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第1話

 風見鶏(かざみどり)のNさんって知ってる?  黒い髪、日に焼けていない白い肌、大きさはあるが吊り気味な目は猫を思わせる。田川(たがわ) 到流(いたる)は赤いストローを齧って首を振る。ぶくぶく、と黒褐色の炭酸が白ずむ。対面の女は彼の反応に話題を放棄した。 「なんで」  沈黙させるのは好きだったが、沈黙されるのは嫌いだった。興味はないもののつまらないこだわりによって田川は続きの話を促す。"昼職"の決まった彼女は「何となく訊いただけ」と吐き捨てる。以前と比べ爪に長さはなく、装飾もなかった。ただペールピンクが塗られている。髪色も金髪の巻毛から肩までの暗い茶髪になっていた。そういう顔をしていたかと彼女の顔立ちを凝らしてみると、人の顔というものの認識が崩壊する。  すごく、八方美人っていうかサ。そこまで人に嫌われんのヤなの?みたいな。中林とか、中川とかいったかな。ナカ…なんとかさん。  女はスマートフォンにも飽きて暇になったのか伝票を捲った。事務仕事に就いたと聞いている。人工爪(スカルプチャー)を失った丸い爪は軽そうだ。  いい人なんだケド、なんか、おっさんなりの気遣いっていうか。結婚してんのかな?アンタが入る前に辞めちゃったんだっけ?ダブってない? 「ナカなんとかじゃ分かんない」  アタシだって覚えてないんだもん。今の狒々爺(ヒヒじじい)じゃなくて、あの人が店長になればよかったのに。なんかお父さんが病気になっちゃったんだって。  田川は自ら訊いておきながら、ふぅん、へぇ、と気の抜けた相槌をうつ。よくある話だ。家族に振り回される人生というものは。月並みだ。それこそ世にありふれたラブソングのように決まりきっている。靄のかかった気分の扱いには長けているつもりだった。考えない。終わらせる。伝票をいじり終えた指が彼女の膝に戻る。 「払うよ、オレが。転職祝い」  久々の連絡だった。彼女は以前アルバイトをしていたキャバレークラブの女性従業員(キャスト)で、田川はそこのボーイをしている。時間帯と時給に惹かれた。フルーツをカットし、盛り付ける。時にはキャストの機嫌を取り、時には厄介な客と揉めることにもなる。彼自身が客として夜の街に出歩く趣味は特になかった。  はぁ~?転職祝いならもっといいところにしてよ。  前のアルバイト仲間は自分の飲んだカプチーノとチーズケーキの代金を置くと簡単な挨拶をして帰っていった。応えるように田川、ぶくぶくッとドリンクを鳴らす。それで結局、何故ここには関係のない"風見鶏のN"の話が出てきたのかは分からずじまいだった。 ◇  "風見鶏のN"と会うのはそれから間もなくだった。  ゴミを捨てにいった田川は、裏口から出てくる背の高い、肩幅のある、少し疲れたような風貌の男と鉢合わせる。中瀬(なかせ)とか、長瀬とかいった。田川はシフトや役割ゆえにあまり関わりがなかったが、スタッフルームなどでは何度か顔を合わせたことはある。しかし久しい心地がした。田川が彼に気付いたことを、彼もまた気付いたようだった。人の好い、どこか媚びた感じのする疲れた笑みは、29とか30と噂されていたこの男を老けてみせた。 「おはようございます」  時間帯にそぐわない挨拶は業界の暗黙的なルールだった。田川はぼそぼそと呟くように、年齢も立場も上の男に軽く会釈する。 「……おはようございます」  中瀬といったか中江といったか非常に怪しい男は照れ臭そうに口角を上げた。 「制服を、返しに来てね。今更だけれど………」  制服を返しに来た。このアルバイトの前に、スーパーで働いていた。その時も辞めた後に制服の返却を求められた。田川は確かな情報を得るために小首を傾げた。 「もしかしたら、まだ………なんて未練がましいけれど、そろそろ決着しなきゃと思って」 「どういうことです」  所在なく、空になったプラスチックのゴミ箱を揺らす。夜の街の悪臭の一端を担う。