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第16話 デッドエンド②
テストの点数でも打ち明けるような口調だった。
『殺す』という剣呑な言葉からは程遠い、淡々とした声音。
怒号と嵐のような暴力が、暁の中でよみがえる。
『人殺し、このガキ、俺を殺す気か?!』
胸の奥に仕舞いこんでいた感情がざわめいた。
「俺の場合、男だから強制わいせつ罪なんだって。」
「え?」
「女の人だと、強姦罪になるんだけど。どっちにしても親告罪だって。」
「シンコク…」
「自分で告訴しないといけない。」
「ああ……その親告か。」
「でも、警察はちょっとね。調べたらそこまでしなくても、内容証明くらいでもそれなりの効力があるって分かってさ。ストーカー被害とかでもよく使うみたいだし。 ほら、俺の場合一生をキズモノにされたとかってのとは違うじゃん。妊娠するわけでもないしさ。警察沙汰は大げさだなって思って。」
まるで試験勉強でも教えるかのように、坂下は暁に説明する。
「診断書、もう一通取ってたんだ。それ同封して、やられたことの事実確認と、今後一切自分の周囲には近づかないようにって書いただけなんだよ。本気で告訴すること考えてたわけ じゃないんだ。そんなことしたって、誰も俺の言い分なんて信じないと思うし。」
暁はなんと言ってよいか分からず、ただ黙って坂下の話を聞いていた。
「そしたらさ、首吊っちゃった。」
「……」
「逆ギレして電話かけてきた。脅迫なんてどういうつもりだって。今まで拒否したことなかった、合意だったくせに、卑怯だって。」
「何言ってるんだ、薬使ってレイプするほうがよっぽど卑怯だろ!」
坂下の兄のあまりにも理不尽な言い分に、暁は怒りがこみ上げた。
「俺も同じこと思った。だから、死んじまえって言ってやったんだ。」
ふっと坂下は息を漏らした。
「ほんとに死んじゃうなんて…。」
坂下の行動はもっともなことだと思った。
暁は身体が震えるのを感じた。
衝動的な怒りではなく、底冷えのする憎悪が体中を駆け巡っていた。
その感情をぶつけるべき相手が既にこの世にいないことが、一層許せない。
「その場にいたら、自殺なんかする前に俺が、俺がこの手で引き裂いてやったのに…」
坂下は泣き笑いのような笑みを浮かべて首を振る。
「どうでもいいよ、もういない奴のことなんか。」
坂下は羽織っていたベッドカバーを落とし、身につけていた最後の一枚を脱ぎ捨てた。
「それよりやろうよ、暁だってそのつもりで来たんだろ?」
「おい、お前自分の言ってること分かってるのか?」
「分かってるよ、暁よりもずっと。お互い本気になるのはなし。後腐れなく楽しもう。暁は好奇心で俺を抱いて。俺はあいつにやられたことを忘れるために抱かれるから。」
「坂下!」
「先にシャワー浴びる?」
「いい加減にしろ!お前、できるのかよ、そんなこと。ほんとにそんなこと望んでるのか?」
「ずっと望んできたことだよ!文句ある?それとも気持ち悪い?」
絞り出すような、わななく声。
「そんなこと言ってない。だけど、自分の傷に塩をすりこむようなマネ…」
くくっ、と坂下の口から乾いた笑いが漏れる。
「ばっかじゃん、傷なんて、女じゃあるまいし。強いて言うなら、まずいもの食っちゃったから、美味いデザートでも食べて口直ししたいっていう気分?」
坂下は自嘲的に言い募る。
「あいつ、へったくそでさ、そのくせしつっこくて最悪。優しくするとか言っておきながら、途中からもうこっちの都合もお構いなしで、無茶苦茶にやりまくってさ。次の朝、歩くのもやっとだった。もし俺のこと、『可哀想』って思うならちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃん。あんな奴の事、忘れさせてよ。」
ひきつった笑みを浮かべる坂下の瞳は昏く、何も映っていない。
「それともさ、汚いからやだ?他の奴に汚されたような奴、抱く気になれないかな?しかも近親相姦とかって、やっぱえぐいよな。」
「そういうこと言ってるんじゃない、俺の目をきちんと見て答えろよ。」
暁は力任せに坂下の肩を掴み、揺さぶった。
だが、坂下の瞳は覗き込むたびにするりと逃げ出す。
まるで水に映った月のようだった。
「お前の考えてること、俺は理解できない。」
「いいんだよ、理解しなくて。暁と俺の間には、そんなものいらないんだ。心なんてつながってなくたって、セックスくらいできるだろ。暁がしてくれないなら、今すぐホモの出会い系サイトに登録して、誰でもいいから…」
パン、と派手な音が部屋に響いた。
勢いで、坂下の身体がシーツの上に崩れる。
暁は、坂下が許せなかった。
自分に投げつけられた言葉に腹が立ったのではない。
坂下が自分の傷を抉り、自らを貶めるようなことしか頭にないことに、そしてそのことに暁を利用としようとしていることに、行き場のない怒りを感じた。
断れば、坂下は本当に見ず知らずの人間に体を差し出すだろう。
それも、一番最低な相手を選ぶに違いない。
暁は、坂下の身体に跨ると、最初に打ったのとは逆側の頬を、今度は手の甲で張った。
