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閑話:溶けてしまいそうな夏の日/第1話
梅雨が明けて夏の暑さが厳しい七月の半ば。
大学の講義を終えた天希は友人たちと別れ、そそくさとキャンパスをあとにする。脇目も降らずに黙々と歩く彼が向かう先は、いつも決まっていた。
正門を出て最寄り駅とは逆方向へ進み、車通りの少ない裏道に抜け出る。
数分歩いた先にあるのは、利用者が少ないとおぼしき、ひっそりとしたパーキング。
いつ見ても目的の車以外に、駐車されているのは一台程度だ。
七台は駐められるパーキングの周りは閑静な住宅地で、大きな敷地を有する戸建てに挟まれている。片側の家は庭の手入れがずさんなのか、塀を越えて枝葉が伸びていた。
生い茂る葉でわずかにできた木陰、その下に駐まっているのは見慣れた黒の高級車。相変わらず車体に曇り一つなく、間違って傷をつけたら首をはねられそうに思える。
運転席を覗いてみれば、車の持ち主が手元のタブレットから顔を上げた。
「あまちゃん、お疲れさま」
視線が合ったのと同時に、ウィンドウが下りる。柔らかい低音でねぎらってくれるのは、天希の愛おしい恋人だ。
穏やかな細目をさらに和らげて、伊上は腕を伸ばし天希の前髪をすくう。熱気で汗ばんだひまわり色の髪は、しんなりとしているのが恥ずかしいものの、わずか額に触れる伊上の指先に胸が高鳴る。
「乗って」
「ああ、うん」
もうしばらく触れていて欲しい。そんなことを考えていたけれど、さすがに天希もこの暑さには敵わない。視線で促され小走りに助手席へ向かい、車内に滑り込む。
そこはエアコンによって程よく冷やされた空間で、背もたれに沈み込み天希は息をついた。目を閉じ、肌に滲んだ汗がひんやりとした風で冷えていく心地よさにつられ、Tシャツの裾をはためかせる。
「汗、拭きな」
「サンキュ」
後部座席の足元にあるバッグから取り出されたタオル。ふんわり伊上の部屋と同じ匂いが香って、顔に押し当てるとともに天希は大きく息を吸い込んでしまった。
その様子に気づいた隣の恋人は、ふふっと小さく笑う。
「そうやって可愛いことしないの」
「思わず、思わずだよ。ふかふかでいいタオルだなって」
「そういうことにしておいてあげようか」
あからさまに笑いを噛みしめられているのに気づいても、反論をすると墓穴を掘りそうで、ぐっと天希は言葉を飲み込んだ。
その仕草が余計に笑いを誘うのだということは、まったく気づいていない。赤くなっている頬を、誤魔化しながらゴシゴシと顔を拭いて、ついでに前髪も乱雑に乾かした。
「あまちゃん」
汗ばんだ首筋にタオルを掛け、先ほどからまったくブレない天希を見る視線へ目を向けると、まっすぐな伊上の眼差しとぶつかる。
先を伺うような、もの言いたげな瞳を見つめ返せば、伸びてきた指先におとがいを掴まれた。
身を屈め近づいてくる恋人に一瞬うろたえた天希だが、すぐさま目を閉じてその行為を受け止める。やんわりと触れた薄い唇。
すっかり慣れた感触がたまらなく気持ちよく。さらに先を請い、天希は舌先で彼の唇を舐めた。
すると伊上はすぐさま要望を叶えてくれ、深く唇を合わせ何度も角度を変えながら口づけてくれる。口先で唾液がリップ音を立てるのが、静かな車内でひどくいやらしい。
唇もその先にある舌も、あっという間に食い尽くされてしまいそうな、錯覚がした。
忍び込んできた彼の舌に絡め取られ、甘い疼きを覚えて天希はとっさに手を伸ばす。
夏の暑い盛りにもしっかりと着込んだスーツ。その袖をぎゅっと掴めば、感情を煽るように口の中を貪り尽くされる。
喉の奥に溜まった唾液が甘さを帯びて、飲み下すと伏せた天希のまつげが震えた。息が上がって呼気が熱を持ち始めた頃に、ようやく唇が離れる。
瞬いてからゆっくりと視線を上げてみると、唇に笑みを象った恋人が欲を浮かべた目で自分を見下ろしていた。
「思ったより、あまちゃんが不足していたみたい」
