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第2話

◇  深夜にも関わらず、物好きに中瀬は田川を待っていた。中途半端な別れ方をしたのは覚えている。粘こく絡み付く靄を振り払うことに必死で、中瀬を蔑ろにした場面も幾度かあった。それでいて中瀬は田川との接触の機会を窺っているらしかった。コーラスペシャルサンクストロピカルパフェの代金1180円を返せと言われても仕方がない。その件についてはまるきり忘れていたが、顔を見た途端に思い出す。 「すみませんでした」  相変わらずの疲れた顔は田川が驚かないことに驚いているような意外げな表情をみせる。 「え?」 「この前の…」  分かっていなそうな三十路男に説明が面倒になると「喫茶店で雑な対応をしたことです」と語気を強めて追撃した。 「それは、いいのだけれど……」 「進展があったんですか」 「ないよ。ただ、心配になって」 「将来が?」  中瀬に正面から捉えられる。夜だと彼の瞳や髪色が薄く色の白いことは気にも留めなかった。待っている先輩もいなければ、片手にゴミ箱も無いせいだ。 「違うよ。君のことが」 「なんでです」 「様子がおかしかったから」 「そうですか?」  田川は(とぼ)けて飲食店街のほうへ歩き出す。 「相談に乗るよ。この前は無理矢理付き合わせちゃったし」 「相談するようなことは何もないです」 「何も?」 「きっとあの時は、パフェで腹を壊していたんですよ。気にしないでください………いや、気にしますよね、酷い態度取ってた自覚はあるので。腹が痛かったんです。きっと。確か」  立ち止まる。振り向いた。半歩後ろをついてくる中瀬も止まった。そして彼は首を傾げた。  「言い忘れていたことならあります」 「なに?何でも話してよ」 「ごちそうさまでした。言えていたかどうかも忘れました」  媚びた笑みが引き攣る。柔和な調子を崩さないが、苛立ったているのだろうということを田川は直感的に察した。それが、面白くなる。 「いいよ、そんなことは。ぼくが誘ったんだし」 「オレに気持ちを吐露、つまりあのなんとかパフェみたいに、気持ちを吐露とろトロピカルして、中瀬サンはちょっとばつが悪い感じなんですね」  眉が訝っている。田川は肩を竦めた。 「空振りさせてすみませんでした」 「そのことはいいんだ。ぼくが勝手に待っていただけだし」 「客だったなら出禁でしたね」 「………そうだね」  距離が空いていく。見えない、存在もしない何かに圧迫されている感じがある。夜眠れなくなる妄想や、人の会話から逃れたくなる連想ゲームに囚われたとき、襲ってくるものに似ている。飲食店街の方角に歩いていたが大通りに出る直前になってまた中瀬を顧みる。街の旋律を崩し、誰かとぶつかった。しかしよくあることで、怒りも湧かず、それが暗黙の了解で、自衛であり、時にはこの街の娯楽と成り下がれども、己の安売りに他ならなかった。 「飲みませんか。この前のお詫びもかねて、1、2杯。オレが持ちますから」 「そういうつもりはないけれど、君と居られるなら、乗ろうかな」 「決まりですね」  店は田川が勝手に決めた。都会にありがちな、星の数ほどある個人経営のバーで、星の数ほどあれども、この連れの男には値段や雰囲気とはまた別に手の届かない、やはり星という比喩で間違いのない店だった。 「こういう感じのお店がやりたいんです?」  残酷な問いをする。極度に軋轢を避けようとする顔は田川のことは見ていなかった。赤みのある間接照明に炙り出された瞳は店内を見回している。その横顔を認めてしまうと田川は口を噤んだ。同時に不愉快が起こる。不愉快だ。目指す夢がありながら、手放そうとするのは。第三者からみると腹立たしい。不満だ。頭に来る。 「こんな都会にあるのに、隠れ家みたいな趣があるお店だね」  あまり木材の加工されていない柱は最低限の塗装で、屋内にそのまま樹木が聳えているようだった。