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1-コンクリートジャングル(1)

「あ"ーっ!クソ、なんで俺がこんな……、クソ、締まりゃしねぇ、このカス……」 個室の一つから、低く毒づく声が絶えることなく流れてくる。 ここは会社のトイレ。 俺は腕を組み壁に寄りかかってそれを聞きながら、今にも声をあげて笑いだしそうになるのを堪えていた。 「琉夏(るか)、まさかウエストが閉まらないなんて言わないよな?」 「違うわボケ!ネクタイが結べねぇんだよ!」 ふっ、ふふふ。 ああだめだ、彼をスーツに着替えさせているだけで、こんなに楽しいなんて。 できることなら俺がこの手で着せ替えてやりたかったのだけれど、断固として断られてしまったから、こうして外で待っている。 ただ待っているのも暇だし、自己紹介でもしようか。 俺の名前は西嶋明人。 職業はごく普通のシステムエンジニア。暢気な実家暮らしの二十九歳、独身だ。 強いて普通じゃないところを挙げると、見た目と副業だろうか。 あ?性格?腹黒?んなわけないだろ馬鹿が。 ちっ……駄犬が紛れ込んでるな……。 あー、すまない、なんでもない。話を続けよう。……母親がスウェーデンから来ているので、髪も、目の色も、顔立ちも日本にいると目立つ部類に入る。 胸まであるプラチナブロンドの髪を右耳の下で束ねているのが一番目につくところだろう。 顔立ちは両親の良いとこ取りをして、繊細だが華やかな造り……だと言われることが多い。 アイスブルーの瞳は自分でも気に入ってる。 もう一つの副業というのは、その母親にも関係していて……俺の両親は服飾デザインをやっている。 昔は両親とも大手アパレル会社に勤めていたのだけれど、仕事の片手間に、当時生まれたばかりだった俺に、服を作っては着せるのを楽しんでいた。 俺が五歳の頃だったか、両親は会社を辞めて、『Clementine』という名のブランドを立ち上げた。 扱うのは男の子向けの服飾品。つまり、今まで細々と作っていた俺用の服を商品として扱うようになったってわけ。 もちろん広告塔は俺。そもそも俺のために作った服なのだから、似合わないはずがない。 俺の成長と共に扱う服も年齢を広げていき、今は二十代後半男性をメインターゲットにして商品を展開している。 ……正直なところ、モデルの仕事はあまり好きじゃない。 表情のないカメラのレンズに向かって笑顔を作るのは少し苦手だから。 でも、作った服を着て俺が笑顔を見せると、両親は手放しで喜んでくれる。 それだけのために副業としてモデルを続けている。 俺なりの親孝行みたいなものだ。 おや、いつの間にか呪う声が聞こえなくなった。 「琉夏、着れたか?」 「いや」 「じゃあドア開けろよ、手伝ってやるから」 「やなこった」 ドアを軽くノックしても、否定の声しか上がらない。 「そろそろ戻って仕事しないとマズイだろ?意地はるなよ」 そう言ったら、かちりと鍵が解除されてドアがゆっくりと開いた。 同時に何か塊がぴゃっと飛んできたので、驚きながらもとっさに受け止めた。 「着れるわけねぇだろが。やってられるか。てめえで責任とれや」 個室の中で便器の蓋に不遜なくらい堂々と腰かけていたのは、野生の虎を思わせるような、視線だけでこちらを威嚇してくる男だった。 ジャケットを壁にかけて、後はネクタイを締めるばかりの状態で、なぜか開き直ってワイシャツのボタンが二、三個外れている。 「ネクタイは……どうしちゃったんだい、これ」 「知らん。勝手にそうなった」 はだけたシャツの間から覗くセクシーな首筋に見惚れてしまう視線を無理やり引き剥がし、さっき受け止めたネクタイを改めてよく見ると、結び目が三つできていた。 「意外と手先は不器用なんだね、か「可愛いっつったら殴る」」 「そんなに不貞腐れなくてもいいじゃないか。人には得手不得手がある」 「向き不向きってのもあってな、俺にスーツは向いてない」 「諦めるには早いよ琉夏。ほら立って。ネクタイ締めてやるから」 ネクタイの結び目を解いて、惜しいけれどワイシャツのボタンを上までとめる。 ネクタイを締めてやって……せっかくの琉夏とのゼロ距離を失うのが惜しくなり、ネクタイを微調整する。 「いつまでやってんだ、もう充分だろ」 「ん?そうかな」 「充分だ。戻る」 俺の気持ちを知ってか知らずか、彼はそっけなく言い捨てる。 指に引っ掛けたジャケットをばさりと背負って、俺に広い背中を向けた。

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