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最終章【どうしようもなく絶望的で、だからこそ希望に満ちた世界】 1
番になったところで、二人はなにも変わらない。
社内でも適度な距離を取り、たまに関わったと思えば矢車のウザ絡み。
それでも、少しだけ変わったところを挙げるのならば。
松葉瀬からの【八つ当たり】は、あれからただの一度も行われてはいない……ということだけだった。
「お前、茨田になにしたんだよ」
少しのサービス残業を終えた、帰り道。
『お腹が空いた』と喚く矢車を連れてやって来たのは、何度か来たことのあるラーメン屋だった。
矢車は麺を熱心にはふはふと冷ましながら、小首を傾げている。
「……えっ? いったい、何の話ですかぁ?」
「とぼけんなクズ、ボコるぞ」
「熱烈ですねぇ、勃っちゃいそう」
下品な煽りはスルーして、松葉瀬は正面に座る矢車を睨む。
矢車が茨田に対し、なにかをした。そう思うだけの証拠が、松葉瀬にはあったのだ。
「――あの傲慢野郎が【自主退職する】なんて、どう考えてもテメェが原因だろォが」
そう。その通りだった。
矢車に対し、茨田が強硬手段をとったあの日から、数日後の現在。
今朝になって突然、松葉瀬は茨田が自主退職する話を知らされたのだ。
矢車は箸をコトンとテーブルに置き、わざとらしく目元を擦る。
「うぅ、酷いです、センパイ……っ。こんなにカワイイ人畜無害でひ弱な後輩であるボクが、誰かを脅すって……センパイはそう思ってるんですね……? 酷い、酷すぎますぅ……大嫌いですぅ」
よよ、と泣き真似をし始める矢車に、松葉瀬はげんなりとした視線を向けた。
「お前……俺と初めて寝た日に『ひとりぼっちになりますね』って脅してきただろォが」
「え~? そうでしたっけぇ? オメガ、難しいこと分かんなぁい」
先程までの泣き真似はどこへいったのか。
矢車はあざとく自分の額をコツンと叩いた後、神妙な面持ちでブツブツと呟いた。
「でも、本当に心当たりがないんですよねぇ? あの最低最悪な事件以降、茨田課長とは一回しか喋ってないですもん」
「へぇ」
「しかもその会話だって『あの書庫でのやり取り、ぜぇんぶ録音してますけど……どうしますかぁ?』って内容でしたし」
「言い逃れできねェほどの真っ黒さじゃねェか。心当たりしかねェだろ」
松葉瀬はそれだけ言い、ラーメンを完食する。
ゆっくりと食べ進める矢車を待ちながら、松葉瀬は水を少しだけ口に含んだ。
ジッと矢車を見つめた後、松葉瀬は矢車から視線を外す。
「……お前、マジでなに考えてんのかよく分かんねェな」
「むもぅ?」
ラーメンを咀嚼しながら、矢車は小首を傾げた。
松葉瀬は矢車から視線を外したまま、自分の首筋をトン、と、一度だけ叩いてみせた。
「――俺と番になってから、首……隠すようにしただろ」
松葉瀬が見ていたのは、ラーメンを食べる矢車ではない。
――矢車の首に巻かれた、チョーカーを見ていたのだ。
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