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ある日、森の中②

 近所の安居酒屋で夕飯を食べ、軽く飲んだ後連れて行かれたのは、お洒落なビルの地下にある、隠れ家的な小さなバーだった。  カウンター席に腰を降ろすと、バーテンダーの女性に向かい彼は、穏やかな......でも何処か艶っぽい笑みを浮かべて言った。 「俺は、いつもの。  彼には何か口当たりが良くて、あまりアルコールが強くないヤツを」  誰だよ、これ。  ......すげぇ大人っぽいし、格好いい感じなんだけど。  出てきたのは琥珀色をした高級(たか)そうなウイスキーか何かと、ピンク色のグラデーションが綺麗な、美味しそうなカクテル。 「ピンク・レディーです」  にっこりと微笑み、女性が僕の前に優しい色味の液体を置いた。  あまりアルコール類は強くないけれど、その可愛らしい見た目と甘い香りに好奇心を擽られ、僕はそれをひとくち口に含んだ。 「......美味しい」  自然と頬の、筋肉が緩む。  そんな僕の顔を見て、田畑課長はクスッと笑った。  僕の知る田畑課長は、ふわふわのユルユル。  見たかったのは情けなく泥酔し、乱れてクダを巻く彼の姿。  なのに今この人は僕の隣で慣れた様子で煙草に火をつけ、店内に流れるジャズに合わせて体を軽くスイングさせながら、僕の知らない唄を口ずさむ。  その音階はいつもの様に、少しだけ外れてはいるけれど。 「......俺の顔に、なんかついてる?」  ククッと笑い、軽く前髪を指先で崩し、彼は眼鏡を外した。  そしていつもは丸眼鏡のレンズのせいであまり見えない切れ長の瞳を僕に向け、彼はまた笑った。 「課長の一人称って、『俺』でしたっけ?  ......いつもは、『僕』だった気がするんですけど」  何となく視線のやり場に困り、手元のカクテルをマドラーでくるくるとかき混ぜながら聞いた。 「あー......。  確かに、オフの時はそうかも。  完全、無意識だったわ」  ククッと肩を揺らし、彼が笑う。  いつもとは異なる、砕けた口調。 少し乱れた髪と、悪戯っぽく笑う口元。  視界の端でまた、彼の焦げ茶色の癖っ毛が揺れた。  常とはまるで異なるその姿と立ち振舞いは、何だか僕を落ち着かなくさせた。    そして、その結果。  酔って潰れたのも、酔って絡んでクダを巻いたのも彼ではなく、僕の方だった。  そんなに飲んだ訳でもないのにベロンベロンに酔っ払い、焦点が定まらないまま彼に突っ掛かり、絡み続ける。 「課長はねー、甘過ぎるんですよ!  だから十和子さんが、調子に乗るんです!  ねぇ、何笑ってるんですか?  ......僕、怒ってるんっすよ?」  彼の顔を睨み付け、言ってやった。  でも課長はやっぱり可笑しそうに、ただクスクス笑っている。 「聞いてる、聞いてる。  久米君......マジで酒、弱いんだな。  今度から他のヤツからの誘いは、ちゃんと断れよ」  よしよしと子供をあやすみたいにして、頭を撫でられた。  でもその感覚は不思議と不快ではなく、寧ろ心地よい。  だからされるがまま、彼に頭部を差し出した。

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