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第19話 噓と静寂
「いらっしゃいませー。」
機械的に発声しながら、暁は商品を陳列棚に並べていた。
「…のくん、大野君!ちょっと…」
自分の名前が呼ばれたのに気付き、はっと振り返る。
店長が咎めるような視線を、片方のレジから送っていた。
その拍子に、並べていた商品が肘に当たり、床に散らばる。
「あ、今レジ入りまーす。」
慌てて菓子パンを拾い集める暁の横を、奥でトイレ清掃をしていたアルバイト仲間の女の子が足早にすり抜けた。
「お会計お待ちのお客様、先に並んでいた方からこちらにどうぞ。」
レジの奥に向かって軽く頭を下げると、ウインクが返ってきた。
「由美さん、さっきはどうも。」
店を上がろうとする女性に、暁は声をかけた。
「ドンマイ。お互い様。それより、仕事終わるの10時?」
「あ、はい。」
「明日学校休みでしょ。ちょっと付き合ってよ。そこのファミレスで待ってるから。ごはん食べていこ。」
アルバイトが終わると、暁は待ち合わせ場所に向かった。
先日バイトのシフトを交代してくれたお礼、と言われ、暁は食事をおごられた。
「急だったのに代わってくれて助かった。」
「風邪、もう大丈夫すか?」
「えへへ、風邪じゃないの。」
「え?」
「彼とね、別れた直後で、どうしても仕事できる精神状態じゃなかったの。」
「ああ、そうなんですか。」
なんと言ってよいか分からず、暁は間抜けな相槌を打った。
「お互い、うまくいかないね。」
「え?」
「うまくいかなかったんでしょ。」
「ああ、まあ……。」
女の勘は恐ろしい、と暁は思った。
とても隠し事などできない。
「すいません、せっかくクーポンいろいろもらったのに。」
「いいのいいの、それよりさ、パーッとカラオケでも行かない?クーポンあるんだ。」
「いいっすね。」
暁はすこし可笑しくなって、くすっと笑った。
「前から思ってたけど、由美さんてクーポンマニア。」
「そ。デートするにはお得な女なのよ。」
カラオケに行き、ひとしきり盛り上がった後、誘われるままに暁は由美のアパートへとなだれ込んだ。
妹へ連絡を入れなかったことを思い出し、少しだけ気が咎めたが、やがて一人で家を出る決意をした相手なのだから一晩くらい平気だろう、と思い直し た。
「由美さん、一人暮らしなんだ。実家は遠いの?」
「うーん、通おうと思えば通える距離なんだけど、どうしても一人暮らししてみたくて、家飛び出ちゃった。」
「不良娘じゃん。」
「あー、大野君に言われたくなーい。だいたい、高校卒業したらもう『不良』なんて言わないよ。」
「由美さんってどこの専門学校通ってるんだっけ?」
「医療事務。前にも言ったじゃん、もう。」
由美の部屋で缶ビールを空け、暁は饒舌になる。
気楽でいい、と思った。
由美は何かと話題を振り、よく笑った。
取るに足らない話題なのに、不思議と会話が弾んだ。
のらりくらりと人の話をかわすばかりで、つかみ所のない坂下とは違う。
坂下と話をしていると、暁はいつも落ち着かない気分になった。
坂下の目に見つめられると、何もかもを見透かされているような気になった。
薄汚れた欲望も、野蛮で粗野な性根も、隠そうとするもの全てを露わにされているような気がした。
と同時に、逆に何故か言葉のまったく通じない異邦人と話をしている気分になることもあった。
まるで見えない壁が自分と坂下を隔てているかのようだった。
誰も守ってくれないガラスの城で、生き延びるためには自分を閉じ込めるしかなかったのだろうか。
スピーカーから聴こえる歌詞に暁は耳を止めた。
「この曲、さっきカラオケでも歌ってたね。プリズナーってなんだっけ?捕虜?」
「ああ、そうね、囚人とか…prisoner of loveだから、愛の虜とかそんな意味?」
「日本語にするとちょっとエロい。」
ロングヘアから覗くピアスの光る耳元に、口を近づけて声を低くする。
「やだ、もう…ほら、歌詞見る?」
由美はスマホの画面を暁に差し出した。
暁はその手を掴んで引き寄せる。
由美は抵抗することなく暁の胸に倒れこんできた。
汗の混じった甘い香水の匂いにほっとする。
腕に感じる、柔らかな弾力のある体。
女相手なら、こんなに楽なのに。
そう思うそばで、歌詞が耳に突き刺さる。
“平気な顔で嘘をついて 笑って…”
「どうかした?」
「音楽ジャマ。消して。」
「いいけど…」
「ついでに電気も暗くしようよ。」
「えー、あたし平気だけど。」
「暗いほうが雰囲気出るじゃん。」
嘘をついた顔を、暁は見られたくなかった。
自分はどこまで卑劣で小心者なのだろう。
目を閉じても、耳を塞いでも、相手が坂下になるわけではないのに。
最低だ。
暁は自分自身に唾を吐いた。
寂しさから由美に甘え、裏切っている。
弱さから坂下を見放し、裏切っている。
何よりも自分の気持ちを誤魔化し、自分自身を裏切っている。
どうしようもない自己嫌悪に駆られる。
自分は坂下を見捨てたのだ。
坂下は自分の無味乾燥な日常を変えてくれた。
それなのに暁は、坂下を受け止めることから逃げ出してしまった。
消したはずの音楽が、いつまでもリフレインする。
喉の渇きを覚え、暁は目が覚めた。
昨夜飲んだビールのせいだ。
暁はベッドの下に無造作に脱ぎ捨ててあった服の中から、Tシャツとトランクスを身につけ、台所に向かった。
裸足にフローリングの床が冷たい。
水切りかごからマグカップを取り出し、水道水を汲んで一気に飲み干した。
ふーっと息を吐く。
柵のはまった窓の外は薄暗かったが、遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。
「なに?トイレ?」
寝ぼけ眼で、ベッドから身を起こした由美が声をかけてきた。
「あ、うん……朝日が見えるかなって思って。」
「えー…そっち北じゃない?ねむ…。」
のそのそとベッドに潜り込む由美を横目に、暁は服を着込むと部屋を後にした。
夜明け前の冷気に、思わず身震いする。
東の空が白みを帯びていた。
暁は夜明けの空の美しさを知っていた。
どれほど心が荒もうと、夜は必ず明けるのだ。
母親が病院で息を引き取った夜。父親を半殺しにして補導された夜。
何もかもが取り返しつかないと思うのに、それでも朝は訪れた。
そのことを坂下に伝えたいと思った。
自分が一緒に朝日を見たいのは、由美ではない。
坂下でなくては駄目なのだ。
坂下は相変わらず一睡もせず、部屋に籠もって兄の亡霊に怯えているのだろうか。
空が淡いオレンジ色に染まる。
暁は坂下に無性に会いたかった。
坂下を朝日の当たる場所に連れ出したかった。
薄紫から朱色にうつろう空の色を、澄み切った空気を、生まれたての景色を見せてやりたい。
坂下は暁の描いた朝焼けを好きだと言っていた。
本物の朝日は、暁の稚拙な絵などとは比べ物にならないくらい、素晴らしいのだ。
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