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第21話 灰と塵
気がつけば年は明けていた。
喪中の坂下家には、クリスマスも新年もなかった。
世間で何が起こっているかなど、坂下にはどうでもよかった。
兄が死んだとき、この家の時間は止まってしまったのだ。
『年も明けたことだし、そろそろ部屋を明け渡して欲しい。』
不動産屋からの連絡を受け、坂下は初めて年が明けたことを知ったのだった。
兄の暮らしていたマンションの一室は、死後もそのままになっていた。
母親は激昂した。
『家賃だってちゃんと払ってるじゃない、一体何が問題だって言うの?』
思いやりの欠片もない、と母親は泣いた。
『お気持ちは察します。だけどお宅のためを思って申し上げているんですよ。』
苦りきった不動産屋に、珍しく家にいる父親が加勢する。
『いい加減にしなさい。いつまでも部屋を残しといたって、意味はないだろう。私も同意した。契約を解除した。』
『あの子の存在してた証なのに、無意味ですって?あの子は私が腹を痛めて産んだ子なのよ、それをよくもそんな残酷なこと……。』
『落ち着いて考えなさい。こんな状態、雅人だって望んでなんかいないだろう。』
『やめて、なぜあなたはそうやって私を追い詰めるのよ、私の辛さなんてどうせ分からないくせに!もう勝手にして!なんて酷い人なの!』
坂下は部屋に閉じこもり、何も聞こえないふりをした。
死んだのが自分だったら、母親はあのように取り乱しただろうか。
ふと浮かんだ問いに、坂下は自ら首を振る。
今の自分だって、半分死んでいるようなものだ。
結局兄の住んでいたマンションは、叔母と坂下で片付けることになった。
数ヶ月ぶりに家の外に出て、坂下は身を切るような寒さに驚いた。
冬の寒ささえ、坂下は忘れかけていたのだ。
兄のマンションは、贅沢な作りのワンルームだった。
広々としたフローリングの中央には落ち着いた色のソファとラグが配置され、別の一角にはダブルベッドが置かれていた。
誰も住んでいない割には、埃がほとんどない。
そう口にすると、叔母が月に一度は掃除に訪れていたことを告げた。
「掃除機かける程度だけどね。」
叔母は静かに言った。
「管理人さん、あたしのこと坂下家の家政婦って思ってたみたい。」
窓を開け、部屋の空気を入れ替えながら外の景色に目をやる。
「本音を言うとせめて最後の片づけくらいりっちゃんにもここに来て欲しかったな。」
本人がいないところで母親のことを名指しして何かを言うのは、この叔母には珍しいことだ。
「部屋を引き上げるのにあれだけ反対してるのに、それを望むのは無理だと思いますけど。」
坂下は皮肉っぽく答えた。
「うーん、片付け云々の問題じゃなくてね。そんなに大事な部屋ならなおのこと、家賃払ってほったらかし、じゃなくて、自分の足でお花の一つでも持ってきて欲しかったの。可愛がってた息子でしょ。ほとんど面識なかったあたしみたいなのが掃除しにきたって、雅人君は喜ばないと思うのよね。」
死んだ人間に喜ぶも悲しむもないのに、非現実的なことを言う人間だと坂下は思った。
「そういうこと考え付く余裕もないんだと思います。ここ数ヶ月、まともに思考してない。あの人は兄を溺愛していましたから。」
「……お母さんは、あなたのことをお兄さんほどは愛してなかったって思ってる?」
核心を突く叔母の言葉に、坂下は何も言い返せない。
叔母も自分が何気なく発した言葉の意味に気付き、気まずそうな顔をした。
「あ、大きいものは業者が午後引取りに来る手はずなんだけど、それまでこまごました物片付けましょ。あたしは本棚片付けるから、直人君は服とか抽斗の中身お願いね。あ、でもその前にまず管理人さんに挨拶してくるわね。」
