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第23話 白夜の果て

 乾いた風が季節を運ぶ。 埃っぽい空気の中に、幽かな甘い香りと、温もりを感じた。 坂下は部屋の窓を開け、息を深く吸った。 春だ、とぼんやり思った。 ずっと、春になったらやろうと思っていたことある。 坂下は自分の部屋を見回した。 もともとあまり散らかしたりしないほうだが、後々のことを考え、隅々まで片付けた。 新しい世界へ向かうための準備。 自分の行こうとしているところが、どのような場所なのか坂下は知らない。 沈黙と闇の世界なのか、風の吹きすさぶ白夜の氷原なのか、いずれにせよ今居る場所よりはましだと思った。 坂下は財布をダッフルコートのポケットに入れた。 まだ一つ二つ、整理し終わっていないことが残ってる。 急ぐ必要はなかったが、これ以上時間を引き延ばすのも無駄だった。 坂下は靴をはいて玄関を出た。 母親はどこへ行くのかも聞かず、見送りもしない。 母親と最後に口を利いたのはいつだったろうか。 別れの挨拶でもしようかと思ったが、坂下はすぐ考え直した。 自分など、母親にとって初めから亡霊のような存在にすぎない。  冬物のコートの下で、坂下の身体は汗ばんでいた。 よく考えれば、3月も下旬なのだ。 脱ぐのが面倒だったので、坂下は額に汗を浮かべながら歩いた。 着いた先は学校だった。 数週間前のニュースで、地元の高校が一斉に卒業式を迎えたことを坂下は知っていた。 春休み中なのだろう、生徒の姿はほとんど見かけなかった。 教師たちは新入生を迎える準備に追われているようだった。 坂下の姿を見て、担任が目を丸くした。 「退学届け、出しに来ました。」 「そうか……。」 それだけ言うと、担任は困った顔をしてしばらく黙り込んでしまった。 坂下にかけるべき言葉を捜しているようだった。 坂下は簡単な書式に記入し、事由欄に『一身上の都合』と書き込んだ。 「じゃ、これお願いします。」 「ああ。そうだな、まあ、お前は優秀だったから、高校中退したって何とかなるだろ。食うのに困るわけじゃないしな。これから頑張るんだぞ、お兄さんの分までな。何かあったらいつでも相談に来なさい。」 的外れだが精一杯気を使っているらしい教師を、坂下は無言で見つめた。 教師から見れば、自分は相当厄介な生徒だったに違いない。 一つだけ訊ねたいことがあったが、坂下は諦めた。 教師が一刻でも早く坂下から解放されたがっていることは分かっていた。 職員室を出たところで階段を昇り、坂下はかつて自分のいた教室に足を運んだ。 主を持たない机が、整然と並んでいた。 新入生を迎えるため、すっかり片付けられたのだろう。 この教室で、暁と机を並べていたことなど、まるで遠い幻のようだ。 窓際から2列目の、後ろから3つ目……自分の席だった場所を探し出す。 坂下は音を立てないように椅子を引き、腰かけた。 ブラインドから差し込む光が、坂下の胸に感傷を呼び覚ます。 いつも寝てばかりいたわけではない。 寝たふりをしながら、坂下は隣の席を見つめていた。 だらしなく制服を着崩し、窮屈そうに座る暁の面影が浮かぶ。 胸が疼いた。 あの頃は、横顔を見ているだけで幸せだった。 目を閉じても、時間は戻らない。 坂下はコートのポケットを探った。 財布が入っているのとは別のもう片方に、輪ゴムで束ねたシートを確かめる。 プラスチックの凹凸の中に納まった青紫色の錠剤は、睡眠薬だ。 兄の荷物を整理したときに見つけたものだった。 兄がそのようなものを服用しているとは思いもしなかった。 坂下は、家の中で自分だけがおかしいのだと思っていた。 夜に怯え、眠ることができない自分を、異常だと責めた。 だが、眠れなかったのは自分だけではなかったのだ。 ――兄さんも夜が怖かったの? 問いかけても答えは返っては来ない。 夜毎、自分の布団に潜り込んできたのも、怯えていたからなのだろうか。 兄は自分に救いを求めていたのだろうか。 自分が生まれる前、兄はどのような思いで夜を過ごしたのだろう。 不仲な両親を見ながら、押しつぶされそうな不安を抱えていたのだろうか。 幼い頃、兄は坂下のすべてだった。 利発で聡明な兄は坂下の理想だった。 家族の中で、唯一坂下に愛情をかけてくれた。 だが、やがて兄弟の愛情はねじれていった。 兄の愛情は執着と支配へと形を変え、坂下の兄に対する憧れもまた、兄への不信と自分への劣等感にすりかわった。 坂下にとって兄は、強くて圧倒的な存在だった。 ずっとそう思っていた。 それなのに、本当は自分と同じ、弱くて臆病な人間だったというのか。 兄が生きていてくれたら、と坂下は思った。 兄が自分にしたことは許せない。 だが、もし兄の心を知ることができれば、兄と分かり合うことができたならば、行為は許せなくとも、いつか兄のことを許せたかもしれない。 兄を許したかった。 許すことで自分も救われたかった。 だが、全ては手遅れだった。 兄の気持ちなど坂下は知ろうともしなかった。 坂下は兄を許せず、兄は自ら命を絶ってしまった。 坂下は錠剤のシートを握り締めた。 これは兄の最後の言葉なのだ、と坂下は思った。 兄は自分の姿を知って欲しかったのだ。 睡眠薬は、兄の残した最後の遺言、自分に当てた片道切符。 薬を手にし、坂下は漠然と春になったら旅立とうと思ったのだった。 卒業式には一足遅れを取ったが、門出にはふさわしい季節だと思う。 本当は、1ヶ月以上も前から準備はできていた。 それでも3月に入ったら、と先延ばしにしていたのは、決して怖かったからではない。 未練だった。 退学届けなどどうでも良かった。 もう一度だけ、暁の面影に触れたかった。 自分と暁が同じ場所に存在していたことを確かめたかった。 教室には何も残っていなかったが、記憶は鮮明だった。 暁の声も、眼差しも、すべて瞼に焼き付いている。 それだけで十分だった。 もう思い残すことはなかった。

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