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異動者

気がつくと、地面にうつぶせに押さえつけられていた。後ろ手で手錠がかけられている。広瀬は、説明しようと後ろをむこうとした。が、それを抵抗とったのか、肩にかかる力が強くなる。 「あんまり暴れないでくれよ、お兄さん。荒っぽいことしなきゃならなくなるんでな」 後ろから低い声がする。 「落ち着いたら、起こしてやるから」ぐっと、背中にも力をかけられる。 広瀬は、まずいと思った。とにかく説明をする必要はあるのだが、この体勢と周囲の喧騒では、広瀬の言葉が男に届くとは思いにくい。 しばらくして、状況が収まってくると、男は言葉通り、広瀬の上から身体をどかせ、彼の襟首をつかんで乱暴に立ち上がらせた。そのまま、腕をつかみ車に引きずっていきそうになる。広瀬は、少しだけ足に力をいれて、その場にとどまろうとした。 「事情を聞くだけだ」と男は言った。「抵抗すると、面倒なことになるぞ」 男は、広瀬よりはるかに背が高く、体格がよかった。精悍な顔をしている。広瀬とそう年はかわらないだろう。厳しい表情だったが、よくみると目は優しそうだった。これなら話を聞いてもらえるかもしれない。広瀬は、首を横に振った。早く説明をしよう。「あの」やっと声をだせたが、我ながら小さい。 男は、広瀬の口が動いたのに気づいたのか、少しだけ首をかしげる。 「なんだ?」大きな声だ。 広瀬は、息を吸って吐く。自分の顔がこわばっているのがわかる。こういうときには、深呼吸をしてからのほうがいいのだが、男の目が自分をじっとみていると、ますますこわばってしまう。 「あの、大井戸署の方ですか?」 男は、うなずきながら聞いてくる。「ああ、そうだが、それが?これから連れて行くから、詳しい話は大井戸署でする」 「そうではなくて、俺、明日から、大井戸署勤務に異動になった広瀬といいます」なんとか説明ができた。その途端に男の表情が変わる。 「はあ?お前何言ってるんだ?」と言ってきた。 「北池署から大井戸署に異動になりました」と広瀬は再度言った。まずいな、と思う。この男は全く信じていないようだ。それどころかさっきまで少しは優しそうだった目が完全に怒りをたたえている。 「ふざけんなよ。薬でもやってるのか。冗談にしても、度が過ぎるぜ」そして、力づくで広瀬を引きずろうとした。腕をつかむ手が食い込み、かなり痛い。 このまま大井戸署にこの格好で連れ込まれたら、後が大変だ。もし、また、異動ということになっても、行き先がないかもしれない。ここはなんとかこの男に頼むしかない。 抵抗していると、別な男が走ってくる。メガネをかけた細身の若い男だ。 「東城さん、どうしました。大丈夫ですか?」と聞いてきた 「おお、宮田。こいつ、ふざけたこといいやがって、しばらく、ぶちこむから、車回してこい」と東城と呼ばれた男が答えた。 宮田、という刑事は広瀬をじろじろみる。「ふざけたことってなんですか?」 「北池署から大井戸署に異動になったものだっていってるんだ」 宮田は広瀬を見た。じろじろと顔を見られる。彼は東城にいった。「東城さん、それ、あながち嘘じゃないかもしれません」 「はあ?」 「昨日の夜、高田さんが言ってたんですけど、異動者が来るかもしれないって。それと、北池にすごい美形の刑事がいて異動になるらしいって小耳にはさみましたよ」 それを聞いて、東城は黙った。彼は、おもむろにポケットに片手をいれると、電話を出してかけた。しばらくすると相手がでる。「高田さんですか?すみません、お休みのところ。実は今、明日、大井戸署に異動になるといいはってる男に会ったんですけど。はい、はい、名前」東城は、広瀬に言う。「お前、名前は?」 「広瀬です。広瀬彰也」 「身分証」と東城がぶっきらぼうにいう。 「内側の胸ポケットの財布に免許証を入れています」 「宮田」東城はあごをしゃくった。 宮田は、広瀬の胸ポケットから財布から免許証をとりだした。名前と顔を確認し、東城に示す。 東城は電話口で免許証の名前を告げた。そして、なんどか返事をしていて、電話を切った。彼は、広瀬の腕を強くつかんでいた手を乱暴に放し、手錠をがちゃがちゃとはずした。ドンと肩をつきとばされる。「どういうつもりだ?」さらに怒っていた。「危ないだろうが、あんなところで急に飛び出してきて、このバカ」、とののしられる。「北池じゃあ、そういう教育をしてるのか?命令なしで勝手に行動していいと?」 広瀬は、相手の剣幕に返事ができなくなる。なにか答える必要がありそうだ。今の東城の言葉を否定すべきなのか、あやまるべきなのか。自分の行動の説明をすべきなのか。 黙っていたことがさらに東城を怒らせたのだろう。なにか怒鳴られた。が、ふと、東城の空気が変わった。 「お前、その血自分のか?」 首に手をのばされる。東城の眉間にしわがよっている。触ると、確かに血がでていた。だが、たいしたことはない。 「さっきので刺されたのか?」 「かすっただけです」 「かすったにしては傷が深いぞ。病院に行けよ」と東城が言った。「明日、事情をきくからそのつもりで」そして、宮田と一緒に去っていった。

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