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最終話 きらめく光
日は昇り、日は沈む。
繰り返し、新しい予感の朝が訪れ、甘い眠りを誘う夜が訪れる。
暁にとって、月日はすべてを奪いながら去りゆくものだった。
だけど、今は違うと感じる。
追い風のように、少しずつ前に背中を押しながらやってくるものなのだ。
坂下はリハビリと称し、叔母の経営するスナックで週末に働き始めた。
ボーっとして気が利かなそうだし、コミュニケーション能力も高くは見えない。
水商売などとても務まらないのでは、と当初は心配したものだが、一度暁が様子を見に行けば、叔母のフォローもあり仕事をこなしていた。
本来、勉強好きの読書家なので、それなりの知識で店の常連客ともうまく話を合わせているようだった。
「結構、肉ついたよな。」
暁は、情事の余韻に浸りながら裸のまま寝そべる坂下の臀部をわしづかみにして揉みしだいた。
「食べるようになったし…そんな太ったかな…って、触り方がエロいんだけど。」
「デブって言ってねーし。筋肉がついてきたんだよな、ここら辺とかも。」
坂下は少し前に中古のクロスバイクを譲り受け、電車を乗り継ぐと1時間はかかる叔母の店までの道のりを通うようになっていた。
日に灼け、叔母のところで出されるまかないも残さず食べているらしい。
以前の不健康な面影はない。
暁は坂下の大腿部や内腿に手を這わせ、薄く引き締まった筋肉のラインを指でなぞった。
「マッチョ嫌い?」
「マッチョのレベルにはまだまだだから。でもいい感じ。素股の時とか、ホールド力アップしてるし。」
「バカ、そういうスケベな喩えはいいから…」
「明日は本番お願いしたいんだけど。」
「だから、もう…」
坂下は顔を真っ赤にして顔を枕に埋める。
他愛のないピロートーク。
ささやかな幸福がどこまでも続いていく。
薄明の空の下、暁と坂下は肩を並べ、川べりの遊歩道に設置されたベンチに腰かけていた。
アパートから20分ほど歩いたところにある河川敷だ。
黒々とした水面から、滔々と水の流れる音だけが聞こえている。
「寒くないか?」
「うん、平気。」
初夏とはいえ日の出前の川沿いは冷える。
暁は坂下の手を取ると、握ったまま自分のウインドブレーカーのポケットに突っ込んだ。
次第に空気が明るく染まる。
遠くに見えるマンションや鉄橋のシルエットが浮かび上がる。
水面から立ち上がる朝靄がきらきらと光を乱反射した。
青紫の未明の空はいつしか金色に輝いていた。
「ああ…」
坂下が小さく声を漏らす。
「…なんて美しいんだろう。空も雲も…」
「絵なんかと比べもんにならないだろ。」
「もう…なんか、言葉にならないな…。東京ってすっごい都会で雑多で、空なんて見えないのかと思ってた。」
「場末だろうが掃きだめだろうが、太陽は昇るんだよ。朝陽はすべてを照らすんだ。」
暗闇に怯えて蹲る人間にも、どん底で這うしかない人間にも、夜明けは訪れるのだ。
やがて日は高くなり、金色の雲は色褪せ、空は淡い水色へと変わりゆく。
犬の散歩やランニングをする者の姿が現れ始めた。
「ほんとに…すごいきれいだった……あっという間。」
「いつだって見られるさ。行くか?」
立ち上がりながら、暁は坂下の手を引く。
「うん…ああ、世界中の朝日を見に行きたいな。」
目を細めて遠くを見ながら笑う横顔に、暁は連れてきてよかった、と思う。
でも、世界中に連れて行くのは無理だ。
「朝、起きられないだろ。今朝だって一苦労だったんだぜ。」
