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第24話 新世界

 坂下は階段を降り、昇降口へと向かった。 「おや、お前、加藤先生のクラスの問題児じゃないか?」 不意に背後から声をかけられ、坂下は振り向いた。 立っていたのは、ぼさぼさ頭の美術教師だった。 坂下は少し意外だった。 大概の教師は、厄介なことに巻き込まれるのを嫌い、坂下とは関わろうとしなかった。 「おー、そうだそうだ、大野とよく一緒にいたよな。久しぶりだなあ、ちょうどいい。見せたいものがあるから、ちょっと美術室に寄っていけや。コーヒー淹れてやるから。」 断る口実を見つけられぬまま、坂下はそのまま後をついていった。  北向きで日当たりの悪い美術室は冷え冷えとしており、そこだけが春から取り残されているようだった。 「寒いな。」 美術教師は坂下を準備室に案内すると、ヒーターの電源を入れ、坂下に席を勧めた。 何年も洗ってないかのように色素が付着し真っ黒になったマグカップと、これまた茶渋のこびりついた湯飲みを取り出す。 その二つに黒い液体をなみなみ注ぐと、美術教師は坂下に湯飲みを渡した。 湯気の立つ茶碗を、坂下は両手で覆った。 どろりと煮詰まったコーヒーを飲む気にはなれなかったが、冷えた指先がじんわりと温かくなった。 手のひらに伝わる温もりが、坂下の心を少しだけ柔らかくした。 「あの…」 坂下は一つだけ気になっていたことを、思い切って訊ねることにした。 「大野君は、どこに進学したんですか?」 「してないよ。東京に就職した。」 予想していなかった答えに、坂下は一瞬動揺する。 「なんで?」 「家庭の事情だろ。」 「経済的なことですか?」 思い返せば、暁はいつもアルバイトをしていた。 「もしかして、あいつが自分で生計立てていたこと、知らなかった?」 「一度も、そんなこと……。」 そもそも、他人の家庭のことなど聞きたいとも思わなかった。 「ま、無理はないわな。お前は自分の悩みだけでいっぱいって面だしな。」 「てっきり絵のほうに進むもんだとばかり思ってた……。」 責められているような気がして、坂下は言い訳のように呟いた。 「絵なんざ、よほどの物好きじゃなきゃやってられんぞ。金食うわりには、ちっとも儲からん。」 「特待生とかそういう制度は利用できなかったんですか?」 美術教師はぷっと吹き出した。 「仮にあったとしても、あいつには無理だろうよ。あのレベルじゃな。そもそも真面目に絵を描こうなんて思ってないし。いや、俺はあいつの絵、好きだけどな。まあ本気で目指せば、一浪二浪してどっかの私立に引っかかるかもしれんがな。あいつだって自分の実力がどの程度かは、分かってたはずだぜ。」 坂下は改めて、暁のことを何一つ知らなかったのだと気付いた。 家や絵のことばかりではない、暁がどのような生き方をしようとしているのかも、何一つ知ろうとしなかった。 「そうそう、絵を見せようと思ったんだよ。ほら、これ。」 壁にもたせかけた幾つものパネルの中から一つを取り出すと、美術教師は坂下に差し出した。 淡い暖色系で彩られた人物画だった。 「なかなかいい絵だろ。あいつ、卒業制作だって置いていった。これで最後だとよ。ちょっともったいない気もするがな。」 坂下は、暁の絵を手に取り、じっと見つめた。 「こんな地方じゃ景気も今ひとつだしな、真面目に公務員でも受けてりゃどうにかなったのかもしれんが、いかんせん本人がいつまでもフラフラしてたからな。この時期になってまっとうな就職先が見つかったんだから、地元離れようがなんだろうが運は良かったほうだろう。もう絵を描く気はないって、あいつ、絵の具から何から全部置いていきやがった。」 坂下は、ただ無言で絵を見つめた。 描かれた人物のまどろむ横顔は、童女にも若い男にも見える。 優しさと静けさを感じさせる絵だった。 「仕方なくあいつの荷物を整理していたら、一つだけ分かったことがあったよ。」 坂下は差し出されたスケッチブックをめくった。 中はおびただしいデッサンで埋め尽くされていた。 どれも、見覚えのある顔だった。 「ほら、作品じゃわざと分かんないように特徴ぼかしてるっていうか、中性的な感じに仕上げてるだろ。てっきり彼女かと思ったんだ。それがどうだ、コレ見て初めて野郎だって気付いたよ。しかしまあ、なんとも無邪気な顔で寝るもんだな。青白い顔してふらふら歩いてる姿からは想像つかなかった。」 胎児のように手足を丸めて眠る姿、無防備に口を開けたままの顔、そして笑顔。 「これ、俺?自分がこんな顔して眠っていたなんて、俺、知らなかった……。」 坂下は自分の顔が嫌いだった。 朝の身支度を整えながら覗き込む鏡には、いつも陰気で貧相な青白い顔が映っていた。 違う人間になれたらどれほど良いだろう、と見るたびに思った。 このように安心しきって眠る自分がいるなどとは想像もしなかった。 暁は、一体どんな眼差しでこのような表情を写しとっていたのだろう。 一瞬胸が高鳴り、すぐにそれは締め付けられるような痛みにとって代わった。 涙が溢れる。 涙腺などとうに凍てつき涸れ果てたと思っていた。 失ってしまったものの大きさを、改めて思い知る。 思い出だけで十分だなんて嘘だ。 何故自分は性懲りもなく、自らを偽り続けてしまうのだろう。 