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 トイレでの行為から、数時間後。  終業時間を過ぎた事務所で、矢車は数人の先輩に囲まれていた。  集まった人々の表情だけを見たら、まるで談笑のようだ。  ――表情【だけ】を見たら。 「やっちゃんって、オメガなんでしょ? ってことは、いろんな人と経験済みだったりする?」  圧倒的な、偏見。  この会社には【矢車がオメガ】ということを知らない職員は、いない。  それは【松葉瀬がアルファ】ということを知らない職員がいないのと、同じだ。  だからこそ、矢車は時々……あぁいった質問をされていた。 「やだぁ、係長。それ、シンプルにセクハラ且つ人権侵害ですよぉ? オメガは淫乱でエッチな子って思い込み、フツーに失礼です! エロ同人じゃないんですからぁ」 「あー、ごめんごめん! そうだよな~」 「でも真面目な話、僕、やっちゃんならイケるな~。……ねぇ、今晩どう?」 「あ、ずりぃぞ! オレも!」  矢車は確かに、見た目だけなら華奢で中性的……オマケに小柄だ。  一言で言うなら【可愛い】の部類だろう。 (オメガ相手ならセクハラしてもいいってか。……くだらねェ)  常識的に考えると、男が男に犯されるなんて屈辱的だ。  そんな異常を正常のように語る男たち――ベータに、松葉瀬は腹を立てていた。  けれど、貞操を軽んじられている張本人……矢車は。笑って受け流している。 「何回誘われても、答えはノーですよ? ボク、オメガだけど女の子じゃないんで」  矢車だって、鈍感な馬鹿ではない筈だ。  今、オメガだからと嘗められている。そのことに、気付いていない筈がない。 (アイツは、嫌じゃねェのかね)  松葉瀬は『アルファだから』という話題が心底嫌いだ。  だからこそ、嫌でも耳に入ってくるセクハラじみたやり取りが……哀れに思えて仕方ない。  それでも、矢車は笑顔だった。 「あ、そうだ! ……ねぇ、係長~? ボク、オメガで劣等種だから、ベータの人より仕事ができないんですよぉ。……だから、ね? 係長のセクハラは訴えないから、この書類……ボクの代わりにやってくださぁい」  砂糖にはちみつをぶちまけ、チョコでコーティングでもしたかのような甘ったるい声。  矢車は自分の容姿を最大限に利用し、係長にすり寄っていた。 「ちゃっかりしてるなぁ!」  矢車に甘えられている係長は、まんざらでもなさそうだ。  鼻の下を伸ばし、すぐにでも矢車の腰を抱き寄せそうにも見える。 (クソビッチが……)  矢車の言っていた通り……オメガは、劣等種。  常人より劣り、馬鹿にされ、虐げられる。……そういう存在。  しかし、矢車はオメガの特性を逆手に取っているのだ。 (くだらねェ)  確かに、オメガは通常種のベータより劣るかもしれない。  だが、そんなの誤差の範囲内だろうというのが、松葉瀬の持論だ。  仕事のできるできないは、その人間が持っているそもそもの素質。  第二の性で決まってしまうだなんて、そんなこと……松葉瀬にとっては、決して笑えない冗談だった。

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