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第16話 恋する二人の今日は花丸?

 採光の明るい広いフロアに、整然と並ぶデスク。そこではキーボードを叩く音や、電話に応対する声が聞こえている。  まだ記憶に新しいその場所――幸島ファイナンスのオフィスを横目に、天希は前を歩く人の背中についていく。息子に背中で語ると言わしめるだけあって、隙のない広い背中だ。  普段の着物姿も貫禄があるが、スーツ姿もなかなか迫力がある。  オフィスの一角。社長室に入ると、彼は革張りのソファにどっかりと腰かけ、早々に煙草に火をつけた。その様子だけで、かなりのチェーンスモーカーなのがわかる。  部屋の扉が閉まれば、室内には天希と志築の二人きりだ。いくらか慣れてはきたが、やはりこの男と対峙すると、緊張感が湧く。 「しばらくはうちに出入りはするな。あいつのお迎えが来るまで、お前はここで大人しく仕事をしていろ」 「別に、俺はまっすぐ家に帰ったって」  今日は講義を終えてキャンパスを出たところに、黒塗りの高級車が止まっていて、肝が冷えた。伊上の場合は迎えに来ても、大学前に車を止めたりはしない。  人の目、というものをしっかり考慮してくれていた。  志築にしてみれば、天希などにそんな気遣いする必要もないのだが。またこんなことがあると、さすがに変な噂が立ちそうだ。 「悪いがそんなところまで面倒は見きれない。このあいだのように痛い目を見たくなかったら、黙って庇護下に治まれ」 「まあ、伊上にあんまり迷惑かけたくねぇし」 「あいつにいくら迷惑をかけようが、どうしようが関係ない。お前たちは周りに迷惑をかけるな。まったく、だから別れろって言ったんだ」  一方的な言われように、文句を言い返したくなるところだが、言っていることが正論過ぎて、さすがに天希も言葉が出ない。  あの一件以来、二ノ宮は少しピリピリしたムードになっていた。  表向きは身内同士のもめ事、ではあるのだが。奥を覗けば二ノ宮と敷島、組同士のいざこざでもある。  丸く収まったように見えても、二ノ宮は泥を引っかけられたような状況だ。力の大きさ的にはあちらのほうが優位でも、こちらにもプライドというものがある、と先ほど車の中で説教された。  さらには親を引っ張り出す羽目になり、そちらに借りを作る形にもなった。二ノ宮としては天希を抱えて、大損をさせられている、というわけだ。 「伊上はこれまで一分の隙もなかったんだ。別れる気がないなら、お前がどれほど大きな風穴を開けているか、しっかり頭に入れておけ」  煙る紫煙の向こうで目を細められ、天希は背筋が伸びる。いままで付け入る場所がなかった伊上だから、自分を盾に取られた。  なにも言われなくとも、そのくらいは天希にもわかる。  あの時、桂崎が現れなかったら――伊上は膝をつかされたか、もしくは敷島に手を上げていたかのどちらかだ。  どこに転んでも最悪な結果しか想像できない。だからこそ志築まで動かされた。 「このたびは本当に、ご迷惑をおかけしました」 「お前はあそこでも相当な口を利いたそうじゃないか」 「うっ、申し訳ありません」 「口には気をつけろと言っただろう」 「はい、……反省してます」  口から先に生まれた、とはよく言うものだ。自分でも本当にその通りだと、天希はがっくりとうな垂れる。 「次にこんなことがあったら、あいつが泣いてすがっても、別れてもらうからな」 「これって俺が気をつけて、なんとかなるもんなのか?」 「危機感を持てという意味だ。それができないなら、いますぐ別れろ」 「気をつけます」 「……もういい、仕事へ行け」  ふっと興味が削がれたように視線が離れ、天希は逡巡したが黙って部屋を出た。外には強面の男が二人立っていて、入れ違いに中へと入っていく。  