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 地下鉄と私鉄を乗り継いで小さな駅から10分ほど歩くと、未央の住むマンションに着いた。単身者向けのようだがオートロックになっていて、セキュリティはしっかりしているようだった。20代が住むには少々家賃が高そうだけれど、未央はここならと両親を説得したのだろう。  未央はドアを開け中に入って玄関の電灯をつけた。 「どうぞ」 「……お邪魔します」  8畳ほどのダイニングはきちんと片付いて清潔感があった。芳賀を椅子に座らせると、未央はキッチンのケトルに水を入れて火に掛けた。 「コーヒーと紅茶、どちらがいいですか?」 「ああ……紅茶かな」  これまで付き合った恋人の家に初めて上がったとき、こんなに緊張した空気に包まれていただろうかと芳賀は不思議な気分になった。これから肌を合わせるだろう期待と不安の入り混じった昂揚感のようなものが未央からは感じられない。もっと重い張り詰めた決意のようなものだ。もしも彼女にとってセックスがそれほどまでに重大なものだとしたら、上がり込んだことを後悔してしまう。  未央はシンプルなカップに紅茶を注ぎ、砂糖の瓶を置くと、奥の部屋に入っていった。芳賀は紅茶を啜りながらひたすら待った。5分ほどの時間がやけに長く感じられた。  戻ってきた未央は向かいの椅子に座り、テーブルの上に1枚の紙を広げた。 「これ……」 「わたしの戸籍です」  そこには、無機質な明朝体で文字が並んでいた。 戸籍に記載されている者 【名】未央 【生年月日】平成4年5月26日 【父】 【母】片岡温子 【続柄】女 【養父】高浜浩 【養母】高浜文子 【続柄】養女  芳賀は戸籍を見慣れているわけではないが、未央の母親が未婚のまま彼女を産んだことや、養子縁組したために高浜姓になっていることは読み取れた。 「見てのとおり高浜の両親とは血が繋がっていません。でも、わたしには本当の子のように良くしてくれています」  未央が話したいのはそこではないと察した芳賀は、あえて口を挟んだ。 「……もし、お母さんが結婚しないまま君を産んだのを気にしているのなら、俺はそういうのに拘りはないし、俺の両親に何も言わせないから」 「ありがとうございます。でも、伝えたいのはほかのことなんです」  未央は言葉を切って芳賀を見つめた。 「認知はして貰っていませんが、父のことは知っています。小さい頃、会ったこともあります……父は、日比野孝介です」  芳賀は息を飲んだ。  未央は日比野の腹違いの妹なのだ。 「それって、日比野……君の兄さんは知ってるの?」 「はい。たまに遊びに来てくれて、仕事の悩みを聴いてくれたりしています。ずっと一緒に暮らしていた兄みたい」  ふたりの距離感が血のつながり故だとわかると、芳賀は淫猥な妄想しかできなかった自分を恥じた。 「日比野は、これまでも男性を紹介するようなことはあった?」 「いえ……芳賀さんが初めてです。こんなこと言ったら失礼かもしれませんが、自分の交際相手くらい自分で探すって言ったんです。でも、一度でいいから会えの一点張りで」 「ああ見えて頑固だからねえ」 「今は会って良かったと思ってますけど」  未央はちょっと頬を赤くしたが、やがて厳しい表情になった。 「兄から芳賀さんのお話をいただいたとき、わたし迷ったんです。なんだか政略結婚みたいでしょう?」 「俺はそこまで考えてないよ。未央さんもあんまり考え過ぎないほうがいいんじゃないかな」  明るい声で言ってみると、未央はすこし笑った。淋しげな笑顔だった。 「万が一芳賀さんがわたしと離れたくなっても、兄に気兼ねして別れられないのは辛いんです。でもそのせいで、外に女のひとを作ってこどもができたりしたらもっと嫌……わたしみたいな子ができてしまう」  未央はなにを見て育ったのだろう。普通の人生を歩んできた同世代の若者なら、恋人ができたらその一瞬一瞬が幸せで、関係が破綻するなど考えもしないだろう。そればかりか、外に相手を求めることなんて、経験がなければ考えもしないはずだ。  もし彼女を巡って日比野の両親の関係が悪くなったとしても、未央にはなんの責任もない。彼女はたまたま婚外子として生を受けたに過ぎない。  ……それでも出自にまつわる色々なものが彼女の体に絡みついて離れないのだ。  未央は無言で紙を畳んだ。それは彼女の人生のほんの一部をを記録しているに過ぎないが、大部分の人間とすこし異なるたった数行が、彼女に暗い陰をもたらしている。その手に芳賀はそっと触れた。細い指がちょっと震えたが、そのまま動かなかった。芳賀は未央の手を握った。強く、強く握りつづけた。

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