食器をシンクに下げながら楓真に声をかけた。 「洗い物、よろしくね。今日は外に出る? 出るなら買い物と夕飯も頼んでもいいかな?」 「ああ、うん。わかった。帰りはいつも通り、だね?」 「うんそう。ありがとね。あ、出る時は携帯忘れずにな。じゃあ行ってきます」 「……いってらっしゃい」  笑顔で軽く手を振り浩成は玄関から出て行った。カチャ、と鍵の閉まる音を聞き、楓真は小さくため息を吐く。  部屋に一人残され鍵を締められると、なぜか閉じ込められたように感じ息苦しくなる。落ち着きなくソワソワとしながら洗い物を済ませ、部屋に戻りベッドに横になった。  何度見上げてもしっくりこない白い天井。それでもこれが現実だというのなら潔く認め従うしかない。浩成に親切にされるのはもう慣れたとはいえ、やっぱりどこか後ろめたい気持ちになった。  楓真こと宮永楓真(みやながふうま)には浩成という男の記憶がない──  浩成どころか楓真自身、自分が何者なのか未だにわかっていないことが多かった。  気がついたらこの部屋のベッドの上。夢から覚めてもまだ夢の中のような感覚が猛烈に気持ち悪かったのは覚えている。なにがなんだか分からなくて、何も言えずに呆けていたのが今からひと月ほど前のことだった。 「おはよう。気分は?」 「いや……え? 誰? ここは?」 「うん、俺は浩成。ここは俺たちの家だよ」  浩成との最初の会話。  浩成に言わせると、大怪我をした楓真は退院後実家に戻り、それから恋人である浩成と共に同棲していたこのマンションに戻り生活を始めた、ということらしい。 「心配していた君のお母さんともちゃんと話はしてあるよ。記憶の混濁は時間の経過で回復するだろうと医者も言っているしね」  慌てずのんびり記憶が戻るのを待てばいいと浩成は言った。できるだけ以前の当たり前だった日常と同じに生活をし、自然に記憶が戻るのが理想なのだと浩成は言う。  大怪我とはいったい…… と軽く痛む頭に手をやると、まだ包帯が巻かれていて混乱が増した。今でこそ落ち着いてはいるが、この頃は眠るたびに少し記憶が混濁し、前日のことなど忘れてしまうことも多々あった。  自分自身が何者かわからないことや、すぐ前のことを忘れてしまうことなど、楓真は堪らなく怖かった。記憶が落ち着いてきた今では恐怖心は薄れたものの、それでも「恋人」だったという浩成との記憶や怪我の前の自分の行動、そもそも自分が何者なのかは分からないままだった。

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