しばらく閉まった扉を見つめていたが、立ち止まっていても仕方がないと、天希は人が集まるオフィスのほうへ足を向けた。 「新庄くん、さっそくだけどこれお願いね」 「はい」  以前も使っていたデスクで、パソコンを立ち上げる。仕事内容は前と変わらず、データの打ち込みだ。  足元のラックにファイルが積み重なっていて、随分と仕事が溜まっている。思えば今日は大型連休明けだった。やることはかなり多そうだ。鞄から取り出した眼鏡を装着すると、天希は画面と向き合った。 「でも別れろって簡単に言うけど、別れられないよなぁ、あの様子じゃ」  二ノ宮が緊迫ムードの中、いまのところ二人のあいだで、別れるという話は上がっていない。どころか、その三文字を口にしようものなら、伊上が本気でキレ出す。  少し前に天希が、別れなくちゃいけない日も来るかも、と弱音を吐いただけで、その時は一緒に死んでくれるんだよね? ――と、真顔で言われた。 「伊上ってわりとヤンデレっぽい」  小さなため息を吐きつつ、天希は指先でテンキーを叩く。  スペックからいっても、初心者にハードルが高い人なのだが、自分しか駄目なんだなと思うと、急に距離が縮まり許せてしまうのが不思議だ。 「あー、これ、DVを受けてる人の思考かも」  なんでも許容しようとしてしまう、自分に苦笑いが浮かぶ。しかし彼は天希を傷つけることはないし、天希のためなら傷つくことも厭わない人だ。  そんな人に溺愛されているのだから、幸せというもの。 「ん? ……あ、今日もご機嫌だな」  数字と向き合ってしばらく――机の上に置いていたスマートフォンが震えて、天希はそれを表に返す。届いたメッセージは、現在も恋真っ只中の成治からだ。  最近の彼は、前にも増してキラキラしている。だがそれもそのはず。  ――今日は田島さんとハンバーガーを食べてきました!  ウキウキした気持ちと、ハートマークが飛び出してきそうな文章だ。天希は画面の向こうを想像して、ふっと笑みをこぼした。  ――次はパンケーキだな。  ――頑張ります!  なぜあの堅物の田島が、成治とハンバーガーを食べているのか。それは志築の言っていた処分、が影響している。  元より志築付きの運転手をしていたようなのだが、あの件でお役御免となり、いまは成治の世話役を任されていた。  完全に親としての甘さが表れている処分に思える。おそらく伊上の前に飛び出すほどの、成治の気持ちに動かされたのだろう。  天希としては最悪の結果にならず、ほっとしていた。 「あまちゃん」 「……っ! びびった」 「仕事中なのに、誰に気を取られてたの?」  ふい耳元で声が聞こえて、天希は大げさなほど肩を跳ね上げた。慌てて横を向くと、少しばかり拗ねた様子の恋人がいる。突然の登場はまったく予想していなかった。  それはほかの面々も同じなのか、フロア内に少し緊張感が走った、ように思えるのは、気のせいではない。 「成治、成治だよ。ほら、田島とデートしたって」 「ふぅん、僕はあまちゃんとデートする暇もないのに」  やり取りの画面を向けると、伊上はひどくつまらなさそうな顔をした。その表情に、天希はスマートフォンを裏返して机に戻す。  彼の忙しさは相変わらずだが、その忙しさの原因の八割は天希だった。他人に執着しない伊上が、珍しく本気で囲っている恋人がいると、あちらの界隈で噂は持ちきりだったらしく。  周りが興味津々に見せろと騒ぎ立て、断る代わりに普段しない仕事を引き受けている、と志築が言っていた。  敷島の一件は、噂への興味と伊上への嫌がらせが、度を超した結果だろう、と言われている。  うるさい周りは、桂崎の言葉でほぼ収まったようなのだが、腹いせのようにいまもまだ仕事をさせられているらしい。  これは伊上を顎で使えるまたとないチャンス、なのだとも聞いた。