煌びやかな看板と建物の光の陰では随分と大きく育ったネズミも徘徊している。 「ああ、恥ずかしいな。聞いていないかい?辞めるんだ、ぼく」  柔和な笑みにはやはり媚び諂った色がある。 「そうなんですか」 「うん。頼むよ、これから。このお店を。辞めてしまうぼくが言っても…ってところだけれど」 「給料分は働きます」 「ははは、冷めているな。今の子って感じがする」  まるでここに留まりたがるように、中瀬といったかもしかすると若瀬といったか曖昧な男は話を続ける。この時間にも給料が発生し、口煩い先輩はゴミ箱を待っている。否、おそらく待っていない。彼等も談笑をしているに決まっているのだ。 「おいくつなんです」 「いくつに見える?」 「そうですね、35よりは若いんじゃないですか。32」  田川は面倒臭そうにゴミ箱を揺らして男の脇にあるドアに一歩近付く。辞めたとはいえ目上だったという事実がいくらか無愛想な彼に遠慮をさせる。多少の落胆もあった。この接待飲食店を訪れる客と大差のない、喋り好きなのだ。 「30だよ」 「5歳しか変わらないんですね」  早く戻らせてくれとばかりに、もう一歩距離を詰める。 「5歳、か」 「生まれたばっかの赤ちゃんが小学生になるくらいですね、確か。違いましたっけ」  素気無く、しかしある程度返答として相応しい中身を持たせ田川はとうとう男の脇を通った。スタッフオンリーの裏口から入り、扉が閉まる前に店を辞めた男が振り返った。 「長話に付き合わせてすまない」 「次は表から入るといいですよ」  田川はそれから厨房に戻り、生臭く、洗ったそばからすぐに汚れるゴミ箱へ袋を被せた。そしてふと、"風見鶏のN"の話を思い出す。 「センパイ」  喋り散らかす他のボーイたちが田川に注目した。 「風見鶏って何なんすか」  それはからあげだ、と1人が茶化した。それは若鶏だと1人が訂正し、今日はからあげ弁当だ、とまた1人が好き勝手に言った。この歓楽街から3分もしないところに飲食街があり、からあげ専門店が先日オープンしたばかりだった。話題はそこへ移っていく。田川も特に気にしなかった。  媚びた笑み、引き延ばそうとする会話、疲れた顔。それでいて、その背中は広く、同じ方向を肩越しでみたときの光景。青い空と白い雲、はっきりした紺碧の一直線と、緑の生い茂った小道。アスファルトから高く、空を飛んでいるような。自転車で追うのだ。白いタンクトップとハーフパンツの家族を。  嫌な思い出だ。両手にからあげ弁当を下げ、臭い都心の蒸れた繁華街を駆けていく。ここは誰もが個人主義で、そして干渉しながらも、切った貼ったの利く土地だ。いつでも切れそうな先輩たちを腹立たしく思いながら走る。晩飯は食い逸れなかった。先輩の渡した紙幣の中に今晩の糧が含まれている。スラックスに揃いの胴着(ベスト)と白のシャツは多少の目を引き同時に職を自己紹介してしまっていたが、それもこの地では浮かない。夜が隠し、看板が炙り出し、人混みが掻き消して、夢と快楽に酔わされ、そして朝も、彼等の行いを忘れてしまう。  5人分のからあげ弁当は重かった。ボーイたちが各々注文していたものを持っていく。激しい運動のあとは腹が減っていても食欲は消え失せた。  田川さぁ、さっき言ってたのって、事勿れ主義の中瀬(なかせ)サンのこと?  仕事はできるが社会的にみるとろくでなしとしか言いようのない先輩のなかでもとりわけまともな部分の目立つ1人が椅子で息切れを起こしている彼に訊ねた。田川は手を出して返答までの猶予をもらう。  日和見大好き中瀬サンなら今日来たよな。制服返しに来てたわな。そろそろ手に職付けんのかな。  弁当に夢中になっていた先輩が言った。  てっきり店長の座を狙ってると思ってたけどな。変に意識高いっつーか?おれたちは別にそこまではこのバイトに打ち込む気ねぇんだけどな。  また別の先輩がペットボトルを開けながら口を挟む。  親父さんが倒れたとかで、実家継ぐんだってさ。あれじゃ親父さんにペッコペコなんじゃない?  割りかしまともな先輩が言った。