天井はそう高くないが暗さによってあまり狭いとは感じられなかった。海賊船を思わせる網や樽、縄の飾り付けがどこかテーマパークのレストランを思わせたが、店内を練り歩く従業員の服装や人々の会話、取り止めのない貼り紙などは浮つかない程度の生々しさもある。 「パスタは洗面器みたいなお皿で出てくるんです。紅茶なんかは金魚鉢で」  例え話のつもりだったが本気にしたのか中瀬は目を丸くした。 「お酒はここで頼んだことないですけど、ちょっと腹減ったんで。中瀬サンは何か食いました?」 「うん。ぼくはもう済ませた」  通された席も、輪切りにした木材を繋げたような歪なテーブルで木目や小さな凹凸はそのまま残され、艶出しが塗られている。電球を吊るした照明器具が非常に雰囲気に合っていた。メニュー表を開き、会話を閉ざす。しかし日和見主義の事勿れ主義、風見鶏と揶揄されながらも人懐こさのある疲れ顔の男は話を振った。 「ここにはよく来るの?」 「そんなには来ません」  ラミネートされた品書きの上辺から覗き、目が合った。出てきた水を口にする。この店は気に入っていたが、水に柑橘類の皮が浮かんでいるのは好かなかった。酸味が傷んでいるような錯覚を起こす。釣られたように中瀬もライムの浮かんだ水を飲む。澄ました顔は、水から滲む風味や酸味を気にしたところがない。突然、自己主張したい衝動に駆られた。 「オレ、炭酸水とかトニックウォーターとか、はっきり味しないのに手が込んでる水ダメなんですよ。中瀬サンは?」 「ぼくは好きというほどではないけれど、苦手というほどでもないかな。お洒落だとは思う」 「傷んでないって分かってるんですけど、本能が傷んでるって判断しちゃうんですよ」  中瀬はおかしそうに笑う。それが田川には分からなかった。 「なんですか」 「今日、ちょっと迷ったけれどやっぱり来てみてよかったなって思って」 「他の人にも会ったんじゃないですか。気拙くないの」  舌に合わない水を置く。結露してぼやけた中で氷が揺れ、ライムの皮が泳ぐ。 「気付かれなかったよ。ちょっと複雑だね」  彼はまた笑った。媚びを加えるのを忘れている。 「何頼みます?オレもう決まったんで、あとは店員呼ぶだけなんですが」  呼鈴ボタンに指を掛けると、中瀬は焦ったように自分のメニュー表を開いた。適当に3種類ほどの酒と肴を告げられる。遠くでブザーの音がした。 「大丈夫なんですか。多種類飲酒(ちゃんぽん)なんかして」 「大丈夫だよ。君も飲むもんね?田川くん」 「そこはかとなくアルハラの香りがしますね」  注文した厚切りベーコンとハンバーグのカルボナーラが来るまで田川は相手の出方を見ていた。対面の男はメニューを熱心に読んでいる。彼なりの経営論というものがあるのかも知れない。語られたところで得意の空返事と空相槌しか持ち合わせてはいなかったけれど。  結果、中瀬は酔った。厚切りベーコンとハンバーグのカルボナーラが850円、酒類と酒肴が3000円近く、前回の詫びは随分と高くついた。中瀬は払うと言い張り、そのつもりだったと田川に絡んだが、結局は全額払った。たまにはこういうのも悪くなかった。家賃、光熱費、税金と、季節が変われば何年かおきに被服費がかかる程度でこれという金の掛かる趣味はない。賄いが出る日や先輩の機嫌が良い日は食費も浮く。  自分よりも図体の大きい酔っ払いを肩に負い、繁華街を抜ける。 「ごめんねぇ、田川くん。置いていっていいよ、ぼくのコト………」 「言う方は簡単ですけど、やる方は大変なんですよ、それ」  人混みを歩くには迷惑になりかねず、立体歩道に上がるため、階段も一段一段中瀬を待った。 「そうだねぇ……」 「別に気にしなくていいのに勝手に人目は気にしちゃうし、自分のプライドみたいなのと折り合いつけなきゃなんないし、でも本当は面倒臭いし。言うはヤスシするはキヨシですよ」 「何それ?」 「何でもないです」  下の人混みの半分よりも少なくなった立体歩道に上がってすぐにあるベンチで中瀬を休ませる。