そんな状況を知らされ、天希はあの弱音を吐いてしまったわけだ。 「まだ仕事?」 「いや、今日は終わらせてきた」 「マジで!」 「うん」  無意識に声が大きくなって、天希はとっさに自分の口を押さえるけれど、やんわりと微笑んだ伊上に頭を撫でられ、頬が緩む。  日の明るい時間に、彼が仕事を終わらせてくるのは、かなり珍しいことだ。  一体なんの仕事をしているのか、それはさっぱりわからないが、知ったところでどうなるわけでもない。  こうして迎えに来てくれるだけで、天希は十分だった。 「俺も一通り終わらせるな。もうちょっと待ってて」 「なんだか随分と忙しそうだね」 「大丈夫だって」 「アルバイトの子にこんなに振るほど、みんな忙しいのかな?」  デスクに手をついた伊上が、天希の足元を見て不機嫌そうに眉を寄せた。さらにはわざとらしく、視線をフロア内に走らせる。  その瞬間、顔色を変えた周りの社員たちが、一斉に立ち上がった。 「新庄くん! 俺、手が空いてる」 「私いま超暇だから!」 「え?」  わっとデスクに群がってきた彼らは、あっという間にラックのファイルをさらっていく。空になったそこを見て、天希があ然とした顔をすれば、伊上がデスクに残ったファイルも手に取る。  そうすると小走りに近づいてきた社員が、それも持っていってしまった。 「あまちゃん、仕事ないなら帰ろっか」  満面の笑みで職権乱用した恋人は、この上ないくらい機嫌が良さそうだ。そんな彼を見て、天希は思わず吹き出すように笑ってしまった。  やってることは大人げないのに、あまりにも得意気で腹を抱える。 「もう、あんたはずるいな」 「今日はなにを食べに行く?」 「……いや、今日はあんたの家がいい」 「またなにか作ってくれるの?」 「うん。それとこれ、使いたくて」 「なに?」  不思議そうに首を傾げた伊上に、天希は鞄と一緒に引き出しに入れていた、紙袋を差し向ける。だが中身がわからない彼は、ますます訝しそうな表情を浮かべた。 「誕生日に買ったカップ、割れちゃっただろ。あれ在庫がずっと切れてて、入荷待ちしてたんだ。昨日取りに行ってさ。ほら、いい色だろう。こっちのブルーグレーがあんたので、青いほうが俺の。刻印が一つずつ違うんだけど、これはペアなんだ」  木箱に入っていたマグカップを、二つ取り出して机に並べると、天希は満足そうに笑う。  有名な工房の一点物で、前回とまったく同じ色ではないのだが、それでも独特の風合いは渋くて格好いい。 「……」 「こういうのは、やっぱりあんまり興味ねぇ?」  プレゼントなど、いらないと言われていた。これまで高価なものを腐るほどもらって来ただろう伊上には、つまらないものだったかもしれない。  ふいに沈黙が訪れて、天希は窺うように恋人の顔を見た。 「可愛いが過ぎるって、ほんと罪だよね」 「え? なに?」 「うん、ご飯より前に、君が食べたいな」 「は? またそれ、か……っ」  極上の笑みを浮かべた恋人は、戸惑う天希の顎を掴むなり、躊躇いなく唇を塞いでくる。さらには触れた熱に天希は肩を跳ね上げても、周りがどよめいても、気に留めることがない。  抵抗しようと天希が目いっぱい肩を叩くけれど、まったく離れようとはせず、それどころかたっぷりと口の中を撫でられる。  ようやく唇が離れた時には、天希の顔は茹で上げられたようになった。 「あんた、ほんと馬鹿じゃねぇの!」  それからしばらく、大学生の恋人に懇々と説教をされる副社長の話は、噂のタネになったとかならないとか。  結局のところ二人の関係は、蓋を開ければ天希のほうが手綱を握っている、と言うのは過言ではない。 Sweet☆Sweet ~極甘彼氏を喜ばせる方法/end

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