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第18話 うつろう季節
一体どんな顔をして坂下と会えば良いのか。
暁は憂鬱な気持ちで学校へ向かった。
あんな別れ方をした後で、何事もなかったかのように席を並べて過ごすことなどできるだろうか。
だが、そんな暁の思いは杞憂に終わった。
坂下は学校に来なかった。
1週間が経ち、2週間が経っても、暁の隣は空席のままだった。
一度、薮内が声を上げた。
『先生、坂下君はどうしてるんですか?』
『ああ、家族が亡くなったんだから、いろいろと大変なんだろう。様子を見ているところだ。』
担任は慎重に言葉を選んでいるようだった。
やがて季節は衣替えを迎えた。
バッグに丸めて入れたままクリーニングに出すのを忘れ、ひと夏を越えた冬服を、暁は部屋の片隅に見つけた。
黴臭い上着に袖を通しながら、暁は季節が変わったことを実感した。
クラスはピリピリした受験の空気をまとい、暁は完全に締め出されていた。
「お前、どうする気だ?いつまでも進路未定じゃ困るんだよ。」
担任が苛立った口調で決断を迫る。
いっそ学校を辞めてしまおうか、という思いが暁の頭を過ぎった。
坂下と別れて以来、何もかもが無意味に思えた。
だが、それでも暁は学校もバイトも、目的もなく通い続けた。
惰性だったが、ひとたび日常を踏み外してしまえば、人間はどこまでも転がり堕ちてゆくものだと言うことを、暁は痛いほど分かっていた。
10月も半ばのある日、アルバイトを終えて家に帰ったところで、暁は違和感を覚えた。
妹が部屋から出てこない。
夕食のコンビニ弁当を食卓に置き、妹の部屋を覗く。
「聡美、寝てるのか?メシだぞ。」
「うん…」
部屋から出てきた妹の姿にはっとする。
右肘と両の膝にガーゼがテープで巻きつけてある。
泣きはらしたように目が赤い。
「おい、何があった?!」
「転んだ。」
「ちゃんと答えろよ。あいつか?」
聡美はしばらく沈黙した後、頷いた。
「今日、あいつ学校に来た。」
「何しに?」
「あたしのこと、しばらく学校休ませるから、その間の給食費返せって。」
「はあ?」
「先生たちが追い払ってくれたけど、酔っ払って絡んだり怒鳴ったりして、恥ずかしかった。帰ってきたら、アパートの前で待ち構えてて、カバンひったくられた……。怪我はそのとき転んだから、嘘じゃないよ。」
「金取られたのか?」
「小銭しか入ってなかったから大したことないよ。銀行のカードはすぐ電話して止めてもらったし。カバンはそこの公園に捨ててあった。」
「親のすることかよ……」
坂下は台所に向かい、包丁を手に取る。
「ちょっと、お兄ちゃん何するつもり?どこ行くのよ?」
「どうせパチンコ屋にでもいるんだろ、あいつぶっ殺してくる!」
「止めてよ、そんなこと!」
「何で止めるんだよ?なんであいつのこと庇うんだよ?」
「庇ってなんかないよ、あんな奴!だけど、そんなことしたらどうなると思ってるの?」
泣きながら妹に飛び掛られ、もみ合いになったところで、玄関の戸がどんどんと叩かれた。
「ちょっと、今何時だと思ってるの?警察呼ぶよ!」
近所からの苦情に、暁も妹もはっとする。
市営の集合住宅は壁が薄いのだ。
「すみません、なんでもないです。」
慌てて妹が玄関口に出て謝った。
すっかり気を削がれた暁は、食卓に腰を下ろした。
「食おうぜ。」
弁当の一つを、妹に差し出す。
「うん。」
二人で黙々と弁当をつつく。
「……あのね。」
不意に妹が沈黙を破った。
「実はお兄ちゃんに話があったんだ。最近、お兄ちゃんずっとピリピリした雰囲気で、ちょっと切り出しにくかったんだけど。」
「なんだ?」
「高校、坊斐津高校の特進科に進もうと思うんだ。」
「あそこ、男子校だろ?」
「来年から女子も受け入れるんだって。坊特って特待生制度があるの、学費免除の。寮に入らなきゃいけないんだけど、生活費とかも出してもらえるんだよ。」
「寝言は寝てから言えよ。」
