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第25話 月が満ちる夜
引っ越して10日、すでに慣れた道を暁は歩いていた。
妹の中学の卒業式を見送った後、暁はほとんど身一つで上京した。
妹の聡美と一緒に暮らした公営住宅も、今頃は引き払われている算段だ。
聡美は合格を果たし、全寮制の高校に入学する手続きもすでに済ませた。
暁も聡美も、帰る場所を求めるような感傷は持ち合わせていない。
今いる場所から前に進むことだけを考えなくてはならないのだ。
小さな商店街を抜け住宅の並ぶ路地に入ると、甘い沈丁花の香りが鼻をかすめた。
東京ではすでに桜の開花宣言がなされ、週末には見ごろを迎えるという。
自分には関係ない、と暁は思った。
桜の花も、まぶしい青葉も、月の光が冴えわたる夜空も、ただ自分のそばを通り過ぎるだけだ。
アパートに着くと、月に照らされ、見慣れぬ黒い塊がドアの横に見えた。
誰かがゴミでも置いていったのだろうか。
いぶかしく思いながら近づくと、塊がのそりと動き、ぎょっとした。
薄暗い街灯に照らされた顔には見覚えがあった。
「こんなところで何してるんだ?」
駆け寄る暁を、坂下は放心したような顔で見上げた。
「…ああ、良かった。場所、本当にここでいいのか不安になってたんだ…。」
玄関横にうずくまる坂下に手を伸ばすと、坂下はその手を掴んでゆっくりと立ち上がった。
坂下の指は冷え切っていた。
駅から歩くには体が温まるちょうどよい距離だが、日が暮れれば気温はまだ冬の余韻を残していた。
「いつからここで待ってたんだよ…」
暁は慌てて玄関の鍵を開けた。
暖房を入れ、押し入れから毛布を取って差し出すと坂下は素直に受け取ってくるまった。
「腹減ってないか?カップ麺くらいしかないけど。」
坂下は首を振る。
「待ってる間にコンビニで買って食べた。でもちょっと喉が渇いたかな。」
暁は少し迷ったが、ポットで湯を沸かした。
妹が小さなスティック状の袋に入ったカフェラテやレモネードをよく嗜んでいたのを思い出したが、そのような気の利いたものは何一つない。
冷たい水道水よりはマシかとそのままカップに注いで差し出した。
坂下は湯気の立つカップの中身に一瞬目を丸くしたが、息を吹きかけ覚ましながら、静かにすすっていた。
ぎこちない沈黙が流れる。
聞きたいことは山ほどあった。
なぜここにいるのか、どうやって居場所を知ったのか、今までどう過ごしていたのか、どんな気持ちでここに来たのか。
だが、何から言葉にすればよいのかわからず、暁はただ黙って小さな折り畳み式のテーブル越しに坂下と差し向いに座った。
坂下は白湯をすすりながら、時折口を開きかけたが、やはり言葉は出てこない。
しばらくそうしているうちに、先に言葉を発したのは坂下だった。
「…隣に座ってもいい?」
「あ、ああ。」
暁はかすれた声をごまかすように咳払いをした。
坂下は毛布を置いて暁の横に腰を下ろした。
畳についた小指が触れ合う。
一瞬ピクリと体が動き、暁が手を引っ込めた。
坂下は取り戻しかけた温もりがすうっと引くのを感じた。
美術室で見た絵に、勝手に一人で舞い上がってしまった自分を恥じた。
相手の都合も考えず突然押しかけてきた自分はなんと浅はかなのだろう。
図々しさに、暁は物も言えないほどあきれ返っている。
いたたまれない気持ちで固まっていると、不意に肩が温かさで包まれた。
そのままぐっと引き寄せられる。
坂下の体は暁の両腕にかたく抱き取られていた。
坂下は暁の表情を見ようと思ったが、目にはもう何も入らなかった。
瞳に映るすべてが滲んでいた。
嗚咽がこみ上げる。
言葉にならない感情に坂下は身を任せた。
(誰かが泣いている…)
遠い意識の中で、嗚咽が聞こえていた。
(大丈夫、怖くないから。ずっとそばにいるから…)
(もう泣くことはないんだ、独りじゃないから…)
坂下はゆっくりと目を開けた。
まだ薄暗いが、カラスの鳴き声が聞こえる。
「朝…?」
いつもの感触とは違う布団。
坂下は寝返りを打ち体の向きを変えた。
ザーッと水音が聞こえた。
キッチン横のすりガラスの折れ戸から光が漏れていた。
やがてシャワーの音が止み、中から暁が出てきた。
タオルで頭を拭いている
全裸だった。
まだ完全に目が覚めていない坂下は目をそらすこともできず、ただ茫然と暁を見つめていた。
「あ、わりぃ、いつもの癖で。」
暁は一瞬ばつの悪そうな顔をしたが、裸のまま坂下の脇を通り、押し入れの中の衣装ケースを探る。
トランクスとTシャツを取り出し、身につけると坂下の隣に胡坐をかいた。
指がそっと坂下の頬に触れる。
「痩せたよな。」
坂下は頬をなぞる手に自分の手を重ねた。
「俺、あのまま寝ちゃったんだ…」
「うん、俺もそのまま一緒に寝てた。風呂入る?風呂ってか、シャワーしかないけど」
「あとでいいよ。」
一分でも一秒でも、暁と離れていたくなかった。
たとえ同じ屋根の下でも。
「泣き止まないから心配した。」
「ごめん。自分でも、なんで泣いていたんだか…ただ、暁の腕が温かくて、うれしくて。たとえ同情でも…そのぬくもりを体に刻み込んで…そうしたら、ずっと生きていけるって気がして…」
坂下に触れていた暁の指が、そのまま頬をつねった。
「お前って相変わらずバカ。同情なんかで抱きしめたりしねーよ。悪ふざけで抱けとか、なんでそういうことばっか言うんだよ。」
坂下の瞳から再び涙があふれ出る。
「信じて…いいのかな。」
「ごめん…」
暁は痛ましい顔つきで指を伸ばし、坂下の頬を伝う涙をそっと拭った。
「何もかも、俺のせいだ。お前が一番つらい時に、俺はお前から逃げたんだ。
俺から受けた仕打ちを考えたら、そう思うよな。俺、ほんと、最低だ。後悔してる。どれだけ謝ったって足りないって思ってる。
だけど、信じてもらえないかもしれないけど、今度こそお前のこと離さない。こうやって再会したら、もうお前なしで生きていくなんて、やっぱり無理だって気づいた。」
「ちがう、暁のせいじゃない、そういう意味で言ったんじゃないんだ。」
坂下が慌てて言い返す。
「俺、そういう意味で言ったんじゃない。信じられないのは、自分自身っていうのかな…。俺のほうこそ、いつも逃げてたんだ。自分の問題なのに、誰かに分かってほしいって思うだけで、何も考えようとしなかった。ただ自分の中に閉じこもるだけで。まだ、自分でもよくわからない。どうすればいいのか、どうしたいのか。わかったことは、暁のそばにいたいってことだけ。」
暁の顔が近づき、坂下の唇がふさがれる。
坂下が暁の背中に両腕を廻すと、暁の身体はそのまま坂下の上に重なり倒れこんできた。
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