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第5話
いざ!
意を決して振り返ると、理人さんの全身がビクリと跳ねた。
「な、なんだよ?」
慄く理人さんに、葉瑠兄が椅子のキャスターを転がしながらシャーッと近づいていく。
そして音を立てて止まると、不気味すぎる笑みを浮かべた。
「理人くん」
「は、はい……?」
「理人くんは、注射器が見えるから嫌なんだろ?」
「えっ」
「針が見えるから怖いんだよな?」
「え、あ、た、たぶん……?」
「よし。じゃあ、うつ伏せになって」
「な、なんで……」
「そうすれば見えないだろ? ほら、早く」
「あ、は、はい……」
理人さんは、のそ……のそ……と身体を起こした。
そしてくるりと反転したところで、不安まみれの視線で俺を見上げてくる。
うーん、これはまずいなあ。
濡れそぼった捨て犬の上目遣いは、心臓に悪すぎる。
それに、
いじらしく揺れる潤んだアーモンド・アイの中心に、俺がいる。
――もうやめてやれよ。
天の声が、俺の決心をこれでもかと揺さぶってきた。
それが悪魔の囁きなのか、天使の導きなのかは、もうよく分からない。
「英瑠、腕」
「……うん」
ごめんなさい、理人さん。
これはもう、本当に、意地悪でもなんでもなく。
理人さんのためだから。
「佐藤くん……?」
両腕を取り伸ばしたところで手首を押さえると、理人さんの瞳が揺れた。
ああもう、だから。
やめて。
そんな目でこっちを見ないで!
頑丈に塗固めたはずの決意が鈍りに鈍るだろ……!
「しっかり押さえとけよー」
俺の葛藤を知ってか知らずか、兄貴は無機質な声で言う。
簡易ベッドがミシミシと、不吉な音を立てて軋んだ。
振り返ろうとする背中を制し、葉瑠兄が理人さんの脚の付け根に跨がる。
「は、葉瑠先生?」
「ちょっとズボンとパンツ下げるなー」
「な!? な、なな、ななななんでっ……」
「お尻に打つから」
「えっ……えっ!?」
「ちょっと冷たいぞー」
「えっ、あの……ぅひゃ!」
「んじゃ、チクッとするけど絶対に動くなよー」
「は!? ちょ、待っ……いっ!?」
「お薬入れるから、痛くても我慢しようなー」
「んっ……んんんぅ……っ」
「はい、おしまい」
す、すごい。
さすがプロの手際だ……!
かかった時間は、ちょっきり3秒だ(……たぶん)
「理人さん」
「……」
「終わってみれば、ほんの一瞬だったでしょ?」
「……」
「理人さん……?」
元々形の良いお尻をさらに引き締めたまま、理人さんは微動だにしない。
まさか息絶えた……なんてことはないだろうけど。
「よし、もう起き上がっていいぞ」
理人さんのズボンをたくし上げ、葉瑠兄がようやくベッドから下りる。
「うわッ!?」
途端に、理人さんがものすごい勢いで俺に抱きついてきた。
「え、えーと……理人さん?」
「……」
「大丈夫ですか?」
「……」
「生きてる……?」
「腕より痛かったぁ……ッ」
濡れた吐息と一緒に、鼻にかかった甘い声が、俺の首筋に降り注ぐ。
え、まさか。
ほんとに泣いてる?
「……プッ」
「笑うな!」
「いい年して駄々捏ねたりするから」
「いい年って言うな……!」
理人さんが、耳元でキャンキャン喚き始めた。
どうやら、お尻にブスッとやられたショックはすっかり吹き飛んだらしい。
「英瑠」
「ん?」
理人さんを首にぶら下げたまま視線を上げると、葉瑠兄が呆れていた。
はあ……と漏れたため息には、安堵と疲労が入り交じって聞こえる。
「これ、会計に出す紙な」
「ああ、サンキュ」
「副反応が心配だから、三十分は院内にいろよ? それで何もなかったら、帰っていいから」
「わかった」
俺が頷くと、葉瑠兄はまるで犬を追いやるようにシッシッと手を振った。
理人さんが午前ラストの患者だから、早く休ませろと言ってるんだろう。
「じゃあ、行きましょうか……理人さん?」
そのまま歩き出そうとした俺を引き止めるように、理人さんは絡めていた腕を解いた。
スン……と鼻を鳴らし、忙しなくキーボードを叩いている葉瑠兄の背中を見下ろす。
「……葉瑠先生」
「んー?」
「ありがとう……ございました」
葉瑠兄の白衣が翻った。
俺と同じ形の目を見開いて、への字にひん曲がった唇を尖らせた理人さんと、その隣で必死に笑いを堪えている俺を交互に見る。
ふうううぅぅ……と盛大に響いたため息に込められているのは、きっとさっきまでとはまったく違う意味。
「はい、よく頑張りました」
葉瑠兄が目尻を垂らすと、理人さんはまたかわいらしく鼻を鳴らした。
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