Tシャツを脱ぎ捨て、噛み付くようなキスをする。
「滅茶苦茶にしてやるよ。」
耳に囁く。
「それがお前の望みなんだろ?」
何も生み出さない、二人の間にあるものを確かめるでもない行為。
それなのに暁の身体は既に興奮していた。
ジーパンと下着を下ろし、硬くなったペニスを坂下の下半身にこすりつける。
「体の向き、変えろよ。」
こんな形でなど望んでいなかった。
放課後の教室で、真夏の美術室で、心を寄せ合っていたと思っていた。
どこか儚げで翳を抱えた友人を、守りたいと思っていた。
それなのに今、暁はどうしようもないほど欲情している。
怒りに任せ、坂下が正気を失うまで犯したい衝動に駆られている。
坂下の顔をとても正面から見ることなどできず、暁は手荒に坂下をうつぶせた。
まっすぐ伸びた背骨、浮き出た肩甲骨。
滑らかな肌は、まだ足跡のついていない雪原を思わせた。
襟足から覗く白い首筋に、暁は歯を立てた。
「あ……」
びくりと坂下の身体が跳ねた。
細い腰を引き寄せ、尻を持ち上げて割る。
体の奥深く閉ざされた場所に、暁はいきり立った欲望を押し付けた。
「ま、待って…」
坂下の身体が逃げようとする。
そこは硬く暁自身を拒んでいた。
「まだ、無理……濡らして広げないと…」
「黙って脚開けよ。」
挿入が思うように行かないことに苛立ち、暁は強引にペニスをねじ込もうとした。
その瞬間、坂下の身体は渾身の力を込め、暁を跳ね除けた。
暁は忌々しく舌打ちをした。
「嫌なら最初から人のこと誘ってんじゃねえ…」
半身を起こしながら言いかけたところで、暁ははっとした。
坂下は真っ青な顔で身体を折り曲げたまま震え、ぜえぜえと激しく喘いでいる。
「おい、大丈夫か。」
坂下は答えることが出来ず、顔を苦痛に歪めていた。
「……い、き…できな……」
過呼吸の症状だ。
「ちょっと待ってろ」
部屋を見回したが、役に立ちそうなものはなかった。
洗面台でシャワーキャップを見つけ、ないよりはマシと坂下の口にあてがった。
しばらく肩を抱きしめ様子を見ていると、やがて坂下の発作はおさまった。
身体は冷え切り、顔は土色になっていた。
「横になって。」
暁は枕を整え、坂下の身体を横たえると毛布をかけた。
「ごめん、俺、最低だ。」
「…違う、謝るのは俺のほう…だよ。」
まだ荒い息の下から、坂下が弱弱しく呟いた。
「自分で望んだことなのに、なんでこんなふうに…」
力の入らない拳で、シーツを叩く。
「あんなこと、無理矢理されたら屈辱だ。まともでいられるわけがない。」
「だけど、あいつの時は平気だった!死んでしまいたいくらい嫌だったのに。」
ぜえぜえとした息の下から、坂下は泣きながら声を荒げた。
「なんで、あいつとはやれたのに、やられても平気だったのに、なんで暁とするときになって、こんな風になるんだよ?!だったらあのときに…」
激昂して坂下が叫びだす。
「落ち着け、な。また過呼吸起こすから。」
「俺、あの時何度もいかされた。」
坂下は泣きながら、シーツに、枕に、何度も拳を叩きつけた。
「レイプされたのに、アヘアヘ言ってよがって、それで飽き足らずに自分からこうやって男誘って、ねだってるんだぜ。」
「言わなくていい、坂下、もう何も言うな。」
「なんで抱かないんだよ、俺のこと好きだって言ったくせに…」
「好きな奴を苦しめるようなこと、できるわけないだろ。」
「嘘だ、本当に好きなら無理にでも抱きたいと思うはずだ。なんで途中で止めたんだよ、暁は俺のことなんて…俺のことなんて、嫌なんだ。汚いから、人殺しだから、俺がどうしようもない嘘つきで、恥知らずの変態で…」
一度言葉を口にすると、坂下はもはや自分を止められなかった。
暁にはどうしようもないことを、一方的に責めて当り散らしていることは分かっていた。
だが、理性など欠片も残ってはいなかった。
自分など壊れてしまえばいい、と坂下は思った。
なりふりかまわず手を伸ばした、たった一つの望みさえ叶わないなら、はじめから存在しないほうがよかった。
いっそ暁と出会わなければ、こんな思いなどせずにすんだのに。
温かな腕が、毛布の上から坂下の身体をそっと抱き取った。
「平気だったなんて言うなよ。そんな目に遭わされて、平気でいられるわけない、ボロボロになってる。だけど、それはお前のせいじゃない。」
だが暁の言葉は、坂下の心に染み込むことなく、虚しく空を漂うばかりだった。
暁の腕の中で、坂下はまるで自分の心が体から抜け出してしまったように感じていた。
全ての感覚が麻痺しているようだった。
暁の腕の中で、坂下の体は力なく崩れ落ちる。
握りしめた拳から力が抜けていった。
――夢など見なければ良かった……。
虚無に浸食された心の奥底で、坂下は耳を塞いで蹲る。
手を伸ばさなければ良かった。
教室の片隅で横顔を見つめているだけで幸せだったはずなのに。
なぜその先を求めてしまったのだろう。
暁の腕の温もりなど、知らないほうが良かったのだ。
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