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第110話

壊れているのなら仕方ないと、足元に気を付けながら部屋を進む。 部屋の中は散らかっているわけではなかったから、なにかに足が引っかかる事はなかった。 先に寝室に向かうのは客としてちょっとどうかと思い、リビングで鳳さんが来るのを待たせてもらう事にした。 両手で前になにかあるのを探りながらリビングの中を歩いてソファーらしきものがあった。 そこに座り鳳さんが来るまでボーッとしながら待っていた。 やがて眠気に襲われて、うとうととしてきた時部屋のドアが大きな音を立てて開いた。 鳳さんが来たと思い、玄関に向かうが俺に気付く事なくトイレに駆け込んでいた。 限界だったのか分からないが、またリビングに戻ろうと一歩歩いた。 するとトイレから苦しげな声が聞こえて、はぁはぁと荒い息遣いも聞こえる。 もしかしたら、具合が悪いのかもしれない。 俺はリビングに戻り、手探りで食器棚を開けてコップを取り出し水を入れた。 吐いている感じだったし、少しでもこれで楽になれれば… 開けっぱなしだったトイレに入り、真っ暗で誰がいるか分からないが声を掛けた。 「水で口を濯ぐと楽になりますよ」 「はぁ、っ…誰だ」 吐いたからか、声がかすれて誰かは分からないが鳳さんではないと思った。 鳳さんなら俺にこの部屋の鍵を渡したんだから、俺がこの部屋にいる事は知っている筈で誰だなんて言わない。 じゃあ、今入ってきた人はこの部屋の持ち主だろうか。 鍵を持っていたなら鳳さんの知り合いなのは分かっている、俺がいる事を伝え忘れているのかもしれない。 だったら自己紹介した方がいい、そう思い口を開いた。 するとまた苦しそうにして腹の中にあるものを吐いていた。 水が入ったコップをその人に渡して背中を撫でる、少しでも楽になるように… 「…ゆき、なり」 「……えっ」 誰かの名前らしき言葉を呟いて、俺の胸にもたれかかった。 そのまま動かなくなり、脱水症状で死んでしまったのではないかと慌てた。 とりあえずベッドに運ぼう、いや…その前に吐いたものが付着しているかもしれないから服を着替えさせよう。 勝手に服を脱がすのは悪いとは思うが、部屋は真っ暗で俺からは見えないから我慢してくれ。 トイレの中に放置は出来ないから寝室まで手探りで運んだ。 寝室になら着替えの服くらいあるだろう。 寝室に入りクローゼットらしき物に触り開けた。 なにが入っているのか分からない、とりあえず上と下の服を掴み床に置いてから脱衣場に戻った。 上半身だけでも拭いた方がいいだろう、脱衣所にあったタオルをぬるま湯で濡らして寝室に戻り服を脱がそうとした。 そこで気付いたが、ボタンを留めていなくてシャツがはだけている事に気付いた。 えーっと、これは…いや…何も考えない方がいいな。 シャツを脱がして、体を軽く拭くと「うっ…」と短い声が聞こえた。 「ごめんなさい、体を拭いてるだけだからもう少し我慢してください」 「なぁ、雪成(ゆきなり)…俺はどうしたらいいんだ?」 またゆきなりと俺を呼んでいる、誰かと勘違いしているのか? 俺はゆきなりという人ではないから訂正したいが、この人がその名前を言うとさっきまで苦しげだった呼吸が安定している。 この人にとってゆきなりさんは信頼出来る相手なのだろう。 だったらこのままその人のフリをしているのがいいのかもしれない。 もし俺が人間だって知って悪化したら大変だ。 せめて鳳さんが来るまで…鳳さんが来たら俺の説明もしやすいと思うし… 話し方からしてゆきなりさんとはタメ口する間だろう、知り合いでもない相手にフリでタメ口するのは失礼だよな。 「ど、どうかした…んですか?」 「雪成を捨てた俺の悩みなんて聞きたくないよな」 俺の敬語に全く疑問を持ってなくて良かった…もしかしたら敬語で話していたのかもしれない。 …ゆきなりさんを捨てた?どういう事なんだろう、部外者が首を突っ込むわけにはいかず聞けない。 謝る弱々しい声に俺はどうしてもやれないから、ただ体を拭う事しか出来ない。 「俺を殺しにきたなら殺してくれ、そのために幽体となって俺の前に現れたんだろ?お前と共に冥界に行けるのなら構わない」と穏やかではない事を口にしていた。 そうか、ゆきなりさんはもう死んでいるのか…そしてこの人は生きる事を諦めている。 上辺の言葉で止めたって、この人には響かない…本物の…この人の望む人の言葉でなくてはいけない。 俺は何も言う事が出来ず、ただ俯く事しか出来なかった。 『またそんな弱気になっているのか?』 ふと、そんな声が何処からか聞こえた。 俺でも目の前の人でもない違う人の声だ。 また誰かが入ってきたのかと思ったが、足音は聞こえなかったからそれはあり得ないだろう。 俺にしか聞こえなかったのか、目の前の人は「雪成?」と黙っている俺を心配した声だった。 変だな、聞いた事がない声なのにとても懐かしい声だ。 違う…この声は俺の声だ…何故そう思ったのかは分からない、今の俺よりもずっと大人びた声なのに… ずっとずっと昔に、似たような事があった気がした…その時の俺はどう答えただろう。 あの時も君は落ち込んでいて、俺達の境界線である川を眺めていた。 ……俺の知らない、俺の記憶。

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