酒の許容量が分からない若者のつもりなのだろうか。酒を許されて10年も経っておきながら。 「お酒、弱いんですか」  田川も同じ量飲んだはずだった。むしろ酒の進まない中瀬に代わって空にしたくらいで、あの店で出る酒の強さなど高が知れている。疲れた顔のとおりに実際疲れているか、気を遣って空き腹だったのだ。田川は蹲る中瀬を冷たく見下ろした。彼はこくりと頷いた。 「お酒、苦手だけど、憧れだったんだ……だからね、みんなが美味しそうにお酒飲むの見てるの、好きだった。いいなぁって。楽しそうだなって……」 「で、実際飲んだ中瀬サンは気持ち悪そうなんですが」 「うん……そうだねぇ。家系的にお酒、強くないんだ」 「危うく人殺しになるところでしたよ」  咄嗟に出た冗談に自身で固まり、そして嘲りに変わる。 「大丈夫。そこまでじゃないよ。ぼく、次男なんだけど、お兄ちゃん、お兄ちゃんっていうか兄貴、急性アルコール中毒で死んじゃって……」 「急アルで?」 「だから父さん――親父はぼくがバーとかキャバレーでバイトしてるのもよく思ってなかったみたい。まだ60くらいで、今の時代じゃまだまだ若いけど、自分の親ってなると同じ歳の人たちより随分と老けてみえてさ。心配かけてるよなぁ」  田川は黙った。都会の人々に温められた気持ち悪い夜風が吹く。繁華街付近の風は何かが臭い。浮浪者の体臭や、酔っ払いの嘔吐物、ネズミとカラスが散らかす生ゴミ、それらではなく、嗅覚は拾いきれない曖昧な匂いを運んでくる。 「ごめんね、変な話。別に湿っぽい話じゃないんだ。兄貴は、自業自得って言ってすぐに割り切れるものじゃないけど、病気でも事故でも事件でもないってなると、自分でもびっくりするくらい、なんだかすんなり、受け入れられちゃって。だからつまり、自損事故みたいな」  彼は顔を上げた。酒に呑まれた者特有の人懐こい、それでいて腹の底が見えない緩んだ笑みがある。田川はカバンに放り込んでいたいつ買っていつ開けたのかも分からないペットボトルを渡す。砂漠の旅人よろしく中瀬は美味そうに水を飲む。 「酔いが覚めたら忘れてください。オレは殺人犯の父親に会ってもいいと思いますか」  明日には忘れる。忘れていなかったら(とぼ)ければいい。それでいて何かが後ろめたい。 「いいんじゃない。何がダメなの」  酔っ払いの軽率な発言は顔面を殴打されるような衝撃があった。何がダメなのか、理由を挙げたらきりがない。それでいて、単純な他者からの返答はすんなりと高台の淵から突き飛ばされるような威力がある。 「別に、家族だからって無条件に仲良くする必要はないと思うけれど………いいか悪いかっていうなら、ぼくは、いいって思った。だって悪いって理由がすぐに浮かばなかったし、今も浮かばない。お酒飲んだから、かな」  彼はペットボトルを返した。田川は受け取らない。 「お酒飲ませてないと言いたいこと言えないの、オレヤバいですね」 「でもそういうお仕事で食べてたし、ぼくは。君も含まれる?」  中瀬はまた水を飲んだ。 「引かないんですか、オレのこと」 「お酒弱い家系で、急アル起こした兄貴がいるのに、ちゃんぽんしたぼくを、田川くんは引いた?」 「不思議と引きません」 「ぼくも、不思議とっていうか、なんか、そうなんだなぁって感じで、知らなかったことだけど、驚きはないな。家族っていっても結局他人でさ、何しでかすか分からなくて、遺伝に怯えてさ。またぼくは兄貴死なせたお酒飲んでるわけだけど、父さんみたいに地元に一途にはなれなかった。時代かな?」  呂律の回らない中瀬を田川はふたたび肩に負う。立体歩道の手摺りに掴まり、一歩一歩踏みしめる。千鳥足の大柄な男に持ってかれかけそうだった。 「なんだか、オレも、そうなんだなぁ…って感じで、驚きですよ」 「だからぁ、ぼくは驚かなかった……」 「遺伝っていうと、オレも浮気するのかな…」 「なんで、香世(かよ)が浮気してたの知ってるの?