そこからまた、農家だの、工場だの、旅館だのと様々な憶測が飛び交う。田川はその会話の横でぼんやりと、黒ずんだ換気扇を眺めていた。  家族のそういうの、ダリぃよな。おれン()もう親いねぇし、そういうとこは楽だわ。  でもえらいよな、お前妹いるんだもんな。  そりゃ仕方ねぇよ、まだ高校生だしよ~ ◇ 『――お体には気を付けて』 『――お体には』 『――お体に…』  布団の中で何度か繰り返す。その一文だけはよく覚えている。ありがちな結び方で、体調になど気を付けようがない。体裁を気にしている。体裁を。いい父親であると。世間的にはいい父親にはなれなかった自分を、紙に記し、自身の中ではいい父親であろうとする。父親が不倫相手を殺害したのは20年近く前のことだった。一方的な手紙がその間何通届き、何回読んだのか、10通はきていた。そう大きくはない便箋の2枚か3枚を1度読めば事が足りる。季節のことから始まり、決まりきった挨拶で終わる。好きだよ、会いたい、愛してる。守りたい、傍にいて、放さない。ラブソングと構図は同じだ。気付いてしまった。中間部だけ、ラブソングと揶揄するには妙に臭い。  父親は同性の不倫相手をその手で殺したのだ。文字通り、素手で。性行為の最中、首を絞めた。どこかで聞いた話だ。寄席でも聞ければ、映画にもあり、小説でも珍しくない。ありがちなことしかしない、よくいる、しがない男。不倫をしていることも、その相手が男ということを除けば。世間では、「ホモ野郎」「カマホモ」というらしかった。田川はその単語を口にできなかった。人殺し、同性愛の変態、不倫した男の息子になった田川は母方の祖母に預けられ、その意味を問うと、柔らかく皺の寄った目尻から涙が落ちていった。その祖母も10年ほど前に死んでしまった。母とは仲が悪いわけではなかったが田川のほうから距離を置いてしまう。父親は母親を愛していなかったのだ。子供は両親(ふたり)の愛の結晶らしい。しかし田川は知っていた。愛も恋も要らなかった。男と女の性交で愛の結晶とやらは簡単に作れるのだ。この夜の街でも、愛の結晶というものを作りかけ、無かったことにしていく。  冴えた思考に眠れなくなった。水を飲む。暗い部屋は6畳1間。ユニットバス。家賃は5万円。駅から15分。築23年。特に不便は感じなかった。大都会の喧騒もどこか遠い閑静な住宅街で、いつもは忙しない救急車のサイレンが聞こえないときは生まれ故郷を望むことがある。海の見える町だった。観光客もそれなりにいる。栄えた場所には水族館があり、夏場は特に人が多かった。5年ほどしか暮らさずとも帰属意識はそこに根付き、そこの活気と潮騒、輝いた大海原をまだ覚えている。いつ開けたのかも分からないペットボトルの水をもう一口飲んだ。  媚びた笑み、引き延ばそうとする会話、疲れた顔。 ――お体には気を付けて。 ◇  飲食店通りを歩いているとガラス張りの喫茶店の片隅にあの男が1人でいるのが見えた。田川が気付いたことに、その男も気付いた。外が明るいためか店内は翳ってみえた。年齢よりも老けた風采は日が高いうちにも変わったところがない。田川は立ち止まってしまったことを後悔した。スラックスも揃いのベストも白いシャツも身に付けていないというのに、相手は彼を田川であると断じて手招きをしたのだ。制服を返却した時から応じる必要はないように思えた。しかし上手い躱し方を知らない。言い訳と正当化を考えるより入店してしまうほうが楽だった。店員がすぐにやってきた。待ち合わせしていると告げた。店の隅の隅、観葉植物と相席している虚しい男は親しげに手を振った。 「忙しかったかい?これから」 「今帰りです」 「何か用が?」 「ちょっと服みて、本買って、帰るところでした」  中瀬(なかせ)で間違いなかった男はスタンド式のメニュー表を田川に寄せる。それは自然な仕草で、受け取ってしまうとこれまた自然な流れでメニューを眺めていた。真剣に選びかけたところで我に帰る。顔を上げた。媚びた笑みと疲れた顔と、やはり30には見えない退廃的なものがある。 