「寝言じゃないよ。特待生ってもともとは、うんと田舎の通えない生徒とか対象らしいけど、先生があたしのこと推薦してくれるって言ったの。もちろん特待生用の試験をパスしなきゃいけないけど、この前の模試だってあたし県で9番だったん…」
「いい加減にしろよ。」
暁は思わず叫んでテーブルを叩いていた。
感情が抑えられなかった。
『兄と同じ坊特には行きたくなかった。』
坂下の言葉がよみがえる。
「あそこがどんな場所か分かってるのか?勉強のし過ぎで頭のイカレた連中だらけなんだぜ。」
実際、有名大学への進学率は名だたるものだが、脱落者や自殺者の噂も少なからず聞こえてくる。
「じゃあ、お兄ちゃんはどんな場所か知ってるっていうわけ?噂で何が分かるのよ?それとも知り合いがいるの?いたって1人2人でしょ?入ってみなきゃ分からないじゃない。」
妹に反論され、暁は言葉に詰まる。
「勉強ばかりって悪いことみたいに言わないでよ。勉強したってしなくたって、お父さんみたいなクズは世の中いっぱいいる。あたしは勉強好きだからするし、そのせいで性格が歪んだりしてないはずだよ。」
暁は忌々しく舌打ちをした。
妹の言っていることが正しいのは分かっている。
だからこそ一層腹立たしい。
「インド人だってカーストとか貧困から抜け出すために猛勉強して、IT企業に勤めてる人がたくさんいるって。」
「ここは日本だ。何がインド人だ、カレーでも食いすぎたんじゃねーか?」
「茶化さないで。自分で人生を切り開こうとすることの、何がいけないの?あたしたちだって、このままじゃずっとあいつに人生滅茶苦茶にされちゃう。子供は親を選べないんだから。あいつと縁切りたかったら、あたしたちがここを出ていくか、そうじゃなかったらあいつが死ぬの待つしかないんだよ。」
「分かってるなら、なんでさっき止めたんだよ?!あの時だってお前が…」
したたかな勢いで、暁の顔に何かがぶつかった。
顔についた米粒と食卓に散らばった惣菜から、それが食べかけの弁当だと気付く。
「てめえ、何すん…」
「お兄ちゃんに人殺しして欲しいって、思ってるわけないでしょうっ!!」
妹は激昂し、泣き叫んでいた。
「あたし、ずっと怖かった。いつかお兄ちゃんがお父さんのこと殺しちゃうんじゃないかって。そしたら、本当に取り返しがつかなくなる。あんな男死ねばいいって、死んじまえっていつもいつも思ってるよ、だけど、お兄ちゃんに人殺しになって欲しくない。」
しゃくりあげる妹に、暁は無力感と罪悪感でいっぱいになる。
自分は大切な人間を追い詰めるだけで、守ることさえ出来ないのだ。
「…っく、あた、あたし、この家を出るから。お兄ちゃんもあたしのためにここに縛られることないの。自分の好きなように生きて。お父さんに振り回されることないんだよ。お兄ちゃんが無理してたの、あたし、知ってたよ。お父さんのせいとか、あたしのためにとか、そういうことでお兄ちゃんの人生をダメにしないで。あたしは、あたしのために生きるの、自分勝手だって思うけど、だけどそうするって決めたの、だからお兄ちゃんも……」
結果的に、暁は妹と一つの約束をした。
妹は受験に合格する、暁も高校だけは卒業する。
いっそ高校を辞めてアルバイトに専念しようかと思ったが、妹がそれを許さなかった。
何もかもが中途半端だった。
坂下の『居場所がない』という言葉を思い出した。
坂下と別れ、なし崩しに絵も描くことを止めてしまった。
妹は自分の進むべき道に既に向かっている。
学校も美術室も、住んでいる家さえも、気がつけば暁の居場所ではなくなっていた。
自分をどこかに繋ぎとめてくれる存在が、何一つない。
暗い宇宙に放り出されたような気分だった。
バイト先へ向かおうと、自転車を一足漕ぐごとに風が吹き付ける。
いつしか外は木枯らしが吹く季節へと変わっていた。
寒い、と暁は思った。
温かいものが欲しかった。
自分を温めてくれるものが無性に恋しかった。
自分自身に問いかける。
この世に自分を必要としてくれる人間が居るのだろうか。
答えなど分からない。
冷たい風が心の中まで吹き荒んでいた。
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