ぼく喋っちゃってたんだ。ごめんねぇ。香世のために忘れてあげて」  田川は間延びし上擦って喋る真横の顔を見た。足も止まってしまう。中瀬がつまずく。 「女がいたんです?」 「一緒にお店開こうって、話してたの。でも他の人が良くなっちゃったんだって。結婚考えてたの。夫婦で喫茶店やろうと思ってた。キャバレーで働いてることもね、許してくれてたんだ。香世と一緒になれたら、本当に父さんの言葉に甘えてさ、家族があるからって、実家のこと忘れちゃおうってさ。でも香世もいないし、思い描いてたビジョンが一回真っ白になると、こんなんでやっていけるのかなって、不安になっちゃって。夢を諦めなきゃいけないっていうか、ぼくが夢から逃げたくなっちゃったんだな。夢は毒って言ったの誰だっけ。なんか、ビビビってきたんだ」 「それ言ったの、多分オレです」 「そうだっけ?だとしたら、さっきの君の告白よりも、あの言葉のほうが驚きだったよ。夢は毒、確かに」  無邪気に中瀬は笑った。イタルノユメガカナウトイイナ。逃げたくなる話題だ。大きく溜息を吐く。駅まではもう少しだ。下の歩道に降りるために難関の階段がある。  母や祖母の家族以外、誰も入れたことのない部屋に他人が入った。限界だったのか中瀬は玄関で寝てしまう。叩き起こして水を飲ませ、またすぐに彼は眠ってしまった。田川は自宅にも関わらず中には入らないで廊下の壁に背を預けた。寝息が聞こえる。 「やっぱ、いいな、喫茶店」 「起きてたんです?」 「ちょっと寝てた」 「続けたらいいじゃないですか。親なんぞは勝手に子供作るんですから。感謝しても家族関係が足枷になっていたらお終いです。他人の暴論ですが、他人でしか見えないものってものがありますから。だとしたら他人のオレから見えるのは、厄介な親子のしがらみと感謝とを履き違えた時代遅れの封建制度です」  ぽかんとした顔をした中瀬は上体を持ち上げ、傍で座っている田川を見上げた。狭く短い廊下だった。 「田川くんも酔ってるね」 「アンタの分も飲みましたからね。感謝と罪悪感に捕まるのもいいんじゃないですか。聞かされたほうは腹立ちますけど。そっちを選んで後悔してください。清々します」  酔っ払いは気分を害した様子はなかった。子供みたいに笑っている。キッチンスペースのオレンジの照明がその赤ら顔を隠す。 「そっくりそのまま君に返すよ。もうすぐ寝ちゃいそう。明日酔いが覚めて、きっと忘れてるから」 「恥ずかしいからもう寝てくれます?」  田川は顔を覆う。顔が熱くなった。 ――いい人だと思っていたけど、あの人は、結婚したくなかったんだ。ごめんね、到流。  月並みな、ありがちの、凡百な話を酒臭い口の中で舐め回した。そして決まって自分も死のうとして、死にきれない。よくある台本を例に漏れずあの男もなぞった。 『到流に会いたいです』 ◇  中瀬が情けなく酔っ払い、田川家に泊まってから数日経った。あれから、実家に帰ると連絡があった。冷笑したが、地元で小さなカフェをやるのだと語っていた。そこからメニューを増やすという。田川のほうでも気持ち的な進展があった。3日ほどアルバイトの休みをもらったのだった。  晴れ。朝の7時。母とのやり取りを昨晩に済ませ、詰めた荷物を確認する。財布、スマートフォン、充電器とモバイルバッテリー、着替え、歯ブラシと剃刀は向こうで買う。都タワーバナナと気に入りの酒を1瓶。  8時30分の特急列車に乗り込み、乗り継いでいく。11時頃に炊き込みご飯の弁当を食いながら海を眺め、缶を傾ける。苦みの中でひとつ言い忘れていたことを思い出したが、近いうちに会える気がした。酒類提供を諦めたらしい友人のためコーヒーの味を覚えねばならない。ふとコーラスペシャルサンクストロピカルパフェが恋しくなった。 【月並みな生活ラブソング】

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