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『彼』のこと
君塚は大井戸署にある刑事部の一番の若手だ。まだ、配属されて1年とたってはいない。仕事は雑用も多く忙しいが面白いと思っている。
『彼』に初めて会ったのは、『彼』が大井戸署に異動してきて3日目のことだった。『彼』が異動してきたとき、君塚は丁度若手の研修で大井戸署を離れていたのだ。
研修の最終日に同期の友人が、今度お前の署に移動になった男は騒ぎをよくおこす有名人だと教えてくれた。今回も何かわからないが問題があって異動になったらしいという噂だった。
乱暴な先輩の強引な捜査に引きずり回されるのは嫌だなあと思った。想像していたのは、身体が小山のように大きな人相の悪い男で声や態度が大きいというステレオタイプな悪役だった。
研修後の朝、久しぶりに大井戸署に行くと、何人かは既にきていた。そして、その問題行動の異動者の『彼』について話をしていた。
君塚と組むことが多い先輩の東城がかなり腹をたてていたのを覚えている。勝手な行動、無愛想、会話もろくにできないというさんざんな評価だった。君塚の想像の男は、さらに悪いイメージになった。
だから、最初、『彼』が部屋に来たときには、その話題の人物が当人とは全く思えなかった。君塚は学生のときから柔道をやっていて体型は大きく背も高い。その自分より背が低いのは当然としても、問題行動のわりには全体的に細かった。不思議な灰色の目が大きく鼻筋がとおっている。かなり整った顔だった。それどころか、先入観がなければ美形で、もし街でみたらどこかの芸能人かと思って振り返るだろう容貌だった。口をきゅっと引き結んでいるところは気が強そうだが、それ以外は静かでおとなしそうな人物だったのだ。
『彼』が事務所には行って来たらそれまで噂をしていた東城が口をつぐんだ。そこでやっと、美貌の『彼』が例の問題行動の異動者だと気づいた。自分が抱いていたイメージとの違いに驚いた。
『彼』はあいさつをすると、他の課員や君塚に目をあわせず席につき、さっさと仕事を始めた。その日あいさつ以外で彼の声をきかなかった。そのあたりは確かに問題行動の人物らしくはあった。
その日の夜、東城に誘われ、君塚は仲のよい先輩の宮田と一緒に3人で夕飯を食べた。
東城は君塚より年齢は4つくらい上だ。新人に近かった君塚が大井戸署の刑事部に配属されたときから何でも教えてくれる親切な先輩だ。面倒見がよく、若いわりに大井戸署以外にも顔も広い。書類の書き方、報告の仕方など、全部丁寧に教えてもらった。外部の研修の前などは講師の特徴やポイントを教えてくれるのでいつも助かっている。君塚からすると優しいいい先輩だ。女性によくもてて本人もそれなりに遊んでいるので悪評はあるようだ。
宮田は、メガネをかけている君塚より2歳ほど年上の男だ。東城と仲がよく、しょっちゅう2人で飲みにいったり、女の子のいるところに遊びに行ったりしているようだ。趣味は噂話と仕事の愚痴のような男だ。
宮田が、君塚が研修で不在のあいだに来た美貌の『彼』広瀬がきた時のことを説明してくれる。
駅前の繁華街で、チンピラ同士がいざこざをおこしていたのだ。それぞれチンピラは複数人おり、すぐに警察が呼ばれた。東城と宮田は付近にいたため応援に呼び出されたのだ。
現場では、興奮して刃物を抜くものが一部おり緊張感が高まっていた。状況は一触即発だった。夜間の繁華街で酔客の野次馬も多く、現場は騒然としていた。なんとか落ち着かせて野次馬を遠ざけようとしていた時に、女性の悲鳴がしたのだ。
チンピラの一人が何を思ったのか女性に刃物をつきつけ、人質にとろうとしていたのだ。それをみて、興奮してか別な場所から悲鳴があがる。野次馬もパニックになりかけて収集がつかなくなりそうだった。
