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第12話 夜間飛行

 誰もいない美術室で、暁はスケッチブックを確認していた。 「うーん…」 夏休みに入ってから描いてみたいくつかのデッサンを見比べ、暁はうなった。 色やイメージを膨らませるには、何かが欠けている。 暁はため息をついて頭を振った。 違う、欠けているのではない、自分が掴みきれていないのだ。 もっと観察と描き込みが必要だと思ったところで、美術室のドアががらりと開いた。 「よう。」 もさもさ頭の中年男が入ってくる。 「あ、おはよーございます。」 暁は慌ててスケッチブックを閉じた。 「進んでるか?」 「んー、あんまり。描きたいものはあるんだけど、なんか…。」 「今日は一人か?」 「ん、まあ…。」 雨の日以来、坂下は美術室に来ない。 単なる風邪ではなかったのだろうか。 暁は坂下の様子を思い浮かべる。 「あいつとよく連絡取ったりするのか?」 「坂下のことっすか?」 美術教師の目的が、単なる世間話ではないことに暁は感づいた。 「あいつ、何か?」 「いや、さっき親御さんが来てな、どうもここ何日か家に帰ってないらしい。」 「え?」 「いやな、たかが高校男児が数日居所が分からなくたって、あんな大騒ぎすることないと思うんだがな、女の子ならいざ知らず。」 「もしかして、母親と兄貴が騒いでたんすか?」 暁はいつかの薮内の話を思い出す。 「なんだ、職員室覗いてたのか?ったく、あれがいわゆるモンスターペアレントってやつかって思ったぞ。あ、兄貴もいたからモンスターファミリーになるのか。遠くで見ている分には面白かったがな、加藤先生も苦りきった顔してたぞ、ははは。」 クラス担任の加藤にしてみれば、とんだ災難だろう。 「まあ、笑い事ではないな。あいつ、お前と何回かここに来ていただろう。なんか変わった様子なかったか?」 抑揚のない声、虚ろな瞳。 なのに、物憂げな雰囲気と腫れぼったい顔は、何故か艶っぽく見えた。 変わった様子どころか、何もかもが変だった。 『家には帰らない。』 駄々っ子のように言い張った姿を思い出す。 「特にないですけど……家で何かあったんじゃないんですか?」 暁は用心しながら言葉を選んだ。 「まあな、普通はそう思うだろ。加藤先生もそう言ったんだが、向こうは逆切れしちまってな。 家出する前の晩は本人の誕生日で、ケーキを囲んで楽しく一家団欒していたって言うんだよ。こうなったのも学校の管理不行き届きだ、訴えるって騒いでな。いやはや、恐ろしい兄貴だ。」 坂下の家族像に、暁はなんともいえない違和感を覚えた。 いかにも億劫といった様子で弁当をつつく坂下を見る限り、家族で楽しくバースデーを祝う姿など想像できなかった。 「あいつの兄貴ってどういう人なんすか?」 美術教師の口ぶりからも、相当常軌を逸しているような印象を感じ取り、暁は尋ねてみた。 「鬼みたいな形相だったぞ。口から泡飛ばしまくってた。まあ、黙ってれば女が大騒ぎしそうな、今時のイケメンだけどな、背も高いし。K大医学部のエリートらしいけど、高校の教師なんぞ見下していることを隠そうともせんし、感じ悪いのなんの。とにかく一番関わりたくないタイプだ。」 「ふーん……。」 家族のことについて、坂下の口から一度も聞いたことがなかったことに、遅まきながら暁は気付いた。 もっとも暁自身も、妹のことを軽く話した以外は、あまり触れられたくない話題だった。 「とにかく、俺は心当たりないっす。」 「そうか。」 美術教師は、それ以上坂下のことを訊ねてはこなかった。  結局坂下のことが気になって暁は仕事が手につかず、バイト先で何度も注意を受けた。 「大丈夫?調子悪いの?」 同じシフトのバイト仲間に声をかけられる。 「いや、なんでもないです。すみません。」 「ならいいけど。」 暁はふと思い立ち、聞き返した。 「あの、由美さんって家出したことありますか?」 「ええ?なに、いきなり。もしかして妹さん、家出しちゃったの?」 「いや、違いますけど。みんなそういう時どこいくのかなって。」 「普通、友達の家じゃない?」 「そうっすよね。」 坂下に、泊めてくれるような友人がいるとは思えなかった。 「あ、そう言えばこの前チケットありがとうございました。」 「ああ、どうだった、デート?退屈しなくて良かったでしょ?」 「うん、広いですね、何でもあるし。時間なくて全部回りきれなかった。」 実際には、アミューズメントパークのにぎやかな雰囲気が坂下には合わなかったが、好意はありがたかった。 「あたしの彼、あそこでバイトしてるの。割引券、またもらってきてあげるよ。」 暁はふと閃いた。 