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エレベーターが見える場所にいたのに、ちょっとスマホに目を落とした隙に、君は目の前に立っていた。
「どうも。お久しぶりです」
やあ、という一言を返そうとして、どうしても声にならなかった。
君は続けて俺の名前を呼んだ。英司さん。
電話でも、さん付けになっていた。ずいぶん前に、引っ越しを知らせるために君から掛けてきた時は、どうだったか。
奥歯を噛み締め、右手で君の腕を叩いて、
「久しぶり」
と、やっと言えた。涙が出そうになるとは思いもしなかった。
店内は軽やかな音楽が流れ、広い空間に話し声とグラスの音と良い香りが満ちていた。
ステージを見下ろす高さのカウンターシートに案内されると、背後で君が、おお、と小さく感嘆の声を漏らす。
正面の壁は一面のガラス張りで、今は冬の暮れかかる空を背景に、高層ビルが薄闇の色を纏って立ち並んでいた。ああ、と君はもう一度、声を上げた。
夕景に見入る君の姿に微笑みを浮かべながら、店員が立ち去る。鞄を肩から下ろしかけて固まっているので手を出した。
「貸して」
「あ、ごめん」
荷物入れに置いてやると、やっとこっちを見て、満面の笑みを浮かべた。
「すごいね、ここ」
子どもの目だ、相変わらず。
凪いだ水面を覗き込んだら、深い水の底のそのまた底が見えてしまったように、きれいで恐ろしい。
君の視線はすぐに夕暮れの空に戻って行く。俺が泣きそうな面をしていたからじゃないといいが。
「さて、お腹は空いてる?」
「普通かな」
「何を飲む」
窓から視線を引き剥がして俺を見た時に、あの頃見慣れていた表情が過ぎった。疎ましげな視線と美しい口元が不均衡な笑顔。でも君が俺に見せてくれる笑顔のうちの一つではあった。
片時も目を離せないようで、君はその後もずっと夕焼けを見ている。演奏が始まる前に、重たげなカーテンが自動で動き出すと、閉めちゃうんだ、どうして?と俺に聞く。
あの家のバルコニーから日暮れ時の海を見たら、どんなに喜んだだろう。夜を迎える時間に力尽きて眠っていた君を、ふと思い出す。
死ぬまであの家を手放さなくて済んだとしても、君を招く機会はもうないのだ。
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