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跳び箱編『第2話』

 今朝のこと。 「はあ……」  学バスから下車しながら、夏樹は何度目かの溜息をついた。  今日は一時間目から大嫌いな体育の授業がある。しかも中間試験代わりの実技テストが行われるというのだ。普通の勉強は得意だけど、運動だけはどうにも昔から苦手な夏樹である。体育の授業は毎回苦痛でしかなかった。  しかもその担当教師が、これまた夏樹の嫌いなタイプで……。 「あっ! 市川センセ、うぃーっす!」 「せんせー、今日の授業何やんだっけー?」  校門付近から明るい声が聞こえてきて、夏樹はふとそちらに目をやった。 「おう、おはよう。今日は跳び箱の実技テストだぞ。みんな、サボるなよー」  スタイリッシュなジャージを来た体育教師が、登校してくる生徒たちと軽く会話を交わしていた。 (うげ……! なんであいつが正門の当番に……)  市川慶喜(いちかわよしのぶ)。二十代後半の若い男性教諭である。爽やか系のイケメンお兄さんとして人気があり、毎年生徒間で勝手に行われている「人気教師ランキング」では、常に一、二を争っていた。  だが夏樹は、どちらかというと市川のことが嫌いだった。 (爽やか系とか言われてるけど、ただのナルシストじゃん……)  ああやって大勢の前にいる時はいいのだが、トイレ等で遭遇すると、鍛え上げた自分の肉体を鏡の前でチェックしていることがある(もちろん上半身は裸の状態)。それだけならまだしも、遭遇した生徒にわざわざ綺麗に割れた腹筋を自慢してくるものだから、余計にタチが悪い。夏樹も、幾度となく彼のシックスパックを見せつけられている。 (というか、あんたの腹筋なんて見たくないし)  女子生徒のいない男子校だからオープンになっているのかもしれないが、ハッキリ言ってドン引きだ。ボディービルダーじゃないんだから、人前で筋肉自慢なんかするなと思う。  更に、市川のことが嫌いな理由は他にもあって……。 「おい、笹野。ちょっと待て」  目立たないようそそくさと逃げ去ろうとしたら、案の定呼び止められてしまった。 「なんですか……」  仕方なく夏樹は、のろのろと足を止めた。この教師は授業中に絡んでくるのはもちろん、用もないのに話しかけてくることが多い。夏樹は市川を苦手に思っているのに、向こうは夏樹を気に入っているようだった。それもまた迷惑な話だ。 「お前、服装が乱れてるぞ。ちゃんとここで直していけよ」 「……はあ」  軽く溜息をつき、夏樹は緩んでいた制服のネクタイを締め直して、はみ出していたシャツを中にしまった。まったく、この程度のことで呼び止めないで欲しい。 「よしよし、ちゃんと直したな。やっぱりそうやってピシッと着こなしていた方がかっこよく見えるぞ」 「……別に俺は、制服をかっこよく着こなそうなんて思ってないですけど」 「でも、だらしないよりはいいだろ? ホラ、服装の乱れは心の乱れって言うし」 「何が心の乱れですか。先生の方がよっぽど乱れてるくせに」 「そりゃあこれが俺の仕事着だからな。スーツ姿で体育の授業はできないだろ」 「そういう意味じゃないです。先生、他の生徒とトイレで……」 「あん? 何の話だ?」 「……なんでもないです。失礼します」  余計なことを口走りそうになって、夏樹はその場から去った。これ以上話していたらもっと話が長くなる。わざわざ苦手な人と話し続けることはない。関わらないのが一番だ。  そう自分に言い聞かせ、足早に教室に向かった。

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