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第13話 夏の終わり

暁の時間は止まっていた。 美術室に足を運び、ただぼんやりと座って過ごす。 絵は描かなかった。 スケッチブックを開くことさえしなかった。 毎日、暁はほぼ同じ時間に美術室のドアを開けた。 そして誰もいないのを確認する。 待てども待てども、坂下は来なかった。 ネットカフェで別れたきり音沙汰はない。 言葉通り翌朝家に帰ったのかも、定かではない。 暁は何度か店を覗いたが、そこに坂下らしき姿はなかった。 坂下と夏休みを一緒に過ごす約束をしたことが、今となっては記憶違いのように思われた。 坂下という存在そのものが夢だったような気さえしてくるのであった。  厳しい残暑の続く中、新学期が始まった。 坂下の席は空いていた。 「よ、久しぶりじゃん。」 薮内が、クラスメイトの工藤と連れ立って暁に話しかけてくる。 「うーっす。」 「坂下のこと、何か聞いてる?」 「何かって?」 最初に坂下の話題を振られ、暁はどきりとした。 「いや、まだ来てないじゃん。普段は朝イチに来て机で寝てんのに。」 「……今日が始業式ってこと忘れてるんじゃないか?」 「お前と一緒にするなよ。それより、工藤が妙なこと言うから…。」 「あのさ、俺んち…」 工藤が言いかけたところで始業ベルが鳴り、担任が教室に入ってきた。 話の腰が折れたまま、工藤と薮内が席に戻る。 「きりーつ、ちゅうもーく…」 暁は気もそぞろに、他の生徒たちに合わせて挨拶をした。 隣は空席のままだった。 「お前ら、元気そうだな。いつまでも夏休み気分でいるなよ、受験生なんだからな。では、出席を取る。青木…井上…」 担任は坂下の名前を呼ばなかった。 教室にいないことを予め知っているようだった。 「……以上、朝の連絡終わり。」 「先生!」 薮内が手を挙げる。 「坂下君は今日、欠席ですか?」 「ああ…」 担任はすこし決まり悪そうな様子で、出席簿を扇子代わりにさかんに胸元を扇いでいた。 「坂下はしばらく休むかもしれん。先日、家に不幸があったそうだ。あまり詳しくは言えないが。」 教室が一瞬どよめく。 それ以上の質問を避けるように、担任は足早に教室を立ち去っていった。 「お前、何も聞いてなかったの?」 薮内の問いかけに、暁は頷いた。 「ずっと会ってないし。」 「ほら、俺の言ったこと、嘘じゃなかったろ。」 工藤が会話に割って入る。 「嘘もいいとこだろ、縁起でもないこと言うなよ、馬鹿。」 「工藤は何か今回のこと、聞いてたわけ?」 「いや、こいつ今朝いきなり坂下本人が死んだみたいなこと言うから。」 薮内が工藤の頭を小突く。 「俺んちの姉貴、あいつんとこの病院で看護師してんだよ。この前、院長先生のところの息子さんが事故で亡くなったらしいって言うから、俺てっきり…。」 暁は坂下の言葉を思い出した。 『兄貴と同じ道を歩みたくなかった。』 坂下の家族構成を、暁は知らない。 だが、坂下の言う『兄貴』が、薮内や美術教師から聞かされている人物と同じであることは、間違いないと確信していた。 他に兄弟がいるとは考えられなかった。 「ってことは、あの兄貴か?」 薮内も暁と似たようなことを考えたようだった。 「何の事故だったんだろうな?」 「ねーちゃんから何か聞いてないのか?」 「葬式は内輪でやるから、みたいなこと言われたって。」 担任が歯切れ悪く多くを語ろうとしなかったことに、合点がいく。 「そういうタイプには見えなかったけどな。」 やはり同じことを察したらしい薮内が呟いた。 「暁にはそれらしいこと、メールとかで言ってきてないわけ?」 薮内に問われ、暁は今更ながらに気がついた。 「メールなんてしたことない。そもそもあいつ、スマホ持ってんのかさえ確かめたことない。」 メールアドレスやスマートフォンだけではない、よくよく考えれば、坂下について暁が知っていることなど、ほとんどないのだった。  閑静な住宅街の中で、一際大きな外壁に囲まれた住宅。 表札を確かめながら、暁はインターフォンを鳴らす気にはなれなかった。 広々としたガレージには、ステンレスグリルのシャッターが下りている。 2台分のスペースの片側には、磨き上げられたベンツが停められていた。 白亜のバルコニーからは、色とりどりの花が覗いている。 分譲住宅とは明らかに異なるモダンで洒落た建築は、『死』などという不幸とは無縁のように見えた。 だが、同時にそれは住んでいる者の気配さえも感じさせない家だった。 