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ある日、森の中①
「ふふふふーん、ふふふふーん♪」
夜の、21時過ぎ。
相当お疲れなのか、課長は突然鼻唄を歌い始めた。
あまり上手とは言い難い感じだったけれど、曲調から明らかにそれと分かる。
森の中。
......くまが女の子と出逢ってダンスを踊る、あの名曲だ。
「......何 すか、それ」
試験管を手にしたままクスクスと笑い、聞いた。
すると課長もクスリと笑い、そして答えた。
「知らない?
僕この曲、昔っから好きなんだよねぇ」
あまりにも彼らしい、的外れなその答えにまた、つい噴き出した。
「その曲は、知ってますよ。
でもなんで今、その曲なんですか?」
「なんかね、最近言われたんだよね。
僕を見てたら、この歌詞に出てくるくまを思い出すんだって!」
にこにこと人当たりのよい笑みを浮かべ、彼は言った。
あー、なるほど。
......分からなくも、ない。
緩くカールした、焦げ茶色の癖っ毛。
そしてその髪の色に合わせたのであろう、茶色のフレームの丸眼鏡はどこか愛嬌があって、可愛らしい雰囲気だ。
体は大きいのに、その柔らかな物腰のせいか、威圧感なんてモノは皆無だし。
......とは言え今年確か37歳になるというのに、こんなにゆるゆるフワフワしてて大丈夫なのかと、見ているこっちが少し不安になるけれど。
「......あ、そうだ。
久米君、今日この後一緒に飲みに行かない?」
食事に誘われ、何度か付き合った事はあったけれど、彼からの飲みの誘いは初めてだった。
噂ではかなりの酒豪で、かなりの酒乱。
......絡まれるから絶対にこの人と飲みに行くべきじゃないと、同じFC 課の人間からは嫌ってほど聞かされている。
食事会はあっても、僕が入社してからのおよそ二年の間、課内で飲み会が開催された事は一度もない。
今は実験が思うように捗らず、課長と二人、残業中。
だからもし絡まれたとしても、助けてくれる人間はいない。
断るべきだと、冷静な自分が脳の片隅で訴える。
でもこの穏和を絵に描いたような男がどのように酔い、どのようにクダを巻くと言うのか。
......そんなの、見てみたいに決まってる。
こうして僕はあっさり誘惑に負け、彼の誘いに乗った。
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