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第20話 聖なるかな

 部屋では山下達郎のクリスマスソングが地獄のようにエンドレスでかかっていた。 「なあ、罰ゲームじゃないなら、コレいいかげんやめようぜ。音楽いらねーよ。」 暁はうんざりして薮内のスマートフォンに手を伸ばす。 「ダメーっ!今日は俺にとことん付き合うって言っただろうよぉ。」 「じゃせめて音楽替えて」 「『女々しくて』でいい?」 「もう、好きにしろ。」 クリスマスの夜、暁は薮内の部屋でからまれていた。 「ああ、俺達って本当に寂しい男だよなぁ。灰色の青春。」 「お前と一緒にするな。俺は誘いを断ってきたんだぜ。」 嘘ではない。 暁は、由美に『イブの日、バイト終わったら会えない?』と声を掛けられていた。 『ごめん、俺、友達んちに行く約束してて…』 一夜を共にして以来、気まずさから由美を避け、バイトのシフトも終わる時間を合わせないようにしていた。 由美が起きだす前に黙って帰ったことは、やり逃げとなじられても仕方がなかった。 由美のことは嫌いではない。だが、坂下のいない心の隙間を埋める代わりにはならない。 勢いで寝てしまったことを暁は後悔していた。 その上、けじめもつけずに相手から逃げ回っている。 自分はどこまで最低な男なのだろう。 薮内に、彼女に振られたからクリスマスは自分に付き合え、と言われて暁は内心ほっとしていた。 「んでさ、彼女にちょっとずつ距離を置かれている感じがしてたわけよ。でも、受験勉強に真剣に取り組みたいのかなー、とか思ってるうちに、向こうに新しい男がいつの間にかいてさ…」 薮内は部屋でチューハイを飲みながら管を巻いている。 「ああ、俺のどこがダメだったんだろ。」 「もっといい女が現れるって。」 嘘ではない。薮内には、心変わりなどせずに彼の想いに応えてくれる、ふさわしい彼女が現れるはずだと暁は思った。 そして、由美にも本気で付き合う誠意ある男が。 「お前はどうなのよ?」 薮内が話を暁に向けた。 「だから、お前のために今日は断ったって。」 「じゃなくて、坂下。連絡とってないわけ?」 「なんでそこで坂下が出てくるんだよ。」 「いや、どうしてんのかなーって思ってさ。」 暁は缶ビールをあおった。 「なあ、お前らなんかあった?坂下の家のことだけじゃなくてさ。」 「なんもねーし。」 「あっそ。」 薮内は、暁がバイト先から持ってきたフライドチキンに齧り付いた。 「俺は振られたの、正直に話したのに、お前は何にも言ってくれないのな。」 珍しく薮内が食い下がる。 「話してなんて頼んでねーし。こっちも隠してるわけじゃねーし。」 「あーっそ。」 「……」 「……」 暁は缶ビールを口に持って行ったが、中身はもうなかった。 薮内もチューハイを飲み干し、手持無沙汰なようだった。 「…坂下がお前に本気だったの、気づいてなかったわけじゃないだろ?」 「よせよ。俺はホモじゃない。」 薮内の言葉に、暁は不機嫌そうに返すのが精一杯だった。 「そりゃそうだ。俺のセクシービームにもなびかなかったし。」 「何がセクシービームだよ。」 鼻で笑う暁に、薮内はV字開脚をすると「セクシービーム!」と叫びながらブッと放屁した。 「うわ、最悪。お前まじサイテー。」 わっはっはっは、と薮内が笑い転げる。 「どうだ、参ったかー!」 「何がセクシーだよ、失礼だろ、セクシーに謝れ、土下座して詫びろ!」 暁も薮内につられて笑い転げる。 「はは、は…冗談は置いといてさ、坂下って暁といるときだけ、笑うんだよな。それも、ふーっと消えちゃいそうな切ない感じの笑いっていうか。」 「もう覚えてねーし。