花や緑があるにもかかわらず、その家は造花で飾られたモデルルームか何かのように無機質だった。 暁は足許を見つめた。 ズボンの裾には泥がこびりついており、履きつぶしたスニーカーには穴が開いている。 「この家に何か御用?」 帰ろうと思ったところで、背後から声をかけられた。 ぎょっとして振り向くと、両手にスーパーの袋を提げた中年の女性が立っていた。 恰幅がよく、豪邸の雰囲気とは対極にあるような生活臭をまとっている。 医者の奥さん的なセレブの雰囲気はない。 かといって、派手な色の髪の毛や化粧は、家政婦にも見えない。 「あ、いえその、俺、高校の…あ、やっぱいいです、すいません。」 「もしかして直人くんの高校のお友達?」 「ああ、はい…。」 「まあ、わざわざ。どうぞ上がってお線香上げていってって言いたいところなんだけど、ごめんなさいね、今はちょっとこの家、そういう状態じゃないのよ。」 「すいません、こんなときに。」 「こちらこそせっかく…あ、そうだ、直人君なら呼んで来てあげるわ。」 「あ、別に用事はないんで…」 「いいからいいから、ちょっと待っていてちょうだい。」 いつの間にか暁はすっかり謎のおばさんのペースに乗せられていた。  坂下の自宅から10分ほど歩いたところにある公園まで、二人は足を伸ばしていた。 「わざわざ来てくれるなんて、驚いた。」 坂下がはにかんだような笑顔を浮かべる。 「工藤の姉ちゃんがお前んちの病院に勤めてるってんで、場所調べてもらった。」 暁は言い訳でもするような、歯切れの悪い口調になる。 相手の都合も考えず自宅まで押しかけてきたことの気まずさと、立派な家に気後れして立ち去ろうとした後ろめたさで頭はいっぱいだった。 とりあえず何かを言わなくては、と暁は焦る。 『お悔やみ』とか『ご愁傷様』などといった言葉が断片的に浮かんだが、正しい使い方が分からなかった。 「思ったより元気そうで安心した。」 言ってから暁はしまった、と思った。 坂下の表情が翳る。 無神経な言葉だった、と後悔した。 「うん、元気だよ、かなり。母親は滅茶苦茶だけど。」 「こういうことがあれば、家族は参って当然だよな。」 「そう……かもね。でも俺は…」 ベンチに腰掛けていた坂下の足許に、ボールが転がってきた。 「すいませーん。」 坂下はキャッチボールをしていた少年たちにボールを投げ返した。 「そういえばさっきの人は?」 勝手知ったる様子で家に入っていったが、坂下の母親ではなさそうだ。 「ああ、おばさん。母の姉だって。ここしばらく、何かと世話焼きに来てるんだ。」 「大変だな。」 「別に。」 坂下はキャッチボールする少年たちを見つめていた。 その横顔は、空々しい慰めを拒否していた。 暁は言葉を続けることが出来ず、ただ黙って坂下の横に座っていた。 やがて、坂下が口を開いた。 「ね、ホテル、行かない?」 「…えっ!!」 思いもよらぬ言葉に、暁は一瞬思考が止まった。 よほど声が大きかったのか、そばの草むらを飛び跳ねていたすずめが数羽、いっせいに飛び立っ た。 暁の反応に、坂下は自分の言葉の持つ意味に気付いたのだろう、顔を赤く染め、慌てたように首を振る。 「ご、ごめん、俺、何わけ分かんないこと言ってんだろう?」 「……家に帰るのが嫌なのか?また家出か?」 「違う、そういうんじゃない、その、話がしたかったんだ、邪魔の入らないところで。」 「ネットカフェとかカラオケの個室は?」 「周りに人がいて落ち着かない。その…自分が取り乱しても他人に見られずに済むようなところがいいなって…。」 「だからって、こういうときに帰らないのはまずいと思うぜ。そうまでしなきゃいけない話なのか?」 坂下は思いつめたような表情で頷く。 「一泊じゃなくていい、『休憩』でいいから…」 『休憩』のあるホテルがどういう場所なのか、坂下は承知の上で自分を誘っているのだろうか。 「当て、あんの?」 「いくつか調べた。」 暁は坂下の真意を見抜こうと、正面から見つめた。 坂下は頬を染めたまま視線を泳がせた。 「バイトがあるから今からは無理だけど、明日、学校サボるから。それでいいなら。」 「うん。」 からかわれているのだろうか。 後悔しないだろうか。 暁は自身に問いかける。 自分はどうしようもない馬鹿かもしれない。 坂下の真意を測りかねながら、それでも暁は坂下を放っておくことができなかった。

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