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 エレベーターから降りてきた日比野が廊下を歩いてきたところを芳賀はすれ違いざまに腕を掴んだ。 「話がある」  日比野は目を丸くした。 「出掛けなくちゃいけないんだけどな」 「そんなもの後だ」  そのまま引っ張ってエレベーターに乗り込む。日比野は形だけしか抵抗しなかった。  まだ午前中の屋上には誰もいない。太陽がときおり雲の隙間からのぞいて初冬のひんやりした空気を暖めている。日比野は煙草を取り出し、火をつけた。  あまり感情を出さないように話すつもりだったが、言葉が硬くなってしまうのを芳賀は感じた。 「未央さんに戸籍を見せられた」  日比野は溜息とともに煙を吐いた。 「あいつ……2、3回寝てからにしろって言いきかせたのに」  そんな風に返されるとは予想しておらず、芳賀はムッとした。 「……女の子にそんなこと言うなよ」 「大事なことだと思うけどなあ」 「彼女には軽いことじゃなかったんだ」  思わず声が大きくなった芳賀を日比野はまともに睨んだ。 「俺だって軽いとは考えてない」  突然の強い口調に芳賀は怯んだ。日比野は興奮を抑えようとしているのか、しばらく紫煙をくゆらせた。短くなった吸い殻をしまうと、彼はおもむろに口を開いた。もう、いつもの彼……どちらかというと上司の仮面をつけた彼だった。 「大学を卒業して2年経った頃かな、親父に誘われてふたりだけで食事に行った。またお見合いの話かなと軽い気持ちで行ったんだが、赤坂の料亭の別室でほかに客はいなかった。あらかた食事が終わると、親父が急に実は外に子供がいる、と告白したんだ。女の子で今15歳、横浜の附属中学校に通っている、名前は未央、10歳のときに当時横浜支社の総務部長をしていた高浜支社長の養女になった……高浜は親父の忠実な部下で、子供がいなかった。未央の実の母親は既に死亡している……死因は教えて貰えなかったがね」  日比野は彼の胸ほどの高さの柵から身を乗り出し、オフィス街のビル群に眺めながら続けた。 「俺は、お袋は知っているのかと訊ねた。すると、話していない、子供の認知もしていないしこの先もする気はないと答えやがる。呆れてものも言えない。俺に『綺麗に遊べ』と言っていた奴が、愛人を妊娠させて認知すらしていないなんて……まあ、気持ちはわからなくもない。お袋の親族にはメガバンクの経営陣が数人いて、うちの会社は色々と便宜を図って貰ってる。未央の存在が明るみになって修羅場になったら……お袋はそういうのは絶対に許せない性分だ……うちの会社の経営にかかわるからな」  芳賀は口を挟んだ。 「なんで親父さんは、お前に未央さんの存在を伝えたんだろう?高浜支社長が腹心で絶対に未央さんの出自を漏らさない確証があるなら、戸籍からは絶対にわからないし、わざわざ秘密の共有者を増やす必要もない」 「罪悪感じゃないか?黙っていられなかったんだろう。まあ、偽善だけどな」  日比野は振り向き、脣を歪めた。 「……あのとき、どうして親父を殴らなかったのか、今でも後悔している。ボコボコにして、お袋の前に引きずり出して、家庭を滅茶苦茶にしてしまえば良かった。お袋だって世間体を気にしてばかりいて、俺を試験の成績でしか評価しない女だ。親父が愛人に子供を産ませたなんて知ったら取り乱すだろうよ。ざまあみろ、せいせいする……でも、情けないことに俺はできなかった……殴ったら俺自身もこれまでの立場では居られなくなるとわかっていたから。結局、遊び歩いて忘れようとしていた。大金が消えただけで、なにも変わらなかったけどな」  芳賀は何も言えず立ちすくんでいた。あの度重なる着信は、日比野が救いの手を求めていたのではないだろうか。自分はそれを関わり合いになりたくないがために、無視してしまった。もし呼び出し音に応えていたら、あのときの日比野はほんの少しでも救われたのだろうか……いや、救いなんておこがましい。多少の慰めにしかならないだろう。それでも、電話に出るべきだったのだ、きっと。

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