「そういえばあそこ、24時間営業でしたっけ?」 「ああ、そうかもね。」 いくら金を持っていても、明らかに未成年の坂下がホテルにでも連泊しようものなら、不審を招くのがオチだ。 だが、あのような場所なら坂下もさほどは目立たないだろう。 一度足を踏み入れたことのある場所ならば、なおのこと坂下がいる可能性は高い。 バイトが終わるや否や、暁はアミューズメントパークへと急行した。 深夜だと言うのに人は多い。 「ねえねえ、一人?」 ゲームセンターにたむろしていた派手な化粧をした女の子たちが、暁をナンパする。 インターネットカフェの一角には、くたびれた感じの年配者も少なからずいた。 坂下は拍子抜けするほどあっさり見つかった。 「お前でもそういうの読むんだな、意外。」 暁はオープンスペースで漫画を読み耽る坂下の隣に腰を下ろした。 坂下が目を丸くする。 「あれから家に帰ってないんだってな。」 暁の問いに、坂下は困ったような顔をして頷いた。 「ずっとここで寝泊りしていたのか?」 「……夜はね。シャワー浴びたり。することないから、漫画読んでた。あっちの端からはじめて、この棚の3段目まで来た。」 「どれが面白かった?」 「さあ。」 沈黙が続く。 暁が聞かない限り、坂下は自分から話す気はなさそうだった。 「ちゃんと寝てるのか?」 「うん、昼間は公園の芝生の上とか。図書館のソファも冷房効いてて、よく眠れる。教室より快適かも。」 少なくとも顔色は悪くない。 それ以上会話は続かず、坂下は漫画本のページをパラパラ漫画のようにめくって弄んでいる。 「そう言えば、妹が参考書ありがとうって。」 暁は当たり障りのなさそうな話題を振った。 「ああ、あんな使い古しでよかったのかな?」 「下手な塾行くよりよっぽどいいって喜んでた。」 「そう。妹って暁に似てる?」 「全然。物分りいいし、すげえ頭もいいんだぜ……って、お前ほどじゃないけど。」 「別に、俺は……。」 ふと暁は思いついた疑問を口にした。 「お前、なんでうちのガッコ来たわけ?お前だったらもっと上のランク、行けたんじゃない? 付属とか坊斐津高の特進とか。」 坂下の顔が引き攣ったが、一瞬のことで暁は気付かなかった。 「受けたよ、坊特。白紙で答案出した。」 「なんで?」 坂下が目を逸らす。 「兄貴と同じ道を進みたくなかった。」 坂下の表情は強張り、暁はそれ以上何も聞く事が出来なかった。 一時の親密さは、今や影を潜めていた。 「……まだしばらく帰らないつもりか?」 結局沈黙に耐え切れず口を開いたのは、やはり暁だった。 坂下が家に帰るかどうかなど、本当はどうでも良いことだった。 暁が聞きたいのはそんなことではなかった。 知りたいのは、坂下が背負っているもの、坂下の瞳に暗い影を落としているものの正体だった。 「帰るよ。準備も整ったし。」 「準備?」 坂下はゆっくりと頷く。 「そうだ、これ。」 坂下はバッグから一通の封筒を取り出した。 「預かっててくれる?失くすといけないから。」 淡い水色の封筒には『河本クリニック』と印刷されており、封には割印が押してある。 暁は、坂下をタクシーで病院まで連れて行ったときのことを思い出した。 繁華街の外れにあるビルに、あまり目立たない看板が出ていた。 結局タクシーを降りたところで別れたが、あの時の体調と家出に関連があるのだろうか。 「折ったらまずい?」 「かまわないよ。」 暁は封筒を丁寧にたたみ、ポケットへと仕舞った。 中身は何かと問いただしたら、坂下が遠くへ行ってしまいそうな気がした。  坂下は朝を待ってから帰ると言い、暁を見送りに一緒に店の外へ出た。 信号は既に点滅しており、車の往来も途絶えていた。 昼間とは違うざわめきが、眠りに着いたはずの街を揺らしていた。 街路樹がバサバサと音を立てる。 「風が強くなってきたね。」 空気が湿っていた。 「台風が近づいてるらしいけど。」 風の音を聞きながら、暁は胸騒ぎを覚えた。 坂下の肩に触れたとき、坂下が振り向いた。 「ね、俺のこと、好き?」 暗い街灯の下で、表情は良く見えない。 「ああ。」 友達としてではない。 暁がそう言おうとした時だった。 坂下はほとんど聞き取れないような、ささやくような声で言葉を発した。 「俺、俺のこと、もし……抱い……言ったら?」 風が吹きつけ、坂下の声を遮る。 「ああ?ごめん、よく聞こえな…」 「またね。」 坂下は踵を返し、走り出した。 暁は追いかけなかった。 ポケットに仕舞った封筒にそっと手をやる。 生温かい風が、木々を、そして暁の心をざわめかせながら吹き抜けていった。

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