「好きなものを頼んでいいよ」 「じゃあ、コーラスペシャルサンクストロピカルパフェ頼んでいいですか」 「いいよ。たまには、ね。君と話すのも、最後になるかも知れないし」  どういう意味かを問う前に、疲れた顔をした男の疲れて青白い指が呼び出しボタンを押した。爪の辺りに絆創膏が巻かれている。近くの店員の溌剌とした声が聞こえた。コーラスペシャルサンクストロピカルパフェが注文される。 「甘いのが好きなんだね?」 「はい」 「コーヒーとか飲むのかと思ってた」 「飲めなくはないです。飲みたくないだけで。眠れなくなるんですよ。なりませんか、昼間からコーヒー飲んで」  媚びた笑みが深まる。風見鶏、事勿れ主義、日和見、それでいて柔和な態度のまま口煩いところがあるという。ただの傷付きやすい神経質なのではないかと田川は疑った。 「眠れなくなるなら朝昼以外にいつ飲むんだい」 「分かりません」  何故誘われたのか分からない。窓から入る光が中瀬の淡い色の黒髪を透かす。目も色素が薄いようだ。 「ふと疑問に思ったんだけれど、君、ぼくのこと分かるよね?」 「中瀬サン」  これで違っていたら、今後先輩たちの対応を考えるところだった。媚びた笑みを貼り付けたままの口元が解れる。本当に笑っている。それに近い。直感的なもので分かった。 「ははは、よかった。誰かも知らないで、来ちゃったのかと思って」 「この前話しましたよね。でもなんでですか。オレと中瀬サンって、そこまで関わりありませんでしたよね」  曇った結婚指輪でも似合いそうな指がマグカップを持ち上げた。飲むのが先か、答えるのが先か、賭銭もなく賭ける。 「ぼくは君を知っているからね。履歴書もみたし、面接もしたけれど……覚えてないか」 「ないですね」 「そうか、そうだね」  再び機嫌を窺うような笑みが戻る。そしてカップが傾けられた。 「中瀬サンは甘いのは、どうなんです」 「ぼくは……普通だよ」 「それならパフェ、半分食べられますよね」 「面接の時も、君の黙っていそうでちょっと強気なところが、今でもすごく印象に残ってる」  今度は田川が苦笑した。苦笑というよりも鼻で嗤っている。 「ただ無愛想なんです。これでレジのバイト落ちてるんですよ。それからホールスタッフも」  実際のところ、何が理由で不採用なのかは明言されず、問い合わせでもしない限り匂わされることもないだろう。田川の推測であり、証拠はないが、彼の中では固かった。 「随分と色々な経験をしたんだね」 「他にやることがありませんから。金を稼いで、稼いだら稼いだで使う間もなく、きっと年取ってぽっくり逝くんですよ。お金なんぞはあればあるだけいいですけれど、いざ大金を使おうとすると、なかなか目的(あて)――」  話しているとき、中瀬が鼻を掻いた。その際に袖から腕時計が見えた。ふと脳裏に銀の腕時計が過ぎる。父親が着けていた。手を繋ぐと下から覗けたのだ。 「どうかしたかい?」 「いいえ。いや、何でも」  田川は(しお)らしくなって首を振った。そのタイミングで、コーラスペシャルサンクストロピカルパフェが届く。百合の花を上向きにしたようなガラスの容器には黒褐色の液体に浸されたバニラアイスが入っている。その上にホイップクリームとメロンとパイナップル、みかんを中心に細々とフルーツが盛られている。 「すごいね、それ」 「半分食べるんですよ、中瀬サン」  長さのあるスプーンをパフェに突き入れる。中瀬もコーヒーに付いていたスプーンをおそるおそる生クリームに伸ばした。 「オレ、ド田舎の生まれなんです。家庭の事情で、ばあちゃんと暮らしてて。あんまこういうの食べられなかったから反動ですね。でも、ばあちゃんの手料理美味しかったから相殺(トントン)です。どこの料理食べても、今度はばあちゃんほどじゃない」 「ド田舎というと、バスとかもないような?」 「ド田舎は誇張し過ぎでした。電気も通ってます。電車も1時間に2本くらいありますよ」  黒褐色の炭酸飲料に溶かされていくバニラアイスとホイップクリームの間のコーンフレークをざくざく鳴らす。 