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茨田は手を止めず、矢車を見つめた。
「どうだい、矢車。オメガを軽んじるような松葉瀬より、優しい私を選んでみるのは。……私ならきみを、悪いようにはしないよ」
指の腹でうなじを撫で。
手のひら全体で、胸を揉む。
(これが、センパイより優しいアルファ……ねぇ?)
確かに、松葉瀬は優しくないかもしれない。
二人きりになれば暴言を吐き、腹癒せと八つ当たりでセックスをしてくるような男だ。
しかし、それでも。
「……そう、ですね」
矢車は顔を上げ。
ニコリと、人懐っこい笑みを浮かべた。
「――うるせぇんだよ、偽善者低能クソアルファっ」
愛嬌があると噂される笑みを浮かべたまま。
語尾に音符が付きそうなほど、弾んだ声で。
矢車は真っ直ぐに、茨田を拒絶した。
その反応は予想外だったのか……茨田が一瞬だけ、言葉を失くす。
「人の善意をわざとらしく悪意に転換したようなクソヤローの番になるなんて、片腹痛いです。コレ、労災出ますかぁ? 出ないですよねぇ? 出ないでしょう? いくら特別手当が出たとしても、ノーサンキューですけど」
茨田の手が、動きを止めた。
「第一。松葉瀬センパイは、ボクがオメガだから構ってくれるんじゃないです。アンタはセンパイと同じアルファなのかもしれないですけど、根底と根本から違うんですよ、ド底辺詐欺師さん? ウソの吐き方すらナンセンスです」
矢車が明確な敵意を向けた場面を、茨田は知らない。
だからこそ茨田は、言葉を失くしているのだ。
「あれれぇ? どうしましたかぁ? オメガ相手にビビってますぅ? それともぉ、課長は自分をアルファだと思い込んでるオメガだったりしましたかぁ? ふふっ、もしもそうならカワイソウですねぇ? だけどね、課長? オメガはオメガでいいもんですよぉ? 最下層で低レベルだから、期待もされない。……ね? いいもんでしょう?」
「さ、っきから……黙っていれば……っ!」
胸から、手が離れる。
――次は、胸倉を掴まれたのだ。
「今まで、素直に懐いていたじゃないか……! あれは、私がオメガだったからなのかっ!」
「ボクが、素直に懐いていた……ですって?」
怒りによって、茨田の手が震えている。
その様子が、ただひたすらに可笑しくて。
矢車は、心の底から笑った。
「あっはははっ! 何ですかそれぇ! お腹がよじきれそうですぅ! 今度こそ労災出ますかねっ、病院行かなくちゃですよねぇ? 特別休暇もらえますかぁ?」
「こ、の……っ!」
「それともぉ? 課長の方こそ、病院……行っときますぅ?」
自分でも驚くほど、矢車は普段通りの対応ができている。
(よし、大丈夫……。センパイの怒鳴り声に比べたら、課長はポメラニアンだ……っ)
内心で、自分を奮い立たせた。
――こうして虚勢を張っていないと。
――いつ、足が震えてしまうのか。
矢車はそのことを、考えないようにしていた。
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