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第1話
「いい加減起きろ、閑」
布団の上から何かずしりと体重がかかった気がして、逢坂はまだ眠い目を開けた。すると布団に包まっている自分の体を踏みつけるようにして、柴田がこちらを見下ろしているのと目が合う。その目が少し吊り上っているから、怒っているのだろうと寝ぼけた頭で考える。踏まれた足首をほとんど無意識のままで掴むと、何を察知したのかさっと柴田の顔色が変わって、ばっと足を引くとベッドから飛び降りた。そんなに強く掴んでいなかったせいで、逢坂の手の中から柴田の細い足首はするりと抜けていた。少しだけ勿体ないことをしたと、逢坂は空になった手のひらを見ながら思う。逢坂は柴田が嫌いな痩せて細くなった首や手首や足首が好きだった。布団の上から重さが消えると、逢坂は上半身をゆっくり起こして、床に降り立った柴田の方を見やった。柴田はそこで目を吊り上げるのを止めて、困ったような顔をしている。
「もうちょっと優しく起こしてよ、侑史くん」
「お前が起きないからだろ」
「なんでそんな早起きするのー?休日なんだからもうちょっと寝ようよー」
ベッドの中に半分足を突っ込んだまま、柴田の方に手を伸ばして腰を抱くと、柴田が呆れたように溜め息を吐いた。一応咎めているつもりなのか腕を掴まれるが、柴田は痩せているせいで余り力が強くないので、抵抗らしい抵抗にはならない。それに応えるみたいにぎゅっと腰を抱く腕に力を込めると、一層はっきりした溜め息が頭上から聞こえた。その答えが柴田の考えているものと違うのは逢坂もよく分かっている。柴田は寝巻代わりのTシャツを脱いで、綺麗なシャツに着替えていた。何処かに出かける気なのだろうかと考えながら、逢坂はそのシャツを捲って、柴田の痩せた腹に唇を寄せて、きつく吸った。
「やめろ。朝から」
「侑史くんそんな綺麗なカッコして、どっか行くの?」
「あー・・・うん。買い物行く」
言いながら柴田は、すうっと自然な動作で何故か逢坂から視線を反らした。金曜日に柴田の部屋を訪れて、そのまま土日居座ることも多かったが、逢坂が部屋にいる時に限って言えば、柴田は余り出かけなかった。そもそも柴田は休日には余り活動的ではない人で、それこそ昼まで眠っていたり、部屋の中でぼんやりテレビを見ていたりすることが多かった。平日遅くまで仕事をしている反動なのかもしれないと思っていたが、いよいよやることがなくなるとパソコンを開いて仕事をはじめるのだから、本当に仕事が好きで好きで堪らないのだろうとその猫背を見ながら、逢坂はひっそりと少しだけ寂しい気持ちを引き攣れて思っている。柴田が部屋に籠って休日を過ごすので、逢坂も柴田の部屋にいる時は余り積極的には部屋を出なかった。この部屋にいる限り、逢坂は食事を作る担当であったので、ひとりでスーパーに買い物に行くことくらいはあったが、それも必要に迫られなければしなかった。平日のやや無茶な労働を忘れるみたいにぼんやりする柴田の隣で、逢坂もその柴田の横顔を飽きずに眺めていることが多かった。逢坂はそういう何でもない時間を過ごせることを、それはそれで愛していた。
「へー、珍しい」
「しずも来る?」
視線を反らしたまま柴田が言う。これを迷っていたのだと、逢坂は柴田の顔を下から見上げるようにしながら思う。そんなこといちいち、迷わなくても構わないのにと、柴田には見えていないところで逢坂は唇を歪めて笑う。そしてもう一度シャツを捲って、柴田の腹に唇をつけた。するとびくりと柴田の体が腕の中で驚いたように跳ねる。相変わらず良い反応をする。じりっと背中の神経の一部が痺れるのが分かる。昨日散々良いようにした後だったが、逢坂はそのまま柴田をベッドに引きずり込みたい衝動と水面下で争っていた。それが分かったのか、柴田が意図的に反らした視線が戻ってきて、それがきつく逢坂を睨む。
「うん、行くー」
