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第1話 眠れる隣人

 5月の昼下がり、授業時間はとてつもなく膨張していた。 「いいかあ、ここが今日のポイントだ。前回の授業でもちょっとふれたが、16世紀末、フランスはアンリ3世が統治していたわけ だが…」  暁は睡魔と闘いながらどうにか鉛筆を動かそうと努力していた。 どうせ進学などしないのだから授業を聞くのも億劫だったが、卒業できないと困るので落第しない程度には勉強しなくてはならない。 教室のブラインドから差し込む日差しは柔らかく、時折吹き込む風も爽やかだ。 「ここ、大事なところだから線引いとけよ。そういう状態でアンリ3世が暗殺され…」 教師の声は、まるで催眠術のごとく眠りの世界へと誘う。 まぶたがどうにも重く、目を開けていられない。 無駄な抵抗はやめて睡魔に身をゆだねよう、と暁が思ったその瞬間であった。 ぐぅーっと言う音が教室中に響き渡った。 ぐーっ、すーっ、ぐーっ、すーっ、ぐーっ…。 あまりにも規則的に続くその音に、滔々と話をしていた教師も目を丸くしてしばし言葉を失う。 騒音は暁のすぐそばで発生していた。 暁の隣の席にクラス中の視線が注がれている。 突っ伏して寝ているのは、坂下だった。 「すげー度胸。」 誰かがボソッと呟き、級友たちが小波のように笑う。 「またこいつか…。」 世界史教師が呆れたように言い、教壇から降りて来た。 「おい、起きろ、坂下。起きんか。」 チョークでこつこつと坂下の頭をつつく。 はっとして坂下が顔を上げた。 クラス中が爆笑する。 「あ、すいません。」 坂下は教師と周りの反応を見て、状況を把握したらしい。 小さく頭を下げる。 「いいか、坂下。迷惑かけないなら、多少の居眠りはかまわん。しかし、今みたいに鼾をかいたり寝言を言ってまわりに迷惑かけるなら、ほっぽり出すぞ。」 「え、寝言?!」 驚いて聞き返す坂下に、世界史教師はいたずら心がわいたのだろう。 「ママー、おやつーって言っておったぞ。」 大爆笑の渦に包まれ、坂下は目をパチパチとさせている。 世界史教師は教壇に戻ると、ニヤリと笑った。 「ま、寝言は冗談だが、先ほどの続きだ。1589年 にブルボン家のアンリ4世が…」  すっかり目の覚めた暁は、坂下の横顔を伺った。 同じクラスになって1ヶ月が経とうと してたが、ほとんど口を利いたことはない。 世界史の授業に限らず(或いはけだるい午後の授業に限らず)、坂下はいつも寝ているのだ。 まともに意識してその顔を見たのは、初めてだった。 驚いて目を見開いた表情は、なかなか可愛いものだった。 坂下は、一旦は鉛筆を手に取ったものの、再びうとうとと舟をこぎ始めた。 注意されたことをさほど気にした様子はない。 「資料集の29ページを開いて見ろ。 そこに触手儀礼を行うアンリ4世を描いた図が…」 クラスの関心は授業に戻り、既に坂下が再び眠り始めたことに注意を払うものはいない。 暁は何故か授業に身が入らず、坂下の横顔を盗み見ていた。  数日後、暁は図らずも坂下と話す機会を得た。 担任に呼び出され、プリントを渡される。 「お前、これまだ提出してないだろ。」 「進路調査…ああ、忘れてた。未定ってことで。」 「3年生にもなって決まってないなんて、お前なぁ。とにかくきちんと記入して持って来い。あ、もう一人未提出者いたんだ、悪いが坂下にも一部渡して同じこと伝えておいてくれ。」 「あいつ寝てると思うけど。」 「たたき起こして書かせろ。」  押し付けられたプリントを持って暁が教室に戻ると、案の定坂下は机に突っ伏して寝ていた。 「坂下、あのさ。」 反応はない。 「おい、なあ、ちょっと。」 手のひらでぽんぽんと坂下の頭を叩く。 やわらかい癖毛の感触。 「う…ん。」 坂下が顔を起こした。 眠たげな瞳で暁を見上げる。 「なに?」 窓から差し込む陽がまぶしいのか、少し顔をしかめながらさかんに瞬きしている。 「これ、書いて提出しろって。」 差し出されたプリントを、坂下は困ったように見つめた。 寝起きのせいか、坂下の反応は鈍い。 常に成績上位者に名を連ねる『優秀な生徒』にはとても見えなかった。 いずれにせよ、半分寝ているような人間を相手にする趣味は、暁にはない。 暁は席に着くと、筆記用具を取り出した。 プリントに大きく『未定』と殴り書きしたところで、夢から覚めたような口調で坂下が声をかけてきた。 「大野君は、なんて書いたの?」 突然声をかけられ、暁はいささか面食らう。 黙ってプリントを見せると、坂下はくすりと笑った。 「いいね、それ。俺もそう書こうっと。」 坂下は神経質そうな細い筆跡で丁寧に書き込むと、席を立った。 「出してくるよ。ついでに持っていこうか?」 「あ、いいや、俺も一緒に行くわ。」  並んで職員室に向かう途中、特に話題もなく黙って歩いていたが、ふと思い立って暁は坂下に 話しかけた。 「俺の名前、知ってると思わなかった。」 「だって隣の席だよ。」 「いつも寝てて口聞いたことないじゃん。」 くすくす、と坂下は笑った。 「俺がクラスの人間とほとんど口利いたことないのは確かだけど、実は全員の名前と生年月日、 住所がここに入ってるんだ。」 頭を人差し指でとんとん、と叩く仕草をしながら、坂下は暁を見つめた 「まじ?」 天才と何とかは紙一重。 クラスの連中がいつも坂下を指差して影で言っていたではないか。 「なわけないじゃん。嘘だよ。」 坂下は可笑しそうに笑っている。  からかわれて暁は一瞬むっとしたが、坂下の笑顔を見て気を取り直した。 クラスの人間とほとんど口を利いたことがない、というのは事実に違いない。 起こしてまで何か話そうと思うほど親しい人間はいないのだ。 だが、実際に口を聞いてみると、『紙一重的な天才』というイメージとはだいぶ異なる。 こんな風に笑う姿など、誰も知らないのかもしれない。 「同じクラスになる前から、実は名前を知ってたんだ。」 意外な言葉が坂下の口から出てきた。 「風景画見て、いいなって思って。オレンジと紫色の。」 「もしかして去年の文化祭で展示したやつ?」 坂下は黙って頷く。 夜明けの街を描いた作品で、短時間で適当に仕上げた割には、なかなか好評だったものだ。 「美術部ってもっとオタクっぽい人想像してた。」 「すげー偏見。」 同じことを、暁も入部する前は思っていた。 部活など入る気はさらさらなかったが、全員強制ルールで仕方なく入ったのだった。 数名の部員は黙々と作品制作に取りかかるだけで、幽霊部員の暁の存在などほとんど知られていない。 「あの絵、もう一回見たいな。」 「美術室でゴミに紛れてる。そんなに気に入ったならやろうか?」 「ほんと?」 坂下が目を輝かせる。 ほとんどいつも瞼の奥に閉ざされた瞳。 時折目を覚ましても、教室の中で見る横顔のそれは、死んだ魚のように虚ろな眼差しだと思っていた。 まばゆい初夏の光の中、自分をまっすぐ見つめる黒い瞳にそのまま吸い込まれてしまいそうな気 がして、暁は慌てて眼を逸らした。

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