「ところでさっきの話に戻すんですけど、オレと話すのは最後かもって、どういうことなんですか」  これから樹海にでも行くのかと、問いかけてやめた。疲れた風体の男に妙な選択肢を与えかねない。話を穿(ほじく)り返したことについても口にしてから悔いた。 「ぼくなりの田舎に、帰ろうかと思って」 「ド田舎なんです?」 「都内だよ。区内じゃないけれど」 「結婚ですか、やっぱ」  ありがちな。身を固めろと。かまととぶったが内容は知っている。しかし本人の口から聞いていない。与り知らぬところで噂があったというのは良い気がしない。田川の中ではそうだった。大体は尾鰭背鰭腹鰭が付くのだ。やがて泳ぎ出しかねない。経験からしてそうだった。父親が同性愛者ということは、その息子は母親の不義の子であるとさえ陰口を叩かれる始末だった。 「父が倒れてね。電気屋をしているんだ。今は元気にしているし、別に気にしなくていいとも言っているけれど、電気屋の前は修理工、その前から何代も続いた家だから………」 「そうなんですか。大変ですね」  月並みな返答をした。無難だ。「中瀬サンの人生です。継ぐ必要はないでしょう」。噛み砕かれたコーンフレークと沈んでいく。 「実家を顧みないで、好き勝手やってきたからなぁ………後ろめたさもあるんだ」 「そういうものなんですね」  半ば空返事になっていた。「どうして親に自分の人生の足を引っ張られなきゃならないんですか」。バニラアイスと溶けていく。 「ごめんね。つまらない話だった。いけないね、歳食うと。話が長くて、つまらなくて、それなのに感傷的だ」 「30じゃまだ若いですよ」  嫌な話を振った。本音をパフェで誤魔化していく。 「25歳に言われるのなら悪い気がしないよ」 「ちなみになんですけど、もし子供ができたら、継がせるんですか。たとえばどこかで上手くやっていけてても」  溶けかけたホイップクリームに挿さったメロンを齧る。大した甘さはなかった。中瀬のスプーンは鈍く光って止まっている。 「多分……させない。ぼくでやめるよ」 「老害にならなきゃいいですけどね」 「なるかな、ぼくは」 「若い頃に何か不満を溜めてたままなら、なるんじゃないですか」  ざくり、とコーンフレークが虐待される。破片とともに下からバニラアイスが掬われた。田川の嫌いな類の沈黙だ。 「ぼくはさ、自分のお店、持ちたかったな。キャバクラとか喫茶店とか、とにかくぼくの作る空間に人が溢れてて、ぼくの考えたメニューをみんなが食べててさ……壁はこんなので、お店の名前は、とか………よく考えてた」  媚びた笑みが消え、代わりに神妙な顔をされる。田川は黙ってパフェを削る。黒褐色の炭酸飲料がかかったところを掘っていく。 「いつか夢は終わらせなきゃいけないよ」  肩車と広い空、近そうで遠い横一直線。逃げ水を起こすアスファルトと茹だるような野原。イタルノユメガカナウトイイナ。 「疲れちゃいましたか、楽しいところだけかき集めていくの」  スプーンに纏わりついたアイスをキャンディのようにして舐めた。 「夢は毒ですよ。たまに思います」  スプーンをパフェに突き刺し、着色料に染まりきったさくらんぼを口にする。 「今時の子って感じがして、おじさん……ちょっとぞくぞくしちゃった」  困惑気味に中瀬は苦笑する。それから彼は田川に夢はないのか訊ねた。  「ないです」  何もない。満足している。コーンフレークをバニラアイスに埋めていく。 『――お体には気を付けて』 『――お体には』 『――お体に…』 『――到流に会いたいです』 『もし、許されるのなら――』 「ないです。何も。オレには」  中瀬の目はいくらか同情的だった。嫌な眼差しだ。腕時計も気に入らない。 「探せばあるよ、きっと。見つからないだけさ」 「見つけて葛藤するなら、やっぱり夢って毒ですよ。甘くて、やめどきが分からない」  また対面の男は媚び諂った、事勿れ主義で日和見の風見鶏になっている。

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