その時、急に飛び出して着て女性に刃物を振り回していた男に体当たりをしたのが、広瀬だったらしい。彼は、刃物をもつ手を両手でつかみあげ刃物をとりあげると、地面に倒した。
その行動がきっかけになり、チンピラがお互いに交錯した。刃物が振り回され、殴り合いがはじまった。なんとか全員をひきはなすまでに、相当な時間とけが人がでた。
乱闘の中、東城が、広瀬をとり押さえたのだ。東城は、広瀬をチンピラの仲間か便乗して騒ぐ奴だと思っていた。ところが、押さえつけて手錠をかけた後、ぼそぼそ自分が異動してきたものだと説明しはじめたのだ。
「俺があそこで来なかったら東城さん確実にあいつを痛めつけて、今頃大変なことになってましたよ」と宮田がいう。「俺がとめたからよかったようなものの。あんなに怒る東城さんも珍しいですね」宮田は面白そうにいう。
「そういえば、お前すぐにとめたよな。お前あいつのこと知ってたのか?」東城はややむっとしている。
「直接は知らなかったんですが、みたことのある顔だと思ったんですよ」と宮田がこたえる。「ずいぶん前のどこかの研修で一緒だったんです。むこうは俺のことは覚えてないと思いますけど。あいつは、あの美形だから、かなり有名人でしたよ」
「お前この前から美形、美形って言ってるけど、そんなにか?」と東城が言う。「まあ、整ってはいるが、有名になるほどじゃないだろ」
「東城さん、客観的に見てないんですよ。頭にきてるから、ちゃんとみてないんですって。どこかの交番勤務だったときには、女子高生たちが広瀬目当てに大勢集まってきたらしいですよ。どうみても美形でしょう。北池署の美人っていったら、近辺の関係者はたいてい、ああ、あいつね、って感じになるって、北池の方の連中がいってましたよ。でも、女の子にわいわいいわれても遊びもせずに仕事一筋って感じだったらしいですけどね」最後の方の言葉は女遊びが過ぎる東城への皮肉のようだった。
「へえ」東城は肩をすくめた。「俺からみたら、無表情な冷たい奴にしかみえないがな」
「まあ、あんまり人とかかわるタイプじゃないですけどね」と宮田は言った。
おまけに、乱闘の夜に広瀬は、怪我をしていたのに病院にはいかなかったそうだ。次の日東城が首をみて気がついた。大きな絆創膏を不恰好に数枚はっていただけだったらしいのだ。傷が化膿したらどうするんだ、と東城はさらに怒っていたらしい。
2~3日たつと、君塚には、だんだん問題行動といわれた異動者の人物像がわかってきた。無表情でいることが多い。仕事は熱心だった。無駄口はたたかない。周りがする無駄口をきいてもいないようだ。
ただし、打ち合わせでは人の仕事の話はよく聞いていた。意見を聞かれれば口をひらいた。
仕事以外では誰とも親しく話しをしなかった。当然、食事も昼夜関係なく誰かととることはなかった。
下っ端で幹事をまかされることが多い君塚が、歓迎会をすると広瀬の空いている日程を聞いたら、歓迎会は一切不要だと言われた。
みなさんの仕事を邪魔したくないので、と広瀬は言った。歓迎会は、必ずするものなので、と食い下がったが、何を言っても断られた。
ブツブツ文句を言っていた君塚に東城が「ほっとけよ。どうせ一緒に飲んだって楽しかない」と言った。東城は、飲み会好きで率先して座を設けるほうだが、広瀬との相性は悪く、仕事が遅くなった夜に君塚や宮田をさそう時でも、広瀬を誘うことはなかった。
広瀬も、部署内の飲み会にはなんだかんだ理由をつけてほぼ参加しなかった。よほどそういった会が苦手なんだろう、と君塚は理解した。
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