前日、気象予報士の『明日はきれいな朝焼けが見えるでしょう。』という言葉で思い立ったものの、布団の中でいつまでもぐずぐずしている坂下に、今日は間に合わないと、半分諦めかけたのだ。
「だって、それは、暁が昨夜…」
坂下が言いかけて慌てて口を噤む。
「俺が、なに?」
暁が口の端を上げてニヤリと笑うと、坂下は顔を赤らめて俯いた。
「昨夜、俺が?俺の何が問題だった?」
耳に唇を寄せ、息を吹き込むように尋ねる。
「もう、いいから!」
赤い顔で拗ねたようにそっぽを向く。
「昨夜…ねえ。あんなに満足してぐっすり眠ってると思ってたのに、不満があったとは…。今夜こそ頑張って埋め合わせするしかないか。」
額を右の掌に埋め、悩むようなポーズを取る。
「もう、暁はしつこい!」
「しつこかった?昨夜のエッチのこと?物足りなくて不満なんじゃなくて、しつこかったから怒ってんの?」
坂下の足が上がり、暁の尻に軽く蹴りを見舞う。
「せっかくの感動が台無しじゃん!もうやだ、こんなドスケベの絶倫野郎…」
「せめてタフって言ってくれよ。あれ、おい、どこ行くんだ?」
坂下は暁を置いて川沿いの遊歩道を河下に向かって歩き始める。
「ずっとこのまま行ったら、海まで行けるかな。」
「いやいや、それ、無理だって。」
「行けるところまで行ってみようよ。」
「おい、待てって。」
雲の間から差し込む光が、川の水面をきらめかせる。
1時間以上歩いただろうか、汗ばんだ体に初夏の風が心地よい。
朝から早起きして散歩なんて、あまりにも健全すぎる休日。
ほんの数カ月前まで、一人でどのように過ごしていたかすら思い出せない。
「そういえば、店の常連に小林さんているんだけどさ。個人事務所経営してて…」
「ああ。」
坂下のとりとめのない話に暁は相槌を打つ。
「事務のアルバイトやらないかって。平日週3日なら、店手伝いながら大丈夫かなって。」
「ふーん、自分で決めたならいいんじゃねーの?」
「で、空いた日に勉強して、そのうち大検受けようと思うんだけど。」
「へえ。大学行くの?」
「まだそこまでは。でも俺、高校中退しちゃったから中卒なんだよね。小林さんは、働きながら通信制の大学行けばって。サチコさんもそれがいいって。」
暁は小石を拾うと、川面へと投げた。
水を切りながら5回、6回と水面を跳ねていく。
「俺も、今度大型の免許取ろうかなー。」
「そういえば前に乗せてもらったよね。」
坂下も真似をして水切りを飛ばす。
「あの時、ちょっとカッコよくてドキドキした。」
「さすがに社会人で無免許はやばいからな。」
「あはは、退学は平気なくせにクビはいやなんだ。」
「俺はちゃんと卒業したぜ、お前と違って。」
「ちぇーっ、偉そう。」
高校時代は、こんな話題で笑う日が来るなどとは思いもしなかった。
「ああ、ボーナス出たら中古でいいから買いてーな。」
「後ろ乗せてよ。バイトの送り迎えして。」
「お前はチャリンコ漕いでろよ。」
自分たちが未来の話をしている。
「そういえばヤブの兄貴って大検受けたんじゃなかったかな。今度連絡とって聞いてみっか。」
「藪くん!うわ、懐かしい!!何してるの?」
「浪人中。でも予備校で彼女できたってさ。大丈夫なのかな、あいつ。」
「会いたいなあ、藪くん。バイク買ったらそれに乗って会いに行こうよ。」
坂下が笑う。
屈託のない笑い。
肩を寄せ合い、二人で笑う。
二人で未来を語り合う。
苦い過去は淘汰され、かけがえのない思い出だけが手に残る。
哀しい朝焼けも、眠れない夜も、遠い記憶の彼方に去っていく。
きらめく日々だけが訪れる。
fin.
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