来る途中の駅ビルで買った菓子折りを携え、叔母はそそくさと部屋を後にした。
一人になり、坂下は改めて兄の部屋を見回した。
ダブルベッドには、色違いのカバーを付けた枕が二つ。
マグカップや食器類、スリッパに至るまで全てがペアで揃えてあり、そのうちの片方は使った様子がない。
『二人で一緒に暮らそう』
兄の言葉がよみがえる。
坂下は衝動的にマグカップを床にたたきつけた。
音を立て、破片が飛び散る。
心臓がドッドッドッドッと鳴り響き、呼吸が荒くなる。
全身に脂汗が滲み、坂下は襟元に手をやった。
自分の肌をまさぐる兄の手の感触が生々しくよみがえり、嘔吐感がこみ上げる。
視界の片隅に入った欠片を反射的に拾い上げ、握り締めた。
鋭い痛みが手のひらに走り、手放しかけた意識を取り戻す。
呼吸が落ち着つくと拳をゆっくりと開いた。
血が滲み出し、ズキズキとした痛みにおそわれたが、反対に心は鎮まっていく。
坂下は息を吐くと、ティッシュで傷口を押さえ、絆創膏を探した。
バスルームわきの収納扉を開き、中身を探った。
消毒薬や市販薬と一緒に、白い紙の袋が目に留まる。
銀色のシートに包まった錠剤が束になって入っていた。
中身を確かめると、袋ごと自分のバッグの底にそれをしまい込んだ。
それから坂下は猛然と片付けに取りかかった。
ペアでそろえられたものを、次々とゴミ袋に投げ入れた。
過去もこんな風に捨てられたら良いのに、と思った。
思い出も何もかも、捨ててしまいたかった。
叔母はおいしそうな匂いのする袋を抱え、帰ってきた。
「もうこんな時間。お腹すいたでしょ、食べましょ。」
差し出されたのはファーストフードだった。
懲りないおばさんだ、と坂下は思った。
叔母は家に顔を出すたびに、様々な食糧を買い込んでくる。
その大半が添加物だらけの惣菜や菓子だった。
坂下の母親ならば、まず買わないような代物だ。
母親は、叔母の目に入ろうが気にとめる様子もなく、袋ごとゴミとして捨てている。
それを意に介す様子もなく、叔母は何かと食べ物を買ってくるのだった。
「どうぞ。」
坂下は差し出されたハンバーガーを見つめた。
叔母は既に食べ始めている。
炭水化物、脂質、塩分、コレステロールに添加物。
体に悪い、と母親が常に排除してきた食べ物を果たして食べるべきかと坂下は迷い、やがてその馬鹿馬鹿しさに気付いた。
長生きなどしたいと思わない、それどころかすぐにでも自分の人生を投げ出したいと思っているのに、健康を気にする人間がどこにいるだろうか。
坂下はまだ温かい包みを開けると、齧りついた。
パンの甘みと肉汁が口の中に広がる。
美味しい、と坂下は思った。
くどい味つけも脂っこさも、坂下の食欲を刺激した。
「これもどうぞ。」
がつがつと食いつく坂下に、叔母がポテトを勧める。
手を伸ばしかけたところで、坂下は母親の言葉を思い出した。
『食事にしましょうなんて、よくそんなことが言えるわね。私なんて息子を失ってこんな苦しい思いをしてるのに。食欲なんてあるわけないじゃない!こんな状態見ながら、姉さんは食べることしか考えないわけ?』
母親の甲高い叫び声。
『私はね、こんなもの子供たちに食べさせたことなんてないわよ、いつだって早起きして、産地のきちんと分かる安全な食べ物だけ使って……それなのに、まともに食べてくれたのは雅人だけ。その雅人がいないのに……。』
罪悪感を覚え、坂下はそれ以上手を付けられなくなる。
「今、もしかしてお母さんのこと考えてた?」
「え?」
鈍感なようでなかなか鋭いことを言う叔母を、坂下は鬱陶しく感じた。
「いや、その、姉妹なのに似てないって思って。」
