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Ⅷ 君には渡さない⑲

キスって…… この人、なに言ってるの? 「意味が分かりません」 「すれば分かる」 「そういう事を言ってるんじゃありません」 「目を(つぶ)れ。キスのマナーだ」 「まだ、するって言ってないじゃないですか」 「俺がする事に決めた」 無茶苦茶だ。 俺の選択権は? 反論の余地すらない。 「俺は、ただの助手でしょう」 許嫁の振りしている助手だ。 その助手という名目すら嘘なのだ。 この場を取り繕うための虚構に過ぎなくて。あなたとは…… 「なんの関係もない……」 (なのに、どうしてこんな事まで) 「俺とキスするのは、そんなに嫌か」 頭上の声が苦しげに聞こえたけれど。たぶん、気のせい。 「嫌です」 俺は、悪いことは何もしていない。 (なのに、どうして?) こんなにも胸が痛むのだろう。 「ファーストキスを奪われて。二度目まで、なんで……」 胸が苦しい。 ひどいことをしたのは、あなたなのに。 これじゃあ、俺がひどいことをしているみたい。 「……ファーストキス?」 「とぼけないでください。さっき、したじゃないですか」 (キスなんて) あなたには、どうって事ないレベルでも。 俺にとっては、初めての。 「優斗」 今更、謝っても許してやらない。 「一般的に『ほっぺにチュウ』はファーストキスに含まれない」 ……………… ……………… ……………… 「………」 「………」 「………」 「………そうなんですか」 「そうだ」 真川さんが頷いた。 「君のファーストキスは、まだ奪われていないぞ」 そうだったのか★ 俺のΩは清いままだ。 「だが」 「わっ」 体が引かれる。強引な力が有無を言わさず、俺を包んで抱き寄せる。 ドクンッ……と聞こえたのは、真川さんの鼓動? それとも、俺の心臓の音? 厚い胸板に頬を寄せて見上げると、宵闇の双瞳が俺を見下ろしていた。 切なく、優しい色は、夜に堕ちる前の(すみれ)の空のようだ。 喉を伝った指に、クイっと顎を持ち上げられた。 ドキドキ、心臓が早鐘を打つ。 こんなにも心臓がうるさいのに、体が動かない。指先まで痺れている。 瞳の中に広がる空に支配されている。 「俺以外の男に奪われたくないから、今ここで奪う……」 あなたが近づいてくる。 あなたの瞳…… 宵闇に吸い込まれる。 「キスのマナー、忘れたのか?」 ふわりと耳朶に悪戯な声がそよいだ。 (目、瞑らなきゃ……) もっと宵闇の瞳を眺めていたい。 間近でもっと、見ていたいけど…… 「よろしい」 真っ暗な視界に、声だけが柔らかに響いた。 俺の頬を包む掌があたたかい。 まだ…… まだなのかな? (真川さん、どこにいるの?) 俺に触れる体温があるから、傍にいるのは間違いないけれど。 いつまで待ってたら、いいんだろう。 なにも見えなくて不安になる。 「真川さ……」 「ダメだろう。勝手に喋ったら」 吐息が額にかかった。 「俺を待つ健気で可愛い顔、もう少し眺めていたいのに……」 チュ♥ 意地悪な唇が、無垢な唇に重なった。

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