美術室で過ごしたあの夏に帰りたかった。 だが、どれだけ悔やんでも、時間を巻き戻すことはできない。 実らぬ想いに身を焦がし、朽ち果てていくのを待つことしかできない。 「なあ、お前はあいつと違って、経済的な悩みとは無縁だろうけどな、だが家庭がまともじゃないのは、なんとなく分かる。お前の兄貴が亡くなった理由、お前は知っているのか?」 美術教師は、声を殺して泣く坂下を慰めるでもなく、淡々と訊ねた。 坂下は無言で頷く。 「そうか…。それは、お前が授業中いつも起きていられなかったり、学校にこなくなっちまったことと、つながっているのか?」 どう言葉にすればよいのかもわからず、坂下はただ沈黙したまま俯いた。 「すまん、嫌なこと聞いちまったな。」 坂下は首を振った。 むしろ聞かれることをどこかで望んでいたのかもしれない。 誰に助けを求めればよいか分からなかった。 暁は初めて坂下に手を差し伸べてくれた相手だった。 だが、いつか振り払われるのが怖くて、その手を掴むことができなかった。 「なあ、お前はもう18なんだろ。子供じゃない。子供は生まれてくる家を選べない、けどな、大人になれば自分で生き方を選ぶことが出来る。大野みたいにな。 あいつは強いよ、自分の『不幸』にいじけたり酔ったりしない。俺があいつの立場だったら、もっともっとぐれるところだよ。」 もう一度取り戻したい、あの温もりを、あの眼差しを。 時間を巻き戻すことが出来ないなら、せめて――。 「この絵、もらえませんか?」 気がついたら、坂下は美術教師に頼み込んでいた。 「はあ?」 「お願いです、お金は払います。どうしても、俺にはこれが必要なんです。」 「金?アホか。自分で稼いでもいない奴が何言ってやがる。」 「じゃあ、どうすれば譲ってもらえますか?何をすればいいですか?何でもします。本当に何だってやります。俺にはもう何もない、もう何一つないっ、だから、お願いです、せめてこれだけ……。」 しゃくり上げながら懇願する言葉に偽りはなかった。 援交でも何でも、しろと言われたらするつもりだった。 絵を手に入れるためなら、何でもやるつもりだった。 美術教師は呆れ顔で坂下に言った。 「あいつは俺に処分を任せたんだ。焼くなり煮るなり勝手にしろってな。お前の都合なんて知ったことか。そんなに欲しいなら、俺じゃなくてあいつに言えよ。お前が直接あいつに頼んで、もうひとつ描いてもらえばいいだろう。」 「ちょく…せつ?今更、そんなことっ…どうして……」 「俺に頼むなよ、俺は与えてやれん。いい加減気づけ。」 美術教師は苛立ったように言い募る。 「目を開けてきちんと見ろ、お前の欲しいものなんてここにはない。 だけど、その目があれば、どこにいようがあいつを見つけ出せるんじゃないのか?声があるならあいつの名前を呼べよ。足があるなら追いかけろ。その手であいつを捕まえればいいじゃないか。 お前には何もない、なんていったい誰が決めたんだ。」  突如、目の前が明るく開けたような気がした。 窓は開いている、目の前に青空が広がっている。 なぜそのことに気付かなかったのだろう。 「あいつ……あいつは、どこに行ったの?」 美術教師はやれやれとばかりにため息をつくと、引き出しからハガキを一枚取り出した。 「ほら、やるよ。」 教科書か何かで見たことのある絵画のポストカード。 簡単な挨拶と近況が汚い字で殴り書かれている。 礼さえもまともに言わぬまま、坂下は美術室を飛び出した。  夜明け前の空を、坂下は部屋の窓から見つめていた。 一晩中眠らないまま、いつもと同じ夜を明かす。 闇に怯えながら眠れない夜を数えた日々を思い出す。 ひゅぅっと風がうなり、窓をがたがたと揺らした。 坂下は部屋のドアをそっと開けて廊下を覗き見た。 誰も居ない。 兄の姿はない。 自分を脅かしたものは、もういない。 自分を縛り付けるものなど、どこにも存在しないのだ。 坂下は机の抽斗を開けた。 薄紙に大切に包まれた絵が横たわっている。 夜明けの街を描いた絵――暁からもらったものだ。 坂下はしばしその絵を見つめたが、やがて決心したように再び抽斗の奥へしまいこんだ。 今は置いていこう、と思う。 カチャリ、と鍵をかけポケットに仕舞う。 本物の夜明けを探しに行くのだ。 だから、絵は必要ない。 坂下はずっと夜が怖かった。眠ることもできないほどに。 閉ざされた暗闇の中で、朝を待ちわび、必死に青空を手探っていた。 陽の射さない世界から、自分は逃げ出すことなどできないと諦めていた。 だが、閉ざされていたのは自分の心だった。 明けない夜などないのに、そのことに気付かなかった。 自らの目を塞ぎ、なに一つ見ようとしなかった。 愚かな盲目の囚人。 坂下はわずかな着替えと手持ちの現金を詰め込んだバッグを手に、コートを羽織った。 ポケットに違和感を覚えて手を突っ込み、中身を確かめる。 存在すら忘れていた睡眠薬の束を発見し、思わず苦笑いしながらゴミ箱に放り込んだ。 坂下はそっと玄関を出た。 日が昇る前の空気は冷たく、吸い込むと鼻や喉の奥をちりちりと刺激した。 吐く息が白い。 手に握り締めたハガキ、まだ見ぬ土地の住所。 坂下は振り返ることなく、朝焼けに向かって足を踏み出した。

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