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 矢車は、頭がいい方ではない。  事務仕事は苦手で、難しい単語は憶えようとも思わなかった。  しかし、矢車はこれでも……生まれたときから、オメガだ。  ――本能による危機察知能力は、嫌というほど痛感している。 「おかしいとは思ってましたよぉ? 同じオメガな筈なのに……課長は、センパイと同じ感じがしたんです」 「へぇ? それは、匂いとかそういったものかな?」 「まぁ、そういう感じなんでしょうねぇ? 知らないですけど」  茨田の手が、腕から離れた。  それでも矢車は、安心できない。 「それとは別に、もう一つ。課長がくれたヒート抑制剤です。……あれって、本当に抑制剤でしたかぁ?」 「どういう意味だい?」 「ボクが知る限り……あれって、ヒートを促進させる薬だった筈なんですよねぇ」  茨田は先日……矢車に『ヒート抑制剤だよ』と言って、薬を渡していた。  その薬を見た時、矢車は内心で不信がっていたのだ。  それでも、矢車は渋々……受け取った。断って、変ないざこざを起こしたくなかったからだ。 「目の前で飲んでくれたら、一番手っ取り早かったんだけどね。……本当に、残念だよ」  矢車にとって、今の発言は悪事を暴いたかのような心地だった。  しかし茨田は、臆さない。  そして、悪びれもしなかった。 「人前で薬を飲むのはマナー違反だって、どこかの誰かが言ってましたよぉ? ……ボクはそう思わないですけどね、あはっ」  離れた手が、今度は矢車の胸を撫でる。  言い様の無い不快感が、矢車を襲う。 「いきなりきみに咬みつくこともできたけど、嫌われたくはなかったんだよ。回りくどかったかもしれないが、私なりのアプローチだった……ということさ」 「アプローチ、ですか。その節はどうもごちそうさまでした。お昼、美味しかったでぇす」  首筋を撫でていた指が、矢車のうなじに触れる。  それでも決して、矢車は表情を崩さなかった。 「きみはやけに松葉瀬を擁護するけれど、私はそうしてあげるべき相手だと、どうしても思えない。……私にとって松葉瀬は、邪魔な存在なんだよ」 「……それは、どうしてですか」 「簡単な話さ」  茨田が、小さく笑う。 「アルファだか何だか知らないが、上司の私より仕事ができるだなんて……目障りに決まっている。課長会議でよく言われたよ。『茨田はいい部下を持ったな』とね。……迷惑な話だろう?」 「鼻が高いと思いますけどねぇ」 「ただの悪目立ちさ。少なくとも、私にとってはね」  膨らみのない矢車の胸を、茨田は揉み始める。 「きみは、生まれながらにオメガだ。……なら、どうだい? 優秀なアルファの番になれるなら、本望というものじゃないか? ……きみだって聞いていただろう? さっきの、松葉瀬が言っていた台詞」  矢車は再度、松葉瀬の言葉を思い出す。 『もしかして、来週の監査で使う書類を探すんですか? 良ければ俺、探してきましょうか?』  もしも、このことなら。  矢車はそこまで考えて、自分の思考を一時的に中断させる。  松葉瀬の真似をして貼りつけた笑みが、剥がれ落ちてしまいそうだったから。

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