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春休み編『第32話』

 彼は弟だ。母親は違うけれど、血の繋がった市川の弟だ。  だけどその分、市川のことをなんでも知っている。夏樹の知らないことも全て……。 「どうした、夏樹? 戻らないのか?」  市川に声をかけられ、夏樹は反射的にこう言っていた。 「あ、俺……もう少し散歩してから戻ります」 「そうか? 風邪ひかないように気を付けろよ?」 「……はい……」  小さく頷きながら、夏樹は二人の背を見送った。何故か少し胸が痛んだ。 (……バカだな、俺……)  祐介さんに嫉妬してもしょうがないのに。彼はちょっと足が悪いから、市川も気を遣っているだけだ。俺は健康そのものだから、放っておかれているだけだ。  だから何も気にすることはない……。 「はあ……」  つくばいの水面に白い月が映っていた。それは鹿威しから垂れて来た水滴によって歪められ、ゆらゆらと水面を漂った。 ***  翌朝、夏樹たちは早めにお屋敷を発つことになった。  突然お邪魔して泊めてもらっただけでも十分だったし、これ以上長居するのもどうかと思ったのだ。  本当はもう少し市川と一緒にいたかったけれど、彼にも彼の立場があるし、あまりわがままを言うわけにはいかない。  京都駅まで遠かったので、市川が車で送ってくれた。駅近くの駐車場に車を停めるやいなや、翔太が車から飛び出した。 「じゃあ僕、新幹線の切符買ってくるね! 買い終わったら連絡するから!」  そう言い置き、翔太はダッシュして京都駅に消えてしまった。多分、気を遣ってくれたのだろう。  車の中で二人きりになったところで、市川が言った。 「じゃあ夏樹、元気でな。またゴールデンウィークになったら会おうぜ」 「……はい。でもスマホの電波はなんとかしてくださいよ? 連絡取れないのは困りますから」 「わかった、それはなんとかしとくよ」 「お願いしますよ……」  そう言いつつ、夏樹はもじもじと拳を握り締めた。 (もっと言っておかなきゃいけないこと、あるのに……)

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