「そうね、りっちゃんはあの通りこんな大きな子供がいるとは思えないような美人セレブなのに、こっちはただの太ったオバチャンだものね。」
叔母はからからと笑った。
「あなたは、お母さんに似てるわね。」
一番認めたくないことを言われ、坂下は叔母に対する不快感をさらに募らせる。
「母は、あなたのこと嫌っているように見えますが?」
「そうね。嫌ってるというか、許してないというか。」
叔母は少し寂しそうな表情を見せた。
「あたしはさ、若い頃ぐれてたのね。家を飛び出して、ホステスしたりヒモみたいな男につかまったり、挙句に店の金持ち逃げされて、借金抱えて路頭に迷うし。」
「はあ。」
「ずいぶん家族に迷惑かけて、心配させたと思うよ。りっちゃんもそのせいで苦労したと思う。今でもすまないって思ってるのよ。」
濃い化粧の下で、叔母の老けた顔が笑った。
「あたしたちのお母さん、つまりあなたのお祖母ちゃんね。亡くなった時、ほんのちょっとだけど、遺産を残してくれたのよ、あたしとりっちゃんに半々。それがりっちゃんには許せなかったのね。」
「金の恨みですか?」
「愛情の取り方よ。家族のためにあんなに尽くした自分とちゃらんぽらんなあたしが、平等だったのが納得いかなかったのね。お母さんの遺産なんて、結婚したりっちゃんにとってはほんのはした金だもの。こんな金いらない、姉さんにくれてやる、二度と顔見せないでって絶縁宣言されちゃった。」
母親の言いそうなことだと坂下は思った。
叔母に対する母親のあしらいと、それでもなお世話を焼く叔母の関係が、何となく飲み込めた。
母親は叔母のことを『金に汚い』と罵りながら、まるで召使のように言いつけ、感謝の言葉も口にしない。
「あ、でもりっちゃんのお陰でほんとに助かったのよ。りっちゃんが遺産の受け取り拒否したもんだから、それで生活立て直すことができたわけ。りっちゃんにはこの上ない恩があるのよね。」
叔母は立ち上がり、部屋の片づけを再び始めた。
「ちょっとおしゃべりが過ぎたわね。さ、仕事仕事。」
叔母は手際よく兄の遺品をダンボールに詰め、床に雑巾をかけはじめた。
日が暮れる頃、かつて兄の部屋だった場所はほとんどの荷物が運び出され、すっかり様変わりしていた。
兄の痕跡は、もはや部屋には残っていない。
まるで初めから存在していなかったかのようだ。
――灰は灰に、塵は塵に。
空っぽの部屋を見つめながら、そんな言葉が心に浮かぶ。
時が経てば自分の心の中からも、兄は、そして兄のつけた傷は消えてなくなるのだろうか。
坂下は自分の胸に手を当てた。
暁への身を焦がすような思いも、いつかは風化して跡形もなくなるのだろうか。
苦しい。胸が張り裂けそうだった。
兄は死ぬことで苦しみから解放されたのだろうか。
「じゃあ、またね。りっちゃんによろしく伝えておいて。」
駅の乗り換え口で別れ際、坂下は思わず叔母を呼び止めた。
「あの、サチコさん!」
「やだ、叔母さんでいいわよ。なに?」
「昼間のことですけど……」
「昼?」
「母は、兄だけを溺愛していたって言ったこと。あれ、訂正します。」
「ああ……。」
叔母は坂下の言い出したことを飲み込めぬまま頷く。
「母は、兄のことも僕のことも愛してなんかいなかった。」
そう、これっぽっちも。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
兄はこのことに気付いていたのだろうか。
「あの人が愛したのは、自分だけです。」
叔母は何かを言おうとして口を開いた。
だが、言葉は出てこなかった。
叔母は憐れむような瞳で首を振ると、雑踏の中に消えていった。
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