それよりお前のほうこそ、いっつも俺に付きまとって、イブまで俺と過ごそうとか、俺のことどんだけ好きなわけ?」 「そりゃー、めっちゃ好きに決まってるだろ、マブダチだし。おえ、口に出して言うと気色わりー。」 「はは、気色悪いよな、やっぱ。」 薮内は軽くため息をついて、暁を正面から見つめた。 「暁さ、茶化さないで聞けよ。まあ、俺も悪ふざけしてるけど。俺さ、中学のころからずっとお前のこと親友だと思ってきた。お母さんが亡くなったこととか、親父さんが無茶苦茶なこととかいろいろあって、昔みたいに一緒にバスケやってた頃には戻れないけど、暁がどんどん荒んでいくのを見てるのは辛かったんだよな。」 暁は肩をすくめた。 誰にもどうしようもないことだった。 少なくとも薮内は最後まで自分から離れずにいてくれた。 「坂下と暁ってちょっと似てるんだよ。」 どこが、という暁の心の声が聞こえたのか、薮内は、「あ、見た目は全然違うから」と付け足した。 「なんか、雰囲気っていうか空気っていうか。諦めてるだろ、どうせみんなと同じにはなれないって壁を作ってて。そもそも周囲に交わろうって気もないんだろうけどさ。孤高、とかそういうの?」 「…そういう上から目線のつもりはねえよ…」 「うん、わかってる。俺さ、ほかの連中より付き合い長いぶん、暁のことよく知ってるわけじゃん。暁がどういう苦労をしてきたかとか、事実としては知ってるわけよ。でもさ、そのせいで暁の心がどんだけ抉られてきたかって、結局想像でしかない。本当の意味で解ってるわけじゃないんだよね。」 「そこまで理解しなくていいって。」 どうせ、他人なのだから。言いかけた言葉を飲み込みながら、暁は後ろめたい気持ちになる。 自分は薄情で、薮内の友情に値する人間ではない。 「坂下はさ、そういう暁の内面を共有しているように見えたんだよね。あいつもいろいろ抱えてそうな感じだったし。暁だって、坂下と一緒にいると、精神的に安定して見えたけど?」 「お前ってお節介な、ほんとに。」 「俺、他人のことにかまけてる余裕、本当はないのにな。受験生だし、彼女には振られるし。うっうっうっ。」 「泣くなって。ヤブにはもっといい彼女ができるから。明日からちゃんと受験勉強しろよ。大学に行けば、お前の良さをちゃんと理解する女に絶対出会えるから。それに、まともな親友もできる。俺みたいなゴロツキじゃなくてさ。」 「暁ぁ、そういう哀しい言い方するなよぉ。」 大学生になれば、薮内には薮内の新しい世界が始まる。 離れるのは当然だ。 だからこそ今、薮内の誠意に向き合わなくては、と暁は思った。 「ヤブ…俺、坂下のこと見捨てたんだ。坂下はさ、俺よりもずっと重たいもん背負ってて…苦しんでるの分かってたのに、俺は逃げ出したんだ。」 「暁…」 実の兄に性のはけ口にされ、凌辱されることが、どれほど坂下を打ちのめしたか。 苦悶、屈辱、悲憤――どれほど言葉を並べたところで、想像は及ばない。 薮内の言うとおりだ。 悪夢はそれで終わらない。 肉体に受けた傷は毒のようにじわじわと魂に浸み込む。 坂下はどんな気持ちで診察台に横たわったのだろうか。 診断書を自分に預けたときの胸のうちを、暁は推し量るべくもなかった。 坂下は一人で闘っていた。 自尊心を取り戻そうとあがいていた。 それなのに、兄と対峙することさえ、坂下には叶わなかった。 坂下には、自分が最後の砦だったのだ。 藁にもすがる思いで手を伸ばしてきたのだろう。 もしあの時、乞われるままに犯していたら、坂下の忌まわしい記憶を塗り替えることができたのだろうか。 そうは思えなかった。だけど、何が正しかったのか判らない。 坂下自身、どうしたいのか解っていなかった。 