187 / 282
春休み編『第32話』
彼は弟だ。母親は違うけれど、血の繋がった市川の弟だ。
だけどその分、市川のことをなんでも知っている。夏樹の知らないことも全て……。
「どうした、夏樹? 戻らないのか?」
市川に声をかけられ、夏樹は反射的にこう言っていた。
「あ、俺……もう少し散歩してから戻ります」
「そうか? 風邪ひかないように気を付けろよ?」
「……はい……」
小さく頷きながら、夏樹は二人の背を見送った。何故か少し胸が痛んだ。
(……バカだな、俺……)
祐介さんに嫉妬してもしょうがないのに。彼はちょっと足が悪いから、市川も気を遣っているだけだ。俺は健康そのものだから、放っておかれているだけだ。
だから何も気にすることはない……。
「はあ……」
つくばいの水面に白い月が映っていた。それは鹿威しから垂れて来た水滴によって歪められ、ゆらゆらと水面を漂った。
***
翌朝、夏樹たちは早めにお屋敷を発つことになった。
突然お邪魔して泊めてもらっただけでも十分だったし、これ以上長居するのもどうかと思ったのだ。
本当はもう少し市川と一緒にいたかったけれど、彼にも彼の立場があるし、あまりわがままを言うわけにはいかない。
京都駅まで遠かったので、市川が車で送ってくれた。駅近くの駐車場に車を停めるやいなや、翔太が車から飛び出した。
「じゃあ僕、新幹線の切符買ってくるね! 買い終わったら連絡するから!」
そう言い置き、翔太はダッシュして京都駅に消えてしまった。多分、気を遣ってくれたのだろう。
車の中で二人きりになったところで、市川が言った。
「じゃあ夏樹、元気でな。またゴールデンウィークになったら会おうぜ」
「……はい。でもスマホの電波はなんとかしてくださいよ? 連絡取れないのは困りますから」
「わかった、それはなんとかしとくよ」
「お願いしますよ……」
そう言いつつ、夏樹はもじもじと拳を握り締めた。
(もっと言っておかなきゃいけないこと、あるのに……)
ともだちにシェアしよう!