何か小言を言われる前に、逢坂はそれに満面の笑みで答える。すると柴田は睨んでいたきつい目をゆっくり優しい目に変えて、少しだけ微笑む。柴田が自分のこういう無邪気な笑顔を好きでいてくれていることを、逢坂は何となく知っている。時々馬鹿なふりをして笑うと、柴田がそれに対してひどく優しい顔をするので、逢坂はそれが見たくて時々わざと馬鹿なふりをして笑ってみる。逢坂が意図的にやっていることを、多分柴田はまだ知らない。勘のいい柴田のことだから、いつか露見するだろうけれど、暫くはこのままでいてくれればいいのにと逢坂はひとりで考えている。柴田の腰を離して、よやくベッドから起き上がる。立ち上がると、柴田より少しだけ視線が高くなる。つられて視線を上げる柴田の唇の端に、わざと端にキスして逢坂は笑った。
「侑史くん朝ご飯食べた?」
「もう朝なんていう時間じゃないぞ」
「じゃあお昼も一緒にして、なんか軽いもの作る」
するりと柴田の隣を離れて、逢坂はリビングへの扉を開ける。振り返ると柴田は何か思うところがあるのか、唇を親指でなぞっている。意地悪しないでちゃんとキスすれば良かったかなとそれを見ながら思う。すると不意に目が合って、柴田は吃驚したようにまた肩を震わせた。一体何を警戒しているのか分からないが、柴田は未だに逢坂が触れようとする素振りを見せると体をびくりと震わせる癖がある。
「なんだよ」
「んー・・・侑史くんすぐ出るつもりでいた?ちょっと時間かかってもいい?」
「・・・別に急がないからいいけど、朝からそんな色々食べられないぞ、俺」
眉尻を下げてやや申し訳なさそうな顔をして、柴田が言う。柴田がいつから起きているのか知らないが、きっと起きてから水を飲んだくらいで平気な顔をしているに違いなかった。3食きっちり食べたい派の逢坂にとっては信じられないことだったが。柴田が偏食なのは、よく分かっていた。彼の前でコンビニ店員でしかなかった時代から、柴田の食生活が偏っていることは、買っているものから勝手に想像しても分かるほどだった。柴田は偏食それ以前に、食に興味がないのだと知るのは、それから随分後になってしまったが。けれど逢坂が作ったものは比較的良く食べて、残したことは今まで数えるほどしかない。それは多分柴田の元来持ち合わせた真面目さが、折角作ってくれたものを残してはいけないと思って、そうしているのだろうと半分では理解しながらも、あと半分では逢坂は自分の都合の良いように、それを理解することにしている。
「侑史くんが食べない分は俺が食べるからいーよ。フレンチトースト作る、卵あったよね?」
「あぁ、うん。多分あると思う・・・」
言いながら柴田が寝室から出てくる。聞かなくても柴田の家の冷蔵庫に何が入っているか、柴田自身よりも逢坂の方がよく分かっている。急に黙った逢坂に気付いて、訝しそうに柴田が逢坂を見上げる。逢坂はわざと緩慢に動いて柴田の小さい顎を掴んだ。そうしてそのまま今度は唇にキスをする。ふっと顔を離すと、柴田はそこで何故かバツの悪そうな顔をしている。
「おはよう、侑史くん」
「あー・・・うん、おはよう」
そしてまた視線を反らして、柴田は口の中でもごもごと言う。柴田は挨拶を律儀にきちんとする人だった。元来の真面目さがそうさせるのだろうけれど、年下の逢坂に対しても余り気取ったところがなく、ありがとうもごめんもきちんと言える人であった。コンビニの店員でしかなかった頃、逢坂はそういう柴田の律義で誠実なところが好きだだった。勿論今でも柴田の好きなところのひとつなのだが。
「ごめんね、意地悪して。キスは口がいいよね」
「・・・何言ってんの、お前」
「だって侑史くん、さっき物足りなそうな顔してたもん」
「してない、してません。まだ寝てんのか、お前」
呆れたように眉間に皺を寄せて、柴田はまだ何か言い足りないような顔をしている逢坂の背中を押しやった。逢坂が笑ったのが手のひらから伝わってくる。
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