自分の求めるものが救いなのか罰なのかも解っていなかった。 そして、自分は何もしてやれなかった。 それどころか、抱え込んで癒えないまま膿んだ傷口を暴き、引き裂きいたのだ。 暁は苦渋を噛み締める。 薮内に問い詰められなければ、その事実にさえ目を背けたままだった。 「坂下に取り返しのつかないことをした。どうするべきか判らなかった、なんて言い訳でしかない。俺のやったこと知ったら、お前きっと軽蔑するよ。」 「暁…」 「なんで俺、ヤブが俺にしてくれたみたいに、見守って寄り添うことができなかったんだろうな。最低過ぎる。」 坂下は今頃、どんな思いで過ごしているのか。 「そんな…ごめん、俺、そういうつもりじゃ……」 薮内はそれ以上言葉を続けず黙りこむ。 部屋の中で、山下達郎だけがひたすら歌っていた。 「ヤブ、俺そろそろ帰るわ。寄るところあるし。」 「ああ、うん。付き合ってくれてありがとな。」 「俺のほうこそ。話聞いてもらえたし。お前の気持ちも…」 きちんと礼を言わなくてはならないのに、「ありがとう」と言うことさえまともにできない。 だけど、薮内には甘えても良いのだ、と暁は思った。 薮内は暁の弱さをずっと分かっていた、ありのままの自分を受け入れてくれていたのだ。 暁は自分が薮内にずっと甘えていたことに今更ながらに気づいた。 道が分かれても、自分が踏み外さなければ再び交わる日が来る。 もっと大人になっ たときに、薮内に感謝の言葉を伝える日がきっとくる。 薮内は待っていてくれる。 薮内の前で強がる必要はないのだ。 暁は、薮内に別れを告げると、バイト先のコンビニに向かった。 裏の出入り口でバイトから上がった由美を待ち伏せる。 「あれ、どうしたの?」 「ちょっと話があって。」 「うん。何の話かわかる気もするけど。」 暁は頭を下げた。 「由美さん、ごめん。俺、やっぱサイテーだったと思う。付き合うつもりないのに、ああいうこと…」 「いいよ、誘ったのあたしだし。お互い様だよ。」 「殴っていいです。」 「グーで?」 「グーで。」 覚悟を決め、歯を食いしばろうとしたところで由美が笑いだす。 「やめてよね、西の狂犬を殴りつけたなんて、彼氏どころか嫁の貰い手なくなっちゃう。」 西の狂犬―中学時代、荒れていた暁につけられたあだ名だった。 「由美さん、なんでそれ?」 「あたしの従弟、西中出身なの。卒業アルバム見せてもらったことあるんだ。なんでそんなあだ名つけるかなー、全然狂犬じゃないのにね。あははっ」 「俺がつけたんじゃないっすよ。勝手につけられた。ずいぶん噂も盛られたし。噂も聞いてるんだろうけど、半分は嘘ですよ。」 「あはは、可哀そう。もう吹っ切れたから、これ以上避けないでよ。楽しく一緒に仕事しよ。」 「…はい。」 暁はなぜか少し泣きたいような気持になった。 自分の周囲は、常に敵意に満ちていると思っていた。 酒とギャンブルに溺れた父親にも、何も知らずに悪意ある噂をまき散らす周囲にも、少しの隙も見せることはできなかった。 常に虚勢を張って生きてきた。 本当の自分は、こんなにもちっぽけで、無力な人間なのに。 今ならその事実を受け入れることができる。 自分は弱い人間で、だけど弱くても隠す必要はないのだ。 ふと見上げると夜空に音もなく雪が舞っていた。 天使もサンタも存在しない。 世界には憎しみしかないと思っていた。 だけど自分は孤独ではない。 妹に店の残り物のケーキでも買って帰ろう、と思い立つ。 いつまでも今の状態でいるわけにはいかない。 年が明けたら、立ち止まるのをやめ、前に進まなくては、と思った。

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