「いまにも襲いかかりそうな顔で、そういうこと言うな」
無造作にネクタイを緩める、伊上の仕草にドキリとしてしまい、天希は落ち着きなく視線を右往左往とさせる。確かにこうして会うのは一週間半ぶりだ。
夏休み前で慌ただしい天希と、仕事が立て込んで朝から晩まで忙しい伊上。すれ違いまくりで、今日は隙間時間だった。
――夜にはもちろんそのつもりでいた、いたけれど。
この燦々と太陽が輝いている時間帯は、なんとなく背徳感を覚える。
こちらの出方を測っているということは、天希が引けば恋人は無理強いしてこない。元より嫌がる相手をベッドに引きずり込むような男ではないのだ。
頭の中で色々と考えを巡らせているあいだも、伊上はじっと様子を窺っている。
待てるということは、我慢が限界値ではないはずで、少しは猶予を与えてもらえる可能性が高い。彼が限界突破するとあの手この手で天希を懐柔してくる。
甘やかしなだめすかし、ギリギリのラインでするスキンシップをもって翻弄されたのは、数知れず。
「えーと、晩飯、どうする?」
「リクエストがあるなら応えるよ」
「……前に行った、ちょっとお洒落なカフェレストランっぽいあそこ」
「うん」
「テイクアウト、できたよな?」
「じゃあ、そうしようか。そのあとは、僕のところでいいの?」
おずおずと答えた天希の言葉に、にんまりと笑った伊上は機嫌良さげな顔を小さく傾げる。もはや返事はイエスしかないのでは、と思いはしたのだが、それこそが自分の答え。
問いに天希が頷いて見せたら、口先にちゅっと優しいキスをされた。
そのまま流れる動作で恋人は天希のシートベルトを締め、ぽんぽんと頭を撫でてハンドルに向かう。そこにある横顔は鼻歌でも歌いそうなほど、ご機嫌だ。
十八も年上な彼だけれど、たまに見せるこういう部分がやけに可愛い。
普段の伊上紘一という人を知る人の中で、こんな一面があることを知っている人はどれほどいるのか。そう思うたびに天希は優越感が増して、鼻が高くなる。
人に恐れられるような顔をもっていても、きっとこの側面が本来の彼なのではないだろうか。
もしかしたら他人は天希に対して、本当の顔を知らないのだと言うかもしれない。だとしても自分だけは、恋人の優しさを信じていようと思っていた。
「伊上ってさ、可愛いよな」
「あまちゃんには敵わないけどね」
「え? なにそれ。否定しないってことはありってこと?」
買い物を済ませ、マンションの地下駐車場に車が駐まった。エンジンを切った伊上の横顔を見つめると、彼は何食わぬ表情で笑い、口の端を上げる。
予想外の返答に目をぱちくりとさせた天希は、唇を歪める彼が車を降りるのを見送ってしまった。ワンテンポ遅れて飛び出せば、まっすぐに伸びた背中が離れていく。
駆け足で追いかけて隣に並んで、下から覗き込むように涼しい顔を見上げる。視線の先で楽しそうに笑う伊上は、さりげなく腕を伸ばし天希の腰を抱いた。
「あまちゃんの目から見る僕は、たぶん特別だよね」
「特別?」
「そう。きっと誰も知らない。だから君の目に僕がどんな風に映っていてもいいよ」
それは天希が思っていたことと同じ意味を持つ気がした。特別――その一言がやけにくすぐったく、嬉しくて、天希は隣にある甘い香りがする肩口に頬をすり寄せた。
自分で思うのと、本人に言われるのとでは大きく違うものだ。
「あまちゃん、ご飯はどうする?」
「もうちょっと、あとがいい。先にシャワーしてきていいか?」
「乱入してもいいなら」
「はぁっ?」
リビングに荷物を置き、まっすぐバスルームへ足を向けかけて、天希は勢いよくキッチンを振り返った。保冷バッグを片手にした伊上の笑顔に、返す笑みが思わず引きつったのは言うまでもない。
次の瞬間には顔に火がついたみたいに熱くなり、脱兎のごとく正面を向き走り出した。
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