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はじまりの雨1

 カランカラン。  氷と氷がグラスの中でぶつかり合う音が響く。  僕はひとり、ジャズの音色に耳を澄ませながら、液体のほとんど残っていないグラスを揺らす。  腕時計を見ると針はちょうど夜の11時を指していた。  もう一杯だけここで飲んで帰ろうかな。  どうせ明日はオフだし、家に帰っても一人だしね。そんなに急いで帰ることもないだろう。  店を移動するにしても遅いし、それに行き慣れないお店だと身分証を確認させられる事があるから、めんどくさい。  今年で24歳になったというのに小柄で童顔のせいか未だに深夜に歩いてるとおまわりさんに呼び止められる事もある。多少でも落ち着いて見られるように21歳辺りからは、コンタクトから上半分が黒淵の眼鏡(教頭先生風眼鏡っていうのかな?)に変えたけど、あまり効果はないらしい。  まあ、眼鏡のおかげかは分からないけど、眼鏡に変えた日に受けたオーディションで話題作の主役に抜擢されてからは、声優だけで生活ができるようになった。  そんな僕の名前は、吉寺睦月(よしでら むつき)。職業は、声優。  デビューして、7年。  10代の時は、声優の仕事より映画やドラマやCMのエキストラとかカラオケで流れてる映像とか映りの仕事が多かったから、声優の仕事の比重が増えたのは20歳になってからかな。最近になって、ネットで昔でたドラマや映画が立て続けに配信されてて、『あれ吉寺くんじゃね?』て、エゴサする度に呟いているのを見るのは自分の知名度が上がったみたいでちょっと嬉しかったりする。  だけど、エゴサ=いいことばかりじゃないから、こうやって、夜ひとりでぼんやり呑んでるときは、あえてスマホは見ない。  何も考えず心をオフにする時間を僕は大切にしている。  「すみません!もう一杯ジントニックをお願いします」 バーテンダーに僕は3杯目のジントニックを注文した。  「俺にも同じモノを」  もしや、この聞き慣れた渋い声は!?   突然背後から聞こえてきた声に僕は反応し、振り向いた。    やっぱり三上雄一(みかみゆういち)さんだった。  彼は、僕より13歳も年上で、洋画やナレーションを中心にアニメやゲームでも活躍する声優だ。 僕が、デビュー前にアフレコ見学に行った時からだから、知り合ってかれこれ10年近く経つ。  このバーを教えてくれたのも彼だった。  「よぉ睦月!! 背中が寂しそうだぞ。会わないうちに老けたか?」 「ちょっとぉ、久しぶりに会って早々失礼なこと言わないで下さいよ。」 僕が、口唇を尖らせる。 「悪い。悪い。大人っぽくなったな。それで良いだろ? 失礼なこと言ったお詫びにそれおごるから」 彼が、僕の隣に座りながら、いつの間にか置いてあったジントニックを指差した。 「しょうがないなあ。ゆるしてあげますよ。」 僕が、グラスに口をつけると微笑みながら僕を眺めてる彼が視界に入った。 「オレのことじーっと見ちゃって、なんか言いたいことでもあるんですか?」 グラスを置き、彼の方に首を傾ける。 「言いたいことねえ。そうだな。『睦月のそういうとこ好きよ俺。』ってことかな」 「はあ?」 「『はあ」じゃなくて、『僕も』とか言ってくれないわけ?』 彼が、僕の肩に腕を回し、顔を近づけた。酒と煙草の入り混じった匂いがつんと僕の鼻を掠める。  やっぱ、やたら絡んでくるなと思ったら、ここにくる前にどこかで飲んでたわけか。 「いきなりなんなんですか?それに何でオレが雄一さんに言わなきゃいけないんですか?」 「それは、俺が言って欲しいからだよ。」 彼が、口唇を僕の耳元に寄せ囁いた。耳朶を掠める空気がくすぐったくて、僕は、首を振った。 「もぉ、おじさん!! あまり人に絡まないで下さいよぉ。これ以上絡むんなら、僕帰りますよ!!」 僕が、彼の腕をはずし立ちあがると、彼の手が、僕の手首を捕らえた。 「悪かったって。おとなしくしてるから、もう少し俺と一緒に居てくれないか?」 サングラスをテーブルに置き、寂しげな眼差しで言うもんだから、僕は彼をほうっておくわけにもいかなくて、椅子に座りなおした。  ――それから先の彼は、いつもどおりだった。さっきみたいに僕に絡んでくることもなく、ただお互いの近況を話し合って、笑いあって。  ジントニック一杯じゃ話を終えることが出来なくて、僕は、今日で五杯目のジントニックを注文せざる得なかった。  「大丈夫?一人で帰れる?」 立ち上がると、足取りが危うい僕の肩を彼が支えてくれた。 「はい……大丈夫です。タクシー拾うんで。」 「それなら、いいんだけど。悪かったな俺に付きあわせちゃって。明後日まで、妻と子供が親戚の結婚式があって、実家に戻ってるんだ。だから、ひとりの家に帰るのもなんだなと思ってさ。たまたまいた睦月につきあってもらったというわけさ。でも、本当に久しぶりに睦月と喋れて楽しかったよ。最近、睦月忙しいからスタジオですれ違っても挨拶だけだからさ。」 「オレも楽しかったれしゅ。」 呂律が回らなかったことに自分で気付き、僕は、頬を赤らめた。 「ああ!今、呂律まわってなかっただろ? 顔赤くしちゃって、かわいいなあ。」 「もぅ、僕先行ってるんで早くタクシー呼んどいて下しゃいよ!!」 僕は恥ずかしさをごまかすように彼から離れ、ふらふら歩きながら店をでた。  外は、いつの間にか昼間晴れていたのが嘘のような土砂降りになっていた。  雨が、アスファルトにぶつかっては跳ね、ぶつかっては跳ねを繰り返す。僕は、お店の入り口の屋根の下で壁に凭れて、雨を眺めていた。  「よぉ!睦月、おまたせ。タクシーは後10分後くらいにくるらしいぞ」 店から出てきた彼が、僕の左肩に手を置いた。 「すみません」 彼のほうを向き、軽く頭を下げた。    冷静になって考えてみたら、僕ってば、先輩にタクシーなんか呼ばせちゃったんだあ。うわあ。  「どうしたんだ?黙りこくっちゃって」 手を肩に置いたまま、彼が僕の顔を覗き込んだ。  優しい眼差しと目が合う。  またしても至近距離。 さっきは、なんとも思わなかったのに目と目が合った瞬間、僕の心臓が、ドキッと鳴った。  どうしたんだろう?  呑みすぎて、心拍数でも上がったのかな?  自分の感情に戸惑っていると、 「もしかして、気持ち悪いとか?」 彼が僕に顔を近づけてきた。 「全然そんなんじゃないです!! ホントお願いだから、煙草くさい顔近づけないで下さい!!」 彼の眼差しから逃れたくて、僕は思わず、彼の胸を押しやった。  その瞬間、彼の体が屋根の外に出てしまった。僕は、慌てて、彼の腕を掴んで、屋根の中へと引き戻した。ほんのりと濡れたジャケットの袖の感触に後悔が宿る。 「ごめんなさい……。」 彼の腕を掴んだ手に力が入る。 「いや……俺の方こそ、睦月が煙草の匂いに敏感なのに今まで気がつかなくって、悪かったよ。」 「そんなことないです。だからって、なにも押す必要なんてなかったわけですし。」 「……。」 「……。」 彼と目が合う。  あ、まただ。この眼差しになんだか引き込まれてしまう。  お酒のせいなのかな?   今日の僕が、なんだかおかしいのは。  「何かじーっとみられるのって照れるんだけど。」 「あっ! ごめんなさい!!」 僕は、慌てて彼から目を逸らし、俯いた。 「だからって、露骨に逸らさんでもいいだろ? な〜んか調子狂うな。しおらしい睦月なんて。」 言いながら、彼が僕の頭をくしゃくしゃっと撫でる。 「ちょっと!? やめてくださいよ! 髪の毛が、乱れるじゃないですか!!ええい!! お返ししてやる!!」 「お!これでこそいつもの睦月だな。」 僕が、彼の髪をかき乱すと、彼が嬉しそうな声を上げた。僕は、彼の手から開放されると髪の毛を直した。 「何が嬉しいんだか分からないんですけど、タクシーがくる前にさっきのお金返しますね」 「ああ。それなら、今晩の宿泊代だと思えばいいよ 「はあ?宿泊代?」 「そう。今晩、俺睦月んちに泊まることにしたから」 「ちょっと勝手に決めないで下さいよ!」 「いいだろ?どうせ家に帰っても誰も居ないんだろ?」 「………。」 痛いところを突かれ、僕が言葉に詰まると、彼がにやりとした笑みを浮かべた。 「もお、ホントにいやなおじさんなんだからあ」 「ははは……。さあて、タクシー着たぞ!」 彼が、僕等の目の前にとまったタクシーを指差した。そして。僕の肩を抱き、僕